春人の。 4
春人と楽しい昼食を終えて、食器を下げるのを手伝っていると、予定外の訪問者によって玄関の呼び鈴が鳴らされた。
「はーい」
佳子が玄関へ小走りで近づく最中、訪問者は掛かっていた鍵を勝手に解錠すると、引き戸を開けた。
その開いた隙間から見えた和服姿の女性。それが視界に入った瞬間、佳子は思わず悲鳴をあげそうになった。
佳子が見守る中、その女性は玄関の土間へと足を踏み入れる。芯が通ったように背筋を正しく伸ばし、和装を着こなす女性。
いつものように化粧を丹念に施していて、完璧に淑女のお面を被っている。
「久しぶりね、佳子さん。音沙汰がないからどうしたのかと思って、久しぶりに帰ってきましたわ」
「お、お母様……」
母の後ろには、控えめな態度で従っている女中の姿も見えた。
母は落ち着いた口調で佳子に話しかけていて、別段怒っている様子ではない。しかし、長年母から押さえつけられていた影響で、佳子は無意識のうちに怯えてしまっていた。
「上がってもいいかしら? そこをどいてもらえます?」
ちょうど佳子が玄関の土間の前に塞がる様に立っていたので、避けるように指図した母。
それに反射で思わず従おうとしたところで、、佳子は首を横に振る。すぐに佳子は動揺から立ち直ったからだ。
家に上げてしまって居付いてしまわれては困るので、母たちを追い返さなくてはならない。しかも、荒れ放題になった屋敷を見たら、何と言われるかと佳子は内心焦る。
「あら、まだそんな意地を張っているの?」
「違います。今日はお客様が来ているので、また今度にしてもらえませんか?」
「お客様?」
母が険しい表情で佳子を睨み、次は下を向いて土間に置いてある履物を一瞥する。佳子もつられて見ると、母の視線の先には春人が履いていた男物の靴が揃えて置いてあった。
「私がいないうちに、あの男とよろしくやっていたわけね……」
低くなった母の声に、嵐の到来を感じる。佳子は覚悟を決めた。
「そうです。婚約者と仲良くしていて悪いですか?」
「良いわけ無いでしょう! 私が実家でどんな仕打ちを受けたか、貴女にはお分かり!? 貴女が勝手に婚約したせいで、親の教育が悪いだの、躾が悪いだの、親族にここぞとばかりに非難されて、居場所もなかったのよ?」
「あの家がおかしいんですよ。そんな中傷は気になさらないでください」
「おかしいのは貴女ですよ! 親に無断で婚約をするなど、親不幸以外の何物でもありません」
「嫌がる子供に無理矢理結婚させる親は、どうなんですか?」
「貴女、何を言っているの? 子供のためを思っての行動に決まっているでしょう!」
「子供のためと言いながら、自分にされた仕打ちを子供のせいにするって、どういうことなんでしょうか?」
「屁理屈を言わないで。どうして貴女は母の言うことを聞いてくれなくなったのですか。父親が亡くなるまでは、あんなに素直でいい子だったのに……」
「ただ単に我慢をしていただけです。自分の感情を殺して、お母様のご機嫌を窺っていただけに過ぎません」
佳子はそう言いながら、昔の自分を思い出して心が苦しくなる。母は佳子の気持ちを知らず、不愉快にため息をついた。
「世の中には我慢しなければならないことは、沢山あるんですよ。今回の結婚もその一つに過ぎません。貴女が高志さんとの結婚に同意してくれさえすれば、貴女の将来が保証されるんですよ? このまま一族に逆らい続ければ、当主としての地位も危うくなり、いつかはこの家から追い出される恐れだってあるんです。どうしてそんな簡単なことが分からないんですか!」
佳子は母の説教に苦笑するだけ。佳子はもともと当主に固執していない。自分に苦痛しか与えない地位など、母から結婚話を聞いた昔から嫌で仕方がなかった。
「そんな保証は要りません。私に代わる方がいらっしゃるんでしょう? なら、その方に当主をお任せすればいいんじゃないんですか?」
佳子は真吾の存在を思い出していた。恐らく自分の次に継承権のある異母兄。
母は佳子の言葉を聞いた途端、怒りの形相を露わにした。
「あんな血筋の劣った男に当主を継がせるわけにはいきません! 貴女が一番相応しいと云うのに、道理の分からぬ輩たちが、これ幸いと貴女を引きずり落とそうとしているんですよ。貴女も自分の立場をよく考えて、行動しなくては駄目ですよ」
佳子は母の発言に内心驚く。母は真吾の存在を知っていたのだ自分だけが何も知らされていなかったと、佳子が理解するのに十分な内容だった。
「お母様は、真吾さんのことをご存じだったのですか……?」
「あの男の名前を私の前で出さないで頂戴! 不快にも程があります。私の夫となる男を誑かした挙句、その女の息子が後継ぎ候補に挙がるなど、あってはならないのです!」
真吾は祖父に認知されているが、母の台詞や話しぶりから、真吾が父の子供である可能性はやはり高い様子である。
(もしかして、一族の中では周知の事実だったのかしら?)
