期限
夜の八時頃、二階の自室にいた慶三郎が一階へ降りると、台所で春人と顔を合わせた。
今日は慶三郎が起きる前に春人は早朝から外出していたので、義弟と顔を合わせたのは、これが初めてだ。
春人はテーブルに向かって座り、独りで何かを食べていた。いつもと比べて暗い様子が気になったが、今日は内偵のために日帰りで遠出してきたので、疲れているのだろうと察する。
「春人、お疲れ」
「義兄さん、ただいま戻りました」
春人は律儀に頭を下げて挨拶をしてきて、慶三郎はそれを受けながら、空いている向かい側の席に座った。
正面にいる春人は、妻の夕輝が作った晩飯の残りを無言で胃袋へと片付けている。途中で外食せずに帰って来たのか、彼の箸はよく進んでいた。
慶三郎が見守る中、春人は手早く食事を終えると、流し場へと食器を持って行き、手早く洗い出す。
「疲れているところ悪いけど、報告してくれるかな?」
慶三郎がそう催促すると、春人は「はい」といつも通り素直に答えて、手は忙しなく動かしながら、本日の出来事を語りだした。
「へー、佳子の母親がやってきたんだ。しかも、都合のよい情報を残してくれてラッキーだったな」
春人の話から、あっさりと真吾の正体が分かって、慶三郎は肩すかしを食らった気分である。
以前、佳子が会っていた男が乗ってきた乗用車の名義。それを慶三郎が独自に調査したところ、一上真吾本人のものであると判明していた。
佳子と腹違いの兄妹だった。慶三郎はその事実を知り、先代一上家当主の女性関係を冷ややかに分析する。
(真吾の年齢的に結婚前の子供か――。浮気とは言えないが、許嫁だった本妻としては、面白くない話だろうな。)
娘と先代を結婚させたかった分家の主が、他の女を妊娠させた先代の不始末を内密に片付けた――。
そう考えるのが状況的に濃厚である。しかし、真吾はあまりにも先代に似ていた。そのため、隠しきれずに事が露見したことも簡単に推測がつく。
(先代も悪いタイミングで亡くなったものだ。せっかく我が子と親子の名乗りをあげようとしていたらしいのに、志半ばで逝ってしまうとは。)
さらに、佳子の一族への反抗の理由。
彼女の父の死が切っ掛けだったと春人の報告で分かったが、それは当主の座を揺るがすことになっていた。そのため、慶三郎は思わず心配になる。彼女が地位も居場所も失くした後のことを、あまり考えていないことを。
当主でありながら、その地位に拘っておらず、捨て鉢な挙動のように感じられる。
頼れる親類もいない中、佳子の収入はパートと内職という経済的にも不安定なもの。それにも関わらず、住むところを追い出されても構わないと佳子は強気だ。
(世間知らず故か、それとも後ろ盾がいる強みか――。)
慶三郎は、如月と真吾との両名に会っていた佳子の行動を思い出す。如月は経済界でも高い地位にいる鬼頭氏との繋がりが推定される人物だ。後ろ盾としては、頼もしい存在である。
真吾と兄妹になれなくて残念と言っていた佳子は、彼の存在に肯定的だ。当主の座も彼に譲ればよいと考えている。そして、真吾と直接会っていた事実は、彼との仲が不和ではないことを証明する。
佳子の一連の行動が、真吾を当主にするための工作だとしても、結婚を拒絶して偽装の婚約をしているだけでは、いまいちやり方が生ぬるい。
死ぬ直前に真吾の存在を知った一上家の先代。そして、最近真吾の存在を知った佳子。
この時間のずれが何を意味するのか。佳子は一体どこから真吾の情報と父が亡くなる前の行動を知り得たのか。亡くなってから随分経過しているのにも関わらず、佳子は父の遺品を探しているという。しかし、未だに目的のものは見つかっていない。
途中から書き込みを始めた手帳。父が亡くなってから、今までの空白の期間。彼女は何をしていたのか。
(彼女はどんな目的で何を企んでいる――?)
