二人の揺振 2
如月と帰宅した佳子は、おかずやご飯の用意を始める。ただ、用意と云っても、電子レンジで温め直すくらいだったが。
一人暮らしになった時は、食事の支度について右も左も分からない佳子だったが、その当時と比べて今はずいぶんと手際が良くなっている。
居間の食卓の上に如月がワインのような瓶を三本も置いていた。
そのうちの一本のアルファベットで書かれているラベルを読むと、佳子でも知っている有名な銘柄である。
「シャンパン……!」
驚きのあまりに声が出てしまった。
「そんなに見つめなくても、お酒は逃げないよ?」
しみじみと呟いた佳子の言葉が可笑しかったのか、如月は楽しそうに笑いながら、佳子の前の食卓にグラスを並べてくれる。
彼にからかわれて、佳子は急に恥ずかしくなった。
「嫌だわ、私ったら。そんな目で見ていた?」
質素な生活を続けていくうちに、いつの間にか浅ましくなってしまったのだろうか。佳子はまだ恥じらい深い年頃のはずなのに、慎みがなくなったようで少し悲しくなる。
「フフ、そんな正直なところも可愛いよ?」
「え!?」
佳子は言われたキザな台詞に驚くと同時に動揺してしまう。顔が思わず赤面してしまい、正面に座った如月に視線を送る。
如月は相変わらず余裕そうな態度で麗しい笑みを浮かべているので、いつものように自分は揶揄われているのだと佳子はすぐに気付いた。
「もう……! 如月みたい人がそういうことを言うと、心臓に悪いじゃない」
春人に続き、如月までもが色恋について語り出したらどうしようかと、佳子は一瞬不安に思ってしまったが、杞憂でなりよりだ。
「人の褒め言葉は素直に受取ろうよ?」
冗談で返した佳子に、如月は苦笑しながら言い返してきた。
「ハイ、アリガトウゴザイマス」
佳子は棒読みで礼を言って、話を終わりにした。食事を開始しないと、肝心のお酒が飲めないからである。
如月が慣れた手つきでボトルの栓を抜くと、用意されていたグラスに注いでくれた。
「かんぱーい」
形式的にグラスを軽く持ち上げて、軽くグラス同士を触れ合う。小気味良い音が居間に響いた。
佳子が一口飲んでみれば、芳醇な香りが広がり、さらに甘口で飲みやすい。
「美味しいわね」
「それってシャンパンにしては珍しく甘口なんだよね。だから持って来たんだ」
「本当? わざわざ、ありがとう」
そして、二人は晩酌しながら食事を始めた。
「そうそう、今日の本来の目的なんだけど。一上真吾がまたお前と会いたいって、連絡が俺に来たんだよね」
「真吾さんが? 嬉しいわ!」
如月からの朗報に佳子は心が躍る。
「来週の水曜日はどうかと訊いてきたけど、お前の予定はどう?」
「ええ、大丈夫よ」
佳子が頭の中でスケジュールを思い出す。来週の予定は、日曜日を除けば何も入っていない。
日曜日は春人が押しかけて来るかもしれないので、一応予定として一日埋まっていた。ちょうど日にちが重ならなくて良かった。
「それじゃあ、彼からお前に連絡を寄こすように伝えておくから」
「ええ、ありがとう」
佳子が再び会いたいと言っていた言葉を真吾は覚えていてくれたのに違いない。彼の気遣いがとても嬉しく、温かい気持ちになった。そして、面倒臭がらずに仲立ちをしてくれる如月に深い感謝を抱く。
「如月、いつも私の為に色々と手を貸してくれて、本当にありがとうね」
「お礼の言葉は、全てが終わってからでいいよ」
涼しい表情で如月は事も無げに、佳子にそう返事をした。
常に佳子のために見返り無く助力してくれる如月。それを忝く思う一方で、恐縮してしまうところがある。
人外の者の中でも、高位と思われる彼が、人間である自分に何故ここまで尽してくれるのか。佳子はその理由を未だに知らずにいたからだ。
“俺にとって、もうお前はただの他人ではないよ。”
初めて彼と出会った時、佳子に何故関わろうとしてくるのか尋ねた際に、そう答えた如月。彼は限りなく優しく紳士的に接してくれる。
しかし、佳子は彼から未だに自分の名前を呼ばれたことがない。
“名前なんて、ただ他人を区別するだけの手段に過ぎない。”
如月はそう言い切っていた。名前をそんな風に扱うなんて、聞いた時は驚いたものだった。
それから如月と同じ時間を過ごすにつれて、彼が決して自分の名前を呼ばないことに気付いていた。
(その意図は何かしら――?)
如月の言う通り、彼はただ単に名前に固執していないだけかもしれない。しかし、悪い見方をすれば、佳子を含む個別の存在自体すら、彼にとっては些細なことなのではないかと、思ってしまうことがある。
今は如月にとって佳子は特別な者のように扱われている。しかし、彼は女性の扱いに手慣れているため、佳子はその技術によって彼の都合の良いように思い込んでいる可能性もある。実際、如月は女性関係が多いことを匂わせていたことが多々あった。
如月を本心から信じたいが、彼が人外の者であるが故に、警戒心が生まれてしまう。
自分に近づくのは、何か裏があるのではないかと、佳子の中で未だに疑いが晴れない。
佳子は如月の闇を知ってしまったら、彼とは今までと同様な良好な関係を続けられる自信がなかった。そう思うと、彼の真意に触れるのが怖くなり、佳子は今もなお追及できずにいた。
その反面、佳子の中で大きくなっていく、彼の献身と彼への感謝。真吾と会えたのは、まぎれもなく彼のお陰だ。
無条件で彼を信頼しても良いのでは。その気持ちが芽生えてくる一方で、どこまで彼を頼っていいのだろうか、と迷う始末。
佳子はその答えを未だ出せなかった。
口当たりがよいお酒だったせいか、佳子はあっという間に一杯目のグラスを空けて、如月が勧めるまま次から次へと何杯も飲み干した。
そして、夜が更けた頃には、佳子は度を過ごして酩酊してしまう。
恐らく、いつも愛飲しているものよりアルコールが高めだったのにも関わらず、それに気をつけないばかりか、美味しいからと欲するままに喉を潤してしまったのが原因と思われた。
意識が覚束無くなり、身体を起こしているのも辛くなる。佳子が重力に逆らえずに畳の上に横たわると、冷たい感触が気持ち良い。そのまま佳子は重たい瞼を閉じて、眠ってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
佳子が温かい布団の中で寝返りをしようとしても、何かが身体の動きを邪魔して身動きがとりづらい。何だろうと疑問に思い、頭を使い始めたら、意識が浮上して目が覚めてきた。
何時の間に寝てしまったのだろうと、考えながら佳子が身体を起こした次の瞬間。同じ布団の中で佳子のすぐ脇で寝ている如月と目が合った。
「おはよう」
如月は目を輝かせながら、起き抜けでも素敵な笑顔を佳子に向けている。
一体何が起こっているのか、寝起きでよく分かっていない佳子は、反射で「おはよう」と挨拶を返していたが、「昨晩は素敵な夜だったね」と如月に言われて、佳子の思考回路が正常に戻った。
「え”え”えええーーーっ!」
佳子の絶叫は屋敷中だけに留まらず、屋外まで響き渡る。屋根の上に停まっていた雀は、その大声に驚いて飛び立った。
さらに家で居候の妖怪たちは、何事だとお互いに顔を見合わせて動揺した。




