学校での厄災
休みが明けて、気分がどん底の春人は、いつもの通りに学校へ通う。
お昼休みになり、山村と一緒にご飯を食べていると、一週間ぐらい振りに不愉快な女の声が耳に入ってきた。
「ハル~? お久しぶり♪」
何事もなかったかのように現れたのは、大橋里香だった。
最後に会った先週の火曜日。彼女は怒りの形相で捨て台詞を吐き、春人の前から消えて行った。それにも関わらず、この大橋の上機嫌な様子は、不吉なことの前触れにしか春人は感じられなかった。
定位置となっている春人の横の席を大橋は勝手に借りて座ると、甘えたように上目遣いで春人を見つめた。その視線を正面から受けたくない春人は、横目で彼女の様子を探る。
「も~、ハルったら人が悪いんだから!」
大橋が一体何の話をしているのか、春人は全く見当がつかなかった。ここから早く立ち去りたくて、弁当の中身を必死に口の中へ片付ける。
「でも、それを酌んであげるのが、女の甲斐性ってもんでしょ? いいの、あたし気にしないから。ハルのことは許してあ・げ・る!」
(少しはこちらの気持ちを察して欲しいです――。)
そんな春人の心の嘆きに大橋は全く気付いていない。彼女はグロスが塗られて輝いている唇の端を上げて、満面の笑みを浮かべると、春人だけを一心に見つめていた。
大きな瞳を必要以上に瞬きさせて、春人に愛嬌を振り撒いている大橋。ところが春人から見れば、彼女のマスカラがたっぷりと塗られた睫毛は、「動くと扇子みたいだ」としか思われていなかった。
どんな場合でも大橋の眼中には山村は入っていない。だから、すぐそばにいる山村がドン引きな様子で、大橋に哀れんだ視線を送っていることなど知る由もない。
何度も訪れる厄災によって、春人は再び煩わされる。
昨日、家に遊びに来た大橋を義父が慰めたと聞いていた。その時、下手に気を持たせることを義父は彼女へ言ったのではないかと、春人はうんざりしながら推測していた。
そうでなくても勘違いの度合いが尋常でない大橋。彼女は自分の都合の良い方に解釈して、話を飛躍させて膨らませるのは得意だ。しかも、上から目線で許してあげるなどと言われて、春人は不愉快も甚だしかった。どうせ下らないことを大橋は考えているに違いないと、春人は彼女の妄想に付き合うつもりはなかった。
「貴女に許してもらう筋合いはないです。これ以上、私に構わないでください」
春人は表情を変えずに冷たくあしらうが、大橋は気にした様子は全くない。
「え~? 別に学校で会って話すくらいいいじゃない? あたしたち、親戚でしょ?」
大橋の口から“親戚”という関係を強調されて春人は驚き、思わず彼女の顔を凝視した。大橋は相変わらず笑みを浮かべたままだ。
今までは恋人の座を狙って、春人は大橋につきまとわれてきた。それなのに、一体この反応はどうしたことだと、春人は目と耳を疑う。手の平を返したように親戚の立場を主張し始めて、側にいる許しを求められるとは思ってもみなかった。
困惑した春人は、彼女を頑なに拒絶する理由を見失い始める。
「親戚でも必要以上に馴れ合う必要はないと思いますが……」
先程より言葉に刺々しさが弱くなった春人に、大橋は明るく笑う。
「同級生なんだし、仲良くした方がいいでしょ? そうでなくてもハルって、冷たい上に取っつき難いんだし?
あたしみたいなのと、たまには話して女の扱いになれないと、せっかく出来た婚約者に愛想尽かされちゃうかもよ?」
大橋の言葉が、告白して振られたばかりの春人の胸に突き刺さる。
見下していた大橋にまで、そんなことを指摘されてしまって、春人の気持ちは大きく揺らいだ。
自分は親戚だと言い始めた大橋。春人のことを諦めたような言動に春人は困惑する。
その心変わりの理由は分からないが、なんにせよ鬱陶しさが激減したことを春人は喜んだ。今までの春人が婚約者に愛想を尽かされないように、大橋の口から心配するような発言まで出てきた。そのことで春人は彼女に対する見解を考え直し始めた。
今まで春人の気持ちを自分に振り向いてもらおうと躍起になっていた大橋。それを春人は心底疎ましく思っていた。それに加えて、彼女の性格も不愉快な点が多かったため、彼女を積極的に避けてきた。しかし、大橋の態度が変わるならば、わざわざ逃げる程でもなくなる。拒絶の姿勢は変わらないが、まともに相手をしなければ良いだけの話だ。
「大橋さんに心配されなくても、婚約者とはうまくいっていますよ」
春人は無難な受け答えした。これまでの大橋に対する嫌味がかった台詞と比べたら、春人の今回の返答は優しいものだった。
「そうなの? うまくいくといいね~?」
春人を応援する大橋の反応は、特に不自然なところはない。大橋に付きまとわれるようになって、初めて春人は逃げ回ることをしなかった。
何故、大橋が態度を急変したのか。この時の春人はあまり深く考えていなかった。