慶三郎は、結論を出すためにはまだ情報が足りないと感じた。
彼女の行動のほとんど全てに関係するのは、彼女の父である先代だ。一度、起源に戻って考え直すべきかもしれないと慶三郎は思い直した。
「一上家の先代は、確か車の事故で亡くなったんだよな?」
確認のために尋ねると、春人は無言で首肯した。
「どんな事故内容だったのか、少し調べてみるか……」
慶三郎は独り言を呟きながら、手持無沙汰で顎を擦っていると、その間に洗い仕事を終えた春人が再び席についていた。
バラバラに得られる情報は、まるでパズルようである。
埋められていく欠片は周囲を埋め尽くしていくが、未だに中央の絵柄が空白のままで、一体それが何なのかまるで掴めない。
鍵となる欠片は、一体何なのか。慶三郎はまだそれが何なのか、想像もつかなかった。
「そういえば、今日里香ちゃんが遊びに来ていたよ。来た時は何か落ち込んでいたけど、親父が相手していたと思ったら機嫌良く帰って行ったよ」
慶三郎が里香の話題を出すと、春人は苦虫を噛み潰したような顔をした。義弟は興味のない他人に関わられるのを心底嫌がる。
社会に出たら、そういった人間とも上手く付き合わなくてはならないため、今のうちに処世術を学ばなくてはならない。春人が里香に関心がなくとも、義弟自身で対処しなくてはならない問題だ。
慶三郎は全くその件について手助けをする気はなかった。もしかしたら、瓢箪から駒のような展開が起こるかもしれず、馬に蹴られたくないという理由もあった。
それにしても、今回の内偵に春人が携わってから、少し内面が成長したように感じる。仕事とはいえ、丸一日同じ空間に女性と一緒にいても、春人が根を上げないとは。
目的があれば、気の持ちようも変わるのだろうかと、驚くばかりである。
そういえば――と慶三郎は思い出す。その件について、父があらぬ心配をしていたのには、内心笑ってしまった。
若い男女が二人きりで長い時間共に過ごしたら、情でも湧いてしまうのではないかと、父が不安そうに呟いていたのだ。
春人だって思春期の男だ。彼女に対して標的以上の感情を持つ可能性が、義弟のことだから無いとは思うが、決してゼロではない。それに、春人のような整った顔の男が親切な様子で身近にいたら、佳子が勘違いしてしまう恐れもある。揉め事は避けたいと、父は懸念していた。
そんな父の話を聞いていて、年頃の子供を持つ親と言うのは、あれこれ心配の種を抱くものなのだと、しみじみ思った。
将来、娘の陽菜に変な男が近づいてきたらと思うと、親父の気持ちがよく分かってしまう。
小さい頃に手のかかった春人は、今では亡くなった母の代わりにテキパキと家事をこなして、家のために働いてくれる。また、母の味を覚えている春人は父好みの料理を作るので、春人の料理の時は心なしか父は嬉しそうに食べる気がした。
春人は血縁上では他人でも、家族として大事な存在だ。
そもそも、一上家の人間を毛嫌いしている父は、佳子と春人が仲良くなるのをよく思っていない。さらに、父が外出する度に、春人の婚約について周囲からあれこれ言われるのも、面白くない原因だった。そのため、この件について早く切り上げろと口を出してきた。もともと春人の卒業までの予定だったが、年内には終わらせろと期限を決めたのだ。
「今回の仕事についてだけど、なるべく年内には終わりにしたい。状況次第では卒業まではと考えているけど、今のところ決定的な情報を得ていないから、その位が潮時だろ?」
「そう、なんですか?」
春人は戸惑った表情をしていた。言葉尻から慶三郎の言葉をよく理解出来ない様子だ。
「事件がないまま憶測で調べている以上、だらだらと続けていいものでもないし、春人の就職にも影響が出るだろう?」
「しかし……」
「彼女との結婚は婿入りが大前提だから、婚約していたら春人はいずれ里から出て行く人間だと見なされるんだよ。役場にこれから勤める立場としては、それはまずいだろう?」
「捜査が途中になっても、いいんですか? せっかく、ここまで調べたんですから、最後までやり遂げたいです」
春人のやる気を削ぐのは申し訳ないと思ったが、慶三郎はここで妥協するわけにはいかなかった。
「そうは言っても、春人が無理して続けるだけの理由にならない。彼女が何やら企んでいて、個人的には興味があるけど、それがあの分家を引きずり落とすほどのものとは現状では思えない」
慶三郎がさらに意思を伝えると、春人は何か言いかけたいみたいだったが、最終的には諦めたようで口を噤んだ。
「まあ、あと少しの期間だけど頑張ってもらえるか?」
今は十一月半ば。年内はあと一カ月半で終わる。それを思いながら慶三郎は春人へ伝えた。それに対して、春人は無言で小さく頷いて了承する。その時の義弟は無表情そのもの。期限を設けたことについて、少し不満なところがあるようだが、特に何も食い下がって来なかった。