春人の。 7
佳子がトイレから出ると、春人が隣の仏間にいて戸棚を整理している姿を目撃した。短い時間しか経っていないにも関わらず、床に無造作に置いてあった物が、あっという間に少なくなっている。
春人の自己申告通り、片付けは得意分野ということが証明された。
「あ、佳子さん。休憩ですか? お茶淹れますので、一緒に休みませんか?」
「ええ、喜んで」
二人は台所へ行き、春人はお茶の用意をして、佳子はお茶受けのお菓子を戸棚から取り出した。居間で食卓を二人で囲む。佳子は春人の淹れてくれたお茶に口をつけた。シロがいなくなったので、温かいお茶を飲むのは久しぶりである。
「仏間に飾ってあった遺影を見たんですが……」
春人がふと思いついたように話しだす。
「はい、遺影がどうしましたか?」
「多分、佳子さんの父親の写真かと思うのですが……、最近同じ顔をした人間を里で見た気がして、大変驚いたんです」
春人が語る出来事に、佳子は思い当たる人がいた。父と同じ顔をしていると云えば、彼しかいない。
「ああ、もしかしたら、真吾さんかもしれませんわ」
「真吾さん、ですか? 先程の佳子さんの母親の話でも、出てきた名前ですよね?」
「ええ、私も最近知ったのですが、彼は私の叔父にあたる人なんです」
「叔父なんですか……。しかし、彼は後継者の候補として挙がっているようですが、一上家の先代には、他にご兄弟はいらっしゃいませんよね?」
「あら、よくご存知でしたね。真吾さんは、表向きでは祖父の子供になっていますが、恐らく私の腹違いの兄なんです。父は亡くなる直前に彼を認知しようと動いていました。あの事故さえなければ、彼は確実に私の兄になっていたでしょうに……。本当に残念でした」
「何故そんなややこしい状況になったのでしょうか。もともと佳子さんの父親が認知していればよかったのでは?」
「多分、父はその当時は何も知らなかったんですよ。真吾さんのことを知ったのも、亡くなる数日前ですし。きっと、その当時お付き合いしていた女性が妊娠していたと知っていれば、現状は異なっていたと思います。まあ、そういうわけで、そんな背景があるので、私が分家に逆らってばかりいるから、私を廃して血筋の上では父の子である彼を当主として据えようとする動きがあるのでしょう」
「それって、佳子さんの立場が危ういってことじゃないですか? このまま分家に逆らうのは、本当はまずいのでは?」
「私の立場なんて、いてもいなくても大して問題じゃないです。今だって後継ぎだけ求められているだけですし。それに、最終的にここを追い出されたって、仕方がないと思っています」
一上家が代々担ってきたお役目は、この地に封印された妖怪を守護する守人。その役割を故郷から担っているだけで、佳子ではなくて代わりの者でもお勤めは十分に果たせる。
要は、この土地を勝手に荒らされなければ良いのだ。
「佳子さんの父親が亡くなってから分家に逆らうようになったみたいですが、一体何があったのですか……?」
春人が深く踏み込んだ質問をしてきたことに佳子は驚く。
一上家は今まで親族との婚姻を繰り返して、その血を保ってきた。その当主の突然の反旗。興味を持たれるのは無理もないかと佳子は思い直した。
ただ、父が殺されたからと正直に話すわけにはいかない。佳子は一応偽りではない建前を語ることにする。
父が亡くなった時に、愁傷の佳子のもとを訪問してくれた高校の担任。
先生に佳子は母の勧める結婚が嫌でたまらないと語ったところ、先生は今でも心に残る言葉を伝えてくれたのだ。
高校生にもなれば、もう子供ではない。だから、善悪の区別もつく。自分で考える事が出来るのだから、全て親の言いなりでなくて良いはずである。
親と自分は違う人間なのだから、考えが違って当たり前で、逆らうことが悪いことではない。
たとえ親に逆らって失敗したとしても、自分の責任なのだから、自分で何とかすればよいだけだ。
だから、佳子が自分で良く考えて行動したことが、母親の希望と異なっても、自分の人生なのだから、好きにしてもいいのだと。
その先生の考えは、佳子にとって目に鱗だった。佳子は親の言うことに盲目的に従うことが当たり前だと思っていたからだ。
「前から親族婚について反感を持っていたんです。でも、父が亡くなって、庇ってくれる人が居なくなって、これからどうしようかと自分の将来を改めて考えてみたんです」
「それが分家と袂を分けた切っ掛けですか?」
