春人の。 3
春人は「これから料理をしますので」と佳子に断って再び台所へ籠った。
その間、佳子は自室で内職に精を出す。しばらくすると、筆を持つ手が疲れてきたので、一旦休憩を取ろうと思い、部屋の引き戸を開けた途端、食べ物の美味しそうな匂いに気付いた。
春人が作っている料理に違いないと、佳子は確認するために閉ざされている台所の戸の前に立つ。それから邪魔をしないように音を立てずに少し開けて、こっそりと中を覗き込む。
こちらに背を向けて立っている春人が見えた。彼はガスコンロの前で菜箸を持って調理をしている。その彼の足元で動く小さな姿が見えて、佳子が視線を下へ動かしたところ、驚くべき事態が起こっていた。春人の周りには、膝丈くらいの妖怪たちがいて、棒のような物を持って彼の足を攻撃していたのである。
春人は器用に避けてはいるが、複数に囲まれて多勢に無勢な状況なので、たまに当たっていた。
「止めてくださいよ」
春人が困ったように苦情を言っても、妖怪たちは小馬鹿にしたように「ケケケ」と笑うだけで、手を止めない。
爬虫類が小人になったような妖怪たちは、佳子があげた端切れを自分たちで縫い合わせて作った服を着ていた。
蛙が潰れたような不細工な顔をしている彼らは、いつも陽気に歌いながら、佳子が頼んだ洗濯仕事をしてくれていた。暇な時は仲間同士で無邪気に遊んでいて、悪さをしているところなど今まで見たことがなかった。
目の前で繰り広げられる、そんな彼らの乱暴な仕打ちに、佳子は衝撃を受ける。次の瞬間には戸を勢いよく開け放って台所に入り込んでいた。
「こらっ! 春人さんに何やっているの!!」
春人と妖怪たちは後ろを振り返って、怒鳴りこんできた佳子を凝視した。
その怒りの形相を浮かべた佳子に、妖怪たちは一斉に震えあがる。彼らは得物を捨てるや否や、一目散に佳子から逃げ出した。
「こら、待ちなさい!」
「やだよ~みたいな?」
佳子の呼び止める声を無視して、彼らは足早に去って行く。逃げ足は途方もなく速かった。
「春人さん、ごめんなさい。躾がなってないばかりに、酷い目に遭わせてしまって」
佳子が慌てて春人に近づいて頭を下げると、春人は逆に恐縮して「頭を上げてください」と気遣ってくれる。
「叩かれたと言っても大した力じゃないので、全然痛くありませんでしたよ。子供の悪戯なようなものなので、全く気にしていません」
春人は本当に意に介していないらしく、佳子を穏やかな表情で見つめている。
シロの件があったため、春人は酷い奴だと何処かで思い込んでいた――。けれども、今回の彼の温厚な態度を見て、一概にそう考えてはいけないと感じる。
あの時、思い返してみえば、シロは包丁を持っていた。一つ間違えれば、春人が怪我をしていた可能性があったのだ。
春人ばかりを悪く思うのは良くない――、と佳子はやっと気付いた。
「春人さんって、実は優しい人だったんですね……」
「実はって……。もしかして、私は佳子さんの中では冷たい人間だったんでしょうか……?」
佳子は褒めたつもりで言ったのだが、言い方がまずかったらしい。佳子の言葉を受けて春人は傷ついて落ち込んだ表情を浮かべていた。
「いえいえ、違います! シロの件があったので、春人さんは妖怪には厳しい方なのかと思っていたんです!」
「ああ、シロの件は本当に申し訳ありませんでした……。あの時は色々と切羽詰まっていて、余裕もなかったし、シロも包丁を持っていたので、つい……」
「いえいえ、もうその件は怒っていませんよ! ところで、今は何の料理をしているんですか?」
「あ!」
気まずさから佳子が急に話題を変えると、春人は声を上げて慌てて後ろを振り返って、持っていた菜箸で何かしていた。
佳子が近づいて春人の手元を覗き込むと、てんぷら鍋で鳥の唐揚げを作っていた。
春人は箸で摘み上げた唐揚げを、紙を敷いた皿の上に急いで置く。
「揚げていたんですか。上手ですね」
佳子には揚げ物を作るなんて、そんな芸当は持ち合わせていない。
「少し揚げ過ぎて、危うく焦げそうでした」
ちょうど間の悪いタイミングで佳子が乱入してしまったようだ。妖怪に攻撃されてもなお、逃げようとしないで春人は料理していたのに、佳子は非常に申し訳なくなった。
「お邪魔してしまってごめんなさい。でも、春人さんの唐揚げはとても美味しそうですよ。ご飯楽しみですね」
「ああ、そういえば、もうお昼ですね。ご飯にしましょうか」
「はい。何か運ぶ物があったら手伝います」
佳子は春人に指示してもらって、ご飯の用意を手伝う。
お味噌汁を温め直す際に、佳子は春人に指摘されて、初めて火力の調整という技を知った。
「道理ですぐに料理が焦げると思いましたわ! 今まで私は強火で料理していたんですね」
「……」
春人は黙ったまま、佳子に何も返事をしない。
不審に思った佳子が春人の表情を伺うと、彼は手を口元に当てて、今にも噴き出しそうなのを必死に堪えている。何かが彼のツボに嵌まったようである。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
居間で佳子と春人は食卓を囲んで座り、目の前には出来たてのご飯が並べられている。
佳子が揚げたての唐揚げを口にすると、味が良くしみた肉汁が口の中に広がって、とても美味しい。衣もカリッとして、口当たりが良かった。
「春人さんは、料理が上手なんですね。凄く美味しいです」
「本当ですか? そう言われると作った甲斐があります」
料理の腕を褒められた春人は、心底嬉しそうな顔をした。彼は料理が本当に好きなのだろう。上機嫌な様子で、「唐揚げを作るコツはですね……」とうんちくを語りだした。
そんな彼の素朴な人柄に佳子は好感を覚えて、もっと彼のことを知りたいと願う。
(もっと仲良くなれたらいいな――。)
けれども、そんな望みは、佳子が抱えている一族の因果を彼に知られたら、蔑みの前に儚く消え去るだろう。
春人とは利害関係で付き合うのが一番だと理性では分かっている。
こうして今日ご飯を作ってくれたのも、シロの代わりを務めるためであって、佳子と仲良く交友を深めるためではない。
勘違いしては駄目だと、佳子は自分に言い聞かせる。
「ガスの火加減を覚えましたし、これからたくさん練習して、なるべく早く春人さんにご迷惑をかけないようにしますね」
火加減を覚えたことは大きな進歩のように感じていた。料理が焦がさなければ、何とか佳子でも火を使って調理が出来そうな気がしていた。
「全然迷惑だなんて思っていませんよ!」
春人は手を振って、一生懸命に佳子の言葉を訂正してくれた。
そう言ってくれる春人の優しさに、佳子の胸が痛む。
春人は真実を何も知らないから佳子に親切にしてくれるだけなのだ。彼の人柄を知るにつれて、だんだんと自分に対する親切が後ろめたくなっていた。
(もし私が一上の家に生まれていなくて、何も罪悪感なく彼と接することができたら。きっと、今後も良好な関係を築くことができるだろうに――。)
物思いに沈みそうになった佳子はふと我に返って、自分を恥ずかしく思った。
空想に逃避しても、現実は何も変わらないからだ。
目の前の春人は、佳子の暗い気持ちに気付かず、目が合うと「おかわりは沢山ありますよ」と声を掛けてくれた。
何気ないけれど、思いやりに溢れたやり取り。彼との和やかな交流に、佳子は今だけでも救われる気がした。