子供の頃から夫婦の仲が冷え切っていた佳子の両親。それは、母の性格や金遣いのことだけではなく、真吾のことも関係していたのではないかと、佳子は勘づいた。
「色々と私のためと強調しておっしゃいますけど、本当はご自分のためじゃないですか? 私が当主のままならば、母も一族の中で地位は安泰ですし、ご自分にとって邪魔者の真吾さんの問題も片付きますものね……」
佳子の言葉に、心外だと云わんばかりに母は表情を苦痛に歪ませた。
「そんな悪意の籠った言い方をするなんて……、何て性根が醜くなってしまったんでしょう……。きっと、父親に似てしまったのね」
母に言われた台詞に佳子は自分の耳を疑う。最愛の父の悪口を、まさかその妻であった母から聞かされるとは思ってもみなかったからだ。それはまさしく佳子の逆鱗に触れた。頭を突き抜けるような怒りがわき上がる。
「お父様を侮辱するのは止めて! 酷いのはお母様だわ。私の気持ちを無視して、自分の都合ばかり押し付けて! もう話すことはありません。帰ってください!」
「まだ話は……」
母が何か言おうとしたが、口を開いたまま動きが止まる。母の視線が佳子の後方に向けられているので、気になって佳子は振り返ってみた。
「佳子さん、大丈夫ですか?」
いつの間にか佳子の背後には春人が立っていた。彼は佳子に声を掛けると、佳子の両肩に両手を添えるように置く。春人の掌から伝わる温もりが、この時は安堵を与えてくれて、少しだけ佳子を落ち着かせてくれる。
「春人さん……!」
佳子が春人の名前を呼ぶと、彼は穏やかな瞳で佳子を見守ってくれる。
それが今はとても心強い。
「よくも私の前に顔を出せたわね。人の娘を誑かしておいて……!」
母が射殺しそうな勢いで、春人を睨みつけていた。
「すいませんが、今日のところはお引き取りください」
「お前如きに口出しされる謂れはありません! 佳子さん、早くこの男と別れてしまいなさい。貴女は騙されているんですよ! この男には親が認めた許嫁のような女が既にいるんです! いつも家でも学校でも逢引していると、噂になっているんですよ!」
「あれはただのストーカーです。噂を鵜呑みにしないでください」
春人は語気強く弁解した。
彼はストーカーの被害に遭っていると以前も言っていた。きっと周囲に誤解された上に、噂まで流されて苦しんでいるのに違いない。佳子は実の母親よりも、春人の言葉を信じた。
「私は春人さんを信じます。決して別れません」
佳子が力強く断言すると、春人が背後から腕をまわしてきて佳子を抱きしめてきた。自分を包み込む、異性の堅く頑丈な体つき。彼の腕の感触に佳子の全神経が集中する。思わぬ春人の行動は、佳子の胸をドキドキと高鳴らせた。
見目麗しい異性との接近に心踊らない女性は滅多にいないだろう。しかし、佳子は春人の行動の意味にすぐに気付いて、冷静を取り戻していた。
(母に私たちの仲を見せつけて、堅い絆で結ばれていると思わせようとしているのね!)
