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春人の。 8

 春人の唇が佳子のものへと重なっている。佳子は驚愕のあまりに身体が硬直してしまった。

 すぐに柔らかい彼の唇が静かに離れていっても、佳子は言葉を失って呆然としていた。


「佳子さん、好きです」


 春人はもう一度、告白してきた。彼の潤んだ目は佳子だけを一心に見つめている。その情熱を孕んだ瞳に佳子は捕らわれて、身動きが取れない。


「すごく好きです」


 春人はそう言って、再び佳子を胸の中へ抱きしめる。仰天した佳子は混乱状態となり、声が出せなくなっていた。

 そんな状態で、温かい彼の体温に包まれる。

 春人の身体は佳子を守るように包んでいて、その居心地の良さに生理的な嫌悪は全くない。春人に触られるのは嫌ではない。先程も玄関で抱きしめられた時も、安心して身を任せていた。今もこの状況を抵抗もせずに受け入れてしまっている。


 情愛が込められた彼の台詞は、佳子の心に真っ直ぐに届いて響いていた。

 佳子の頭は、もはや春人のことで一杯になる。出会って間もないのに、いつの間にか佳子の心に春人が入り込んで占めていた。


 佳子の心臓は勝手に激しく鼓動している。口から出そうなくらいに。この展開に驚きながらも、胸をときめかせている自分。佳子は自分の本心を認めざる得なかった。しかし、その一方で新たな葛藤が生まれる。佳子は彼の気持ちを受け入れられない理由があった。


(一上家は罪を犯している――。)


 それは、佳子にとって無関係なことではなく、むしろ密接に関わっている。そんな立場の人間が彼の求愛を受ける訳にはいかなかった。


 佳子は唇を噛みしめ、思い切って両腕で突き飛ばすように春人の身体を押しやって離れる。それから、立ち上がって後ずさりして彼から逃げ出した。


「ごめんなさい、私は貴方とお付き合いはできません」


 はっきりと断りながら、佳子は潔く頭を下げる。


「どうしてですか!?」


 春人が佳子を仰ぎ見る。その表情には悲痛なものが浮かんでいた。


「どうしてもです。ごめんなさい」


 佳子は春人の顔を直視することが出来ず、視線を逸らす。


 佳子はこんな状況になって、ようやく春人の気持ちが分かった。

 あの時、破談になりそうで春人が落ち込んでいたのは、佳子に好意を抱いていたからだと。それなのに、彼の胸中を全く推し量れず、馬鹿みたいに佳子は追及してしまった結果、地雷を踏んでしまったのだ。今となっては言い訳に過ぎないが、春人が自分のことを好きだとは、佳子は思いも寄らなかった。

 先程、玄関で口付けしそうな雰囲気だったのは、佳子だけの勘違いではない。きっと彼自身もそれを望んでいたのだ。


「相手は分家の人間でなければ誰でもよいとおっしゃっていましたよね? 私では駄目でしょうか?」


 春人から暗く弱弱しい声が聞こえてくる。その様子だけでも、彼が傷ついていることが分かる。罪悪感が佳子を襲う。


「ごめんなさい。それは結婚相手ではなくて、お見合いの相手のことです。母があまりにも高志さんとの縁談を勧めるので、反抗心から別の相手とお見合いをしただけなんです。結婚相手が誰でも良いなんて考えてはいません」


 佳子の話が終わると、重い沈黙が場を支配した。

 佳子が春人にもう一度視線を送ると、彼は俯いていたため、黒い頭上しか見えない。どんな表情をしているか、想像するだけで胸が痛い。


「本当にごめんなさい。春人さんの気持ちは嬉しいのですが、お付き合いはできません。あと、私の食事の用意はもう結構ですよ。今後、ここにいらっしゃるのは気まずいでしょうから」


 振られた相手の家に来るのは拷問に等しいだろうと考えて、お断りを申し出た途端、春人は慌てて頭を上げた。


「嫌です。私にチャンスを下さい!」


「チャンスですか?」


「そうです。今は私のことを佳子さんは何とも思っていないかもしれませんが、これからの私を見てもう一度考えて欲しいのです」


「でも……」


 考えるも何も、春人の人柄に惹かれるところがなくて、断っているわけではない。自分の事情で誰とも深く付き合えないだけだ。しかし、その理由を言うわけにはいかないので、どう言えば彼が納得してくれるのか悩んでしまう。


 その隙に春人が音もなく立ち上がり、佳子の目の前へ移動していた。彼の素早い行動に驚いて後ろに下がろうとしたら、それより先に春人の腕の中に囚われていた。


「佳子さん……」


「こ、困ります……!」


 春人の身体に手をかけて離れようとするが、彼は佳子を逃す気がないらしく、頑丈な腕が固く背中に回されていて、行動不可能だった。


 ふと視線をずらすと、先程の妖怪たちが物影からこちらの様子を窺っている。その様子は挙動不審だった。妖怪(あのこ)たちに、春人への手出しを止めるように言い付けていたので、それを厳守しているのだ。春人とのキスシーンを見られてしまった恥ずかしさと、自分の迂闊さに、佳子の胸中は複雑である。