「ええ……」
佳子は過去を思い出す。
自分の将来のことを考えた時に、真っ先に浮かんだのは父のことだった。
父に会いたい、たとえ彷徨う魂の姿でも。父を失った悲しみで嘆くことしかしなかった佳子が動き出す契機だった。
そして、その行動は様々な出会いを果たす要因ともなった。
「佳子さんは変わられたのですね」
そう言われて、佳子は苦笑した。
玄関先での母とのやりとりを見た後では、昔の佳子は想像もつかないだろう。
昔の佳子は、母と考えが違う時は「でも……」と不満な様子を表して、いつも控えめに自分の言い分を述べるくらいだった。けれども、最終的には必ず母の押しの強さに負けてしまい、説得を諦めて渋々ならが従うしかなかった。それに見かねて、たまに父が佳子の味方をしてくれることがあったが、二対一でも揺るがない強固な母の意思は強敵だった。
「ええ、まぁ。……ところで、私も質問なんですが、春人さんはどうして私のお見合い話を受けたんですか?」
佳子が話題を変えた時、春人はちょうど湯呑を持って、熱いお茶を飲もうとしていた。ところが、春人は佳子の言葉を聞いた途端、ぎょっとした顔をして慌てて佳子を見る。
その時、春人はあたふたしてしまったため、お茶が湯呑から少しこぼれたらしく、「あちっ」と言って食卓の上に湯呑を置いていた。
佳子は心配になり、「大丈夫ですか?」と気遣うと、春人は「びっくりしました」と苦笑いを浮かべていた。
「ええと、私がお見合いを受けた理由はですね……、義兄の勧めなんです」
「お兄さんのですか?」
親の意見でお見合い話などは決定すると思っていたので、佳子は春人の答えは意外だった。
「ええ。実はですね、私が人付き合いを避けるタイプだったので、義兄が何事も経験だと言って、お見合いに行くようにと言い出しまして……」
春人の話を聞いて、佳子は少し安心する。自分と同じように、彼も結婚の意思がなかったことが分かり、罪悪感が無くなったからだ。
「あら、やっぱり顔合わせだけの目的でいらっしゃったんですね。それにしても意外です。春人さんはお顔がとても良いので、色んな方に声を掛けられそうだから、友達は多そうなイメージを持っていました」
佳子がそう言うと、春人は困った顔をした。
「私は自分の顔が嫌いなんですよ。だから、この顔が好きで寄ってくる輩たちと付き合う気はないんですよ」
「顔が嫌いなんですか? せっかく素敵な顔なのに……」
佳子は春人の整った顔を羨ましそうに見つめる。
こんな美人に生まれたら、さぞかし自分もモテモテだったに違いない。
「実は、この顔は実の母にそっくりなのです。自分の顔を通して母親のことが思い出されて、どうしても嫌なんですよ……」
そういえば、春人は五月家に養子として迎えられたと聞いていた。
実親と暮らしておらず、なおかつ、実母と同じ顔を嫌う背景には、人には言えないわだかまりが色々とあるのだろう。そう思うと、春人の顔嫌いはそうとう根が深そうである。
「だから、佳子さんがお見合いの相手を顔で選んでいないと知って、実は嬉しかったんですよね」
「え!?」
春人の言葉で、佳子は思い出す。海辺で停めた車内で、顔がお見合いの理由でないことに拘っていた春人を。
あの時は春人の顔に対する事情を知らなかったから、佳子の発言によって美形のプライドが傷つけられたのかと、勘違いしていた。自分の顔に言い寄ってくる女たちを避けている春人にとっては、その点はとても重要なことだったのだろう。
お見合いを申し込んだ動機を確認してきたのも、春人の顔で選んだと思われていたからに違いない。しかし、顔で選んでいないと分かった後に、春人は酷く落ち込んでいたように思われる。嫌いな顔で選ばれていなければ、春人にとっては悪い話ではなかったはずなのに。
「じゃあ、どうして、あの時は落ち込んでいたのですか?」
「あの時とは?」
「ほら、春人さんが奉納試合で優勝したから、お見合い相手として選んだと言った時です」
「ああ、あのときですね。いや、あの、それはですね。佳子さんが……」
佳子が問い詰めると、春人は気まずい顔をする。何か答えようとするが、言いにくいことなのか、春人の歯切れがすごく悪い。その怪しい態度のせいで、彼の答えを異様に知りたくなる。
「私がどうかしたんですか?」
佳子は好奇心を抑えきれず、覗き込むように春人の様子を観察する。すると、春人は俯いて小さく身を縮ませるので、その様子はまるで厳しい尋問に遭っているような有様である。