恥ずかしかったが、彼の行動を抵抗せずに佳子は受け入れて、されるがままでいた。
「全く、この顔にすっかり骨抜きにされて……。弄ばれて捨てられても、誰も助けてくれませんよ。後で泣きを見るのは貴女なんですよ!」
母は苦虫を噛み潰した様な顔をして、恨めしげに言い募る。
まだ短い付き合いだが、春人は女を弄ぶようなタイプには見えなかった。母の悪意を感じて、思い込みで罵るのは止めて欲しいと、腹立たしく思う。
「彼は私を弄んでなどいません」
「そうです。私は佳子さんと真剣にお付き合いをしております」
「おほほほ、口では何とでも言えますものね。そもそも五月家に佳子を誑かすように指図されているんでしょう?」
「口では何とでも言うとは、正しく今の貴女の言動がそうじゃないでしょうか。私のことを悪く言うのは構いませんが、亡くなった人のことを悪く言うのはいかがなものでしょうか。それに誑かすのでしたら、わざわざ婚約しないと思いますが」
先程、母が亡き父を侮辱した件について春人が苦言を呈してくれた――。佳子はそのことに感動を覚える。あそこで不快な気持ちになったのは、自分だけではなかったのだ。
「どうせキズものにして、孕ませたあげくに、婚約を破談にして本命の女に逃げる気なんでしょう!? 佳子をボロボロにして一上家の血筋を汚す気なのよ……!」
よりによって何てことを言うのだと、佳子は母に呆れて眩暈すら起こりそうになった。
佳子の背後にいる春人の顔が見えないため、彼がどんな表情をしているのか分からない。母の言葉に彼が不快な思いをしていないか、不安になる。
そんな時、背中越しに春人が軽く笑っていた。彼の吐息がちょうど佳子の耳朶にかかり、くすぐったいような、背筋がぞくぞくするような、今まで感じたことのない気持ちにさせた。
さらに、佳子の体に回していた春人の腕がゆっくりと動いたと思うと、彼の両手が佳子の下腹部に当てられた。
「!」
佳子は思わず恥ずかしさの余りに悲鳴をあげそうになったが、それを必死に飲みこむ。背後にいる春人が好き放題するのは、今の自分たちが相思相愛の恋人同士の設定のため。佳子は心の中で呪文のように言い聞かせて、平静を保っていた。
「佳子さんのお腹に私の子供が宿っていたら、どんなに嬉しいでしょうね」
後ろから響いてくる楽しそうな春人の声。彼の大胆で恥ずかしい発言に、本日三度目の絶叫顔に佳子はなった。
目の前の母の顔が凶悪なものへ変化したため、佳子は内心慌てるが、すぐに「ですが」と春人の声が続く。
「まだ学生の身で責任が取れないので、残念ながら清いお付き合いしかしていませんよ。彼女の体が大事ですから」
母は春人に何か言おうと口を開くが、険しい表情から一変して、良い奸計が思いついた悪女に様変わりする。母の口元には邪悪そうな笑みが浮かんでいた。
「そうよね。卒業まではあなたたちは結婚できないものね」
母は今すぐに私たちが入籍する可能性がないことに気付いたのだ。それで母の中で猶予が生まれて、この余裕の表情になったようだ。
「ええ、まあ、そうですが……」
彼の卒業後も入籍する気のない佳子は、複雑な心境で母の言葉に同意する。
「オホホ、なら今はそれほど焦らなくても、良かったのね。卒業までに、時間をじっくり掛けて、貴方たちの関係を清算してあげましょう。ええ、きっとね!」
母は最後の言葉に力を込めて吐き捨てた。
一体何を企てようとしているのか推測できない、末恐ろしい母の執念。終わりのない戦いを佳子は予感せずにはいられなかった。
母は「また出直します」と言い残すと、女中を引き連れて帰って行った。
佳子の胸中を散々掻き乱し、後味の悪さだけを残して――。