「ここまで誰かに惹かれたのは初めてなんです。それなのに、断られて一瞬で終わるのは、辛いです」


「そ、そんなこと言われても。あの、本当に困ります。春人さんにそこまで好かれる程、自分が魅力的な人物だと思いませんし……」


「そんなことないですよ! 佳子さんは素敵です。それに何と言うか、不思議な雰囲気をお持ちですよね。視界に入ると、何故か目が離せなくて、激しく心が掻き乱されるんです。気がついたら、手を伸ばして触れたくなって」


 春人は一旦言葉を停めると、佳子の頬へ手で触れる。それから彼は「……何度危なくなって視線を無理矢理逸らしたことか」と続けながら、佳子の頬を両手で包み込む。そして、強引に上向きにされて、春人の顔と向き合う破目になった。

 佳子は緊張を再び強いられる。激しい感情に囚われていた彼の目は、危険な色を帯びていた。同じ目をどこかで見たことがある――、と考えに注意が向いてしまった時には、勝手にもう一度唇を重ねられていた。一瞬触れるだけの口付けでも、佳子を再びパニックにさせた。


「は、春人さん! 本当に困ります!!」


 佳子は顔を真っ赤にしながら抗議するが、春人は開き直ったような態度で聞き流す。


「キス以上のことはしませんから、とりあえず友達からお付き合いください」


「友達でも普通はキスしませんよね!」


 佳子の突っ込みは、虚しく流される。佳子がもう一度抵抗して春人から逃れようとすると、今度は素直に解放してくれた。


「毎週、佳子さんに会いに来ますから」


 佳子が春人を横眼でちらりと見ると、彼は真剣な目をしていた。覚悟を決めたその瞳は、まるで佳子を逃さないとばかりに、獲物を狙う獣のようである。野生の本能的に佳子は身の危険を感じて、息を思わず飲み込んでしまう。


(あ、そういえば――。)


 先週偽装の婚約を成立させた時に、不安に思った彼の目つき。それが今日の春人と同じだったことに、佳子はようやく気付いた。


(まさか、あの時から春人は自分のことを――。)


 佳子は真っ直ぐに自分を見つめる春人に、ただ圧倒されて言葉を失った。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 その後、佳子と春人は微妙な雰囲気になった。二人の間を占めていた気まずい沈黙。それは隣の離れに住む坂井の嫁の美智子によって破れた。

 美智子が敷地内に停車していた春人の車に気付き、佳子の家に顔を出してきたのだ。美智子は春人の姿を発見するや否や、好奇心いっぱいに目を輝かせながら、彼に色々と話しかけてきた。


 佳子は美智子の夫の正には、本当のことを打ち明けていたが、美智子には何も話していなかった。正も美智子には何も説明してないことは、彼女の口ぶりから感じられた。春人に佳子が一目惚れをして、お見合いを申し込んで相思相愛になり、婚約までしたと美智子は信じていて、それを前提として会話をしていたからだ。



 佳子が誰にも内緒で突然行方を暗まして家出していた期間、正は務めていた大学の助手の仕事を休職してまで、佳子の捜索に奔走してくれたと後で聞いた。

 そこまで尽してくれた正に隠し事ができるほど、佳子は不誠実ではなかったため、彼には佳子が知り得た父のことを話していた。

 正は父から何も聞かされていなかったので、正はその事実に驚愕すると同時に痛嘆していた。長年仕えている正にまで黙っていたのは、父の優しさだったのだろうと、佳子は彼をそう言って慰めることしかできなかった。


 美智子は春人に根掘り葉掘り尋ねていて、そのやり取りで初めて知った事実があった。春人は里にある役場に内定が決まっていて来春から採用予定であることを。

 結婚したら仕事はどうするの、と美智子が尋ねる。「まだ結婚の時期が決まっていないので、このまま勤めます」と春人は答えていたが、このまま佳子との婚約を続けていたら、いずれ結婚ために仕事を辞める人間だと見なされて、仕事をしていく上で彼にとって不都合なことが出てくる恐れがある。そう考えると、彼が就職するまでにはこの偽りの関係を終わらせた方が良いと佳子は気付いた。


何の道(どのみち)、父の三回忌である来年の二月末までには、決着をつけようと考えていたので、問題ないわよね――。)


 春人は夕方には帰っていった。「また来ます」と言葉と熱い眼差しを佳子に残して。



 まさか、自分を誰かに好きになってもらえるなんて、佳子は思ってもみなかった。まだ彼に愛されているという実感が持てなく、彼の言葉に疑いを感じてしまう。出会って間もないはずなのに、一体彼は自分の何を見て惹かれたのだろうかと。


 佳子はそっと自分の唇に触れる。他人のそれが初めて重なったのだ。


 一人きりになり、冷静になって春人のことを考え始める。好感を持っている異性との接触は、嫌ではなかった。春人のことは嫌いではない。好きか嫌いかのどちらと問われれば、好きだと答える。しなしながら、亡き父より大事な存在ではない。仇を討つためには、恋にうつつを抜かすべきではないと、理性が警告を鳴らす。ただ、あの抱きしめられた時の温もりは、何物にも代えがたい心地よさがあり、春人を拒絶してしまえば、もう二度とあの腕の中にいられないのだと思うと、胸に今まで感じたことがなかった痛みがあった。


 父を亡くしてから、あれ以上の悲しみはないと思っていたのに、どうしてこんな気持ちを抱いているのか、佳子はこれ以上その理由を考えたくなかった。



この話の正式なタイトルは「春人の告白」でした(>_<)。

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