「その、佳子さんが酷く不機嫌だったからです……。あの時、私に縁談を断って欲しそうじゃありませんでした?」
「えっ!?」
佳子は後ろめたいことを指摘されて動揺する。
確かにあの時の佳子は、お見合い話をさっさと無かったことにして欲しくて堪らなかった。それが思いっきり態度に出ていて、春人にバレバレだったのだ。佳子は過去の自分を殴りたくなった。
「す、すいません。あの時は失礼な態度でしたね。でも、どうして私に断って欲しそうだと落ち込むんですか? 春人さんはお兄さんの勧めで、人付き合いの練習がてらにお見合いに来ただけであって、もともとはこの話には乗り気ではなかったんですよね?」
「え!?」
春人がさらに狼狽する。その後、彼は返答に窮して口をパクパクと動かし、とても困った表情を浮かべて、明らかに挙動が不自然である。
佳子が春人をとても怪しく感じるのも仕方がないくらいだ。
「もしかして、何か訳があるんですか? そもそもおかしいと思っていたんです。五月家は一上家とは仲が悪いじゃないですか。本当は申し込んだ時点で、すぐに断られるかと思っていたんです」
「いえ、その、違うんです!」
春人は慌てて否定してきた。しかし、その後に肝心の弁解が続かず、佳子の中の疑惑が無くならない。却って深まってゆくだけだ。
「何が違うんですか?」
佳子は誤魔化されないように追及する。春人に疑いの眼差しを向けると、彼は縋るような目つきで佳子を見つめ返した。
その瞳は潤んでいて、泣きそうにも見える。これ以上、何も訊かないで欲しい――。そう、春人の目は語っていた。精神的に窮地に立たされているせいか、春人の頬は赤く染まっていた。
佳子は春人から目を離さず、相手からの回答を待った。真相を話すことに躊躇しているのか、春人も無言のまま。二人が見つめ合う状況は続いた。
やがて、それに耐えきれなくなったのは春人。彼は佳子から目を逸らした。
「あの、その、本当はもっと後で言おうと思っていたんですが……」
ついに観念したのか、しどろもどろな口調で、春人は話し始める。彼から込み入った事情を聞くため、佳子は姿勢を正して真剣な面持ちで聞き入る。
すると、春人が膝を畳の上で擦らせながら、佳子の近くまで移動してきた。春人の急接近に佳子が驚いたところ、春人は突然佳子の右手を掴んで握りしめる。佳子は彼の予想外の行動に戸惑い、相手の表情を探る。
「佳子さん……」
佳子が思わず息を飲むほど、春人は真っ赤な顔をしていた。彼の異変に佳子は声を失う。佳子の手を握っている彼の手は、僅かながら震えている気がした。
「あの、私は……、その……」
これほど説明に躊躇っている春人を見て、深刻な事情を彼は抱えているに違いないと確信した。佳子も同じように問題を抱えているので、彼の姿は自分と重なるところがある。佳子は出来ることなら、彼の力になってあげようと決めた。それが今までの彼への恩返しになるだろう――と真心を添えて。
佳子は春人を安心させるために、空いている左手を自分の手を握っている彼の手の上に添えた。
「私は春人さんの味方ですよ。何かお困りなら、私もご協力いたしますので、安心してください」
春人を落ち着かせようと、気を遣った台詞を佳子が口にした途端、春人が感極まった顔をした。その次の瞬間である。佳子は急に春人に抱き締められた。
春人の両腕が固く佳子の背中へと回されて、佳子は身動きが取れなくなる。
「あのっ……!」
佳子は驚愕のあまりに声を上げる。頭が状況についていけない。ただ、春人にされるがままである。
「佳子さん、好きです」
密着する身体から聞こえた春人の台詞。その言葉が神経によって脳内に伝わり、それから単語を理解するのに数秒はかかった。
佳子が「えええええ!?」と絶叫して、反射的に春人から離れようとしても、彼は決して腕の力を緩めてはくれなかった。
春人が言う“スキ”とは、恋愛感情の好きのことだろうと、理解していた。極限の状態とはいえ、それくらいのことは状況を把握できたが、一体どんな理由で現在春人が愛の告白にまで至ることになったのか、佳子は肝心なところを分かっていなかった。
そもそも、春人がいつ自分に対して特別な感情を持ち始めたか、佳子は気付けなかった。彼の態度は初めから、挙動不審なところが多かったからだ。
「私と付き合ってください」
佳子はさらに悲鳴を上げようとしたが、何かによって口が塞がれてしまい、それは不可能だった。