春人の。 5
母の姿が消えた途端、佳子は安堵の余りに力が抜けた。その場にうずくまる様に床にしゃがみ込んでしまう。
予告無しの母の訪問は、全く心構えをしていなかった佳子に心理的な負担を多大に与えた。床についていた手が以前のように震えているのに気付いて、未だに母の影響が強いことを思い知る。
「大丈夫ですか……」
春人も佳子のすぐそばにしゃがみ込むと、佳子の手を取って労わる様に両手で握りしめてくれた。
情けないくらいに小刻みに震える手を、春人の温かい手は包み込む。冷えていた佳子の手から伝わる春人の体温。彼の優しさまでも佳子へと流れ込んでくるかのようだった。
「佳子さん、本当はすごく恐かったんですね。それなのに、必死に自分の意思を貫かれたんですね……」
とても穏やかで、思いやりが込められた言葉。春人の慰めに佳子は必死に我慢して押さえていた気持ちを揺さぶられる。
「そ、そんなこと……!」
“無いです”と続けようとしたが、感情が堰を切ったように溢れだし、それは叶わなかった。泣きたくないのに次から次へと涙がこぼれてしまったからだ。人前で泣くような真似など避けたかったのに、嗚咽が口からこぼれていく始末。止めるのは無理なことだった。
「ご、ごめんなさい。み、みっともないところを見せてしまって」
春人に図星を指された、自分でも押し殺していた気持ち。あの母に歯向かうのは、勇気の裏側にある恐れとの戦いだった。長年母に従うのが当たり前だった佳子。それを変えようとするのは、容易なことではなかった。
本当は誰かに自分の辛さを分かって理解して欲しかった。自分の境遇に同情してもらいたかった。
だから、春人にたったあれだけの言葉を掛けられただけで、こんなに取り乱すように泣き出してしまった。
春人は何も言わずに、まるで大事なものを扱うかのように、佳子の体をそっと抱きしめてくれた。彼の胸元へと引き寄せられて、佳子は顔を埋めるように密着する。
始めは突然の春人の行動に佳子は驚いた。動揺して彼の様子を窺えば、彼はただ佳子の背中をゆっくりと手で何度も撫でてくれるだけ。彼の動きに全く疚しさを感じなかった。そのため、佳子は彼の行動を受け入れて、されるがままでいた。
春人の行動は、子供の頃に亡き父親にあやされた時を思い出させた。その懐かしさと安らぎ。まさに今の佳子が何よりも求めているものだった。
人の温もりは、幸福な落ち着きを与えてくれる。
父を亡くしてから、何よりも佳子が欲していたものだった。すごく居心地が良くて、ぐちゃぐちゃに乱された佳子の感情が、穏やかな海のように落ち着くのが分かる。
どの位、抱きしめられていたのか。涙はいつの間にか止まって、佳子の呼吸はいつも通りに戻っている。
感傷的になっているせいか、佳子は何故か春人から離れがたい。いつまでもこうして寄り添いたいと願ってしまうほどに。
佳子の耳を春人の胸元に寄せると、彼の鼓動の音が響いてくる。
父の鼓動はとても穏やかなものだった――。懐かしい記憶の中に浸っていた佳子は、てっきり同じものを予想していた。しかし、春人の胸から聞こえる力強いそのリズムは、早鐘のように速い。
春人の状態の異変に気付いた佳子はすぐに我に返り、彼の顔を見上げた。
春人は佳子と目が合うと、恥ずかしそうに微笑んだ。その顔には赤みが差している。彼の佳子を見つめる眼差しは潤んでいて、まるで熱を孕んでいるよう。その視線にまるで吸い込まれるように囚われた佳子は、彼から目を逸らすことができない。
「佳子さん……」
春人が切なげに佳子を呼ぶ。その声色は先週突然春人に抱きしめられた時と同じだった。あの時も、同じように春人は自分の名前を呼んでいた。
佳子はまるで金縛りにあったように、身体が動かなくなる。身体が上気したように熱くなり、春人のように佳子まで心臓が激しく脈打つ。
いつの間にか春人の手が佳子の両肩に乗せられている。春人の顔が徐々に近づいてくるように見える。お互いの距離が縮まって、佳子の頬に感じる春人の微かな吐息。
(もう少しで唇同士が触れ合ってしまう――。)
そう佳子が緊張した瞬間、視界の端に映ったのは、天井から降ってくる金物の物体である。
「グワァァン!!」
ドラのような音が鳴り響くと同時に、それは春人の頭上へと落ちていた。
突然のことに驚いて、咄嗟に佳子は春人から体を離してしまう。
春人の頭にぶつかって跳ね返った物体は、床へと落ちてゆき、けたたましい音を何度も立てながら転がっていく。
春人に落ちてきたものは、洗濯に使う金盥だ。佳子が落下してきた天井を見上げると、先程台所で春人を苛めていた妖怪たちが張り付いていた。
彼らは佳子と目が合うと、ビクッと肩を震わせて一目散に逃げ出す。そのうちの一匹が「佳子に触んじゃねー!」と遠くへ逃げてから春人を振り返って、あっかんべえをして去っていた。
佳子は春人に視線を戻すと、彼は俯いて床に両手をついていた。
「大丈夫ですか?」
心配した佳子が尋ねると、春人は「え?」と驚いたように顔を上げる。佳子と目が合った春人は、熟れた林檎のように顔を赤らめて、慌てて視線を逸らして立ち上がった。「す、すいません。色々と修行が足りなかったです」と、彼はよく分からない謝罪を述べると、逃げるように早足で台所へ向かって行ってしまった。
取り残された佳子は呆然と春人の後ろ姿を見つめる。
(金盥が降って来なかったら、今頃自分は彼と何をしていた――?)
それを想像すると、胸の鼓動が激しくなって佳子は動揺してしまう。思わず佳子は、熱くなる自分の頬を両手で押さえた。
佳子は先程の自分の態度が理解できなかった。成り行きとはいえ、自分があんな状態になるとは、想像もしていなかったからだ。
父親以外の男性に抱きしめられたのは、佳子は初めてのことだった。
(だから、きっと色々と脳内の回路がショートして、雰囲気に呑まれて勝手に誤解して、恋人みたいな行為を想像してしまっただけなのよ――!)
春人に勘違い女だと思われたらどうしようと、佳子は羞恥心で身悶えそうだった。