春人の帰宅
春人が一上佳子の家から長時間かけて帰宅してきた。
いつものこの時間帯なら、とっくに消灯している玄関の明かり。今日だけは点けっぱなしにしておいて、慶三郎は春人の帰りを待ち構えていた。
鍵の解錠する音に続いて、玄関の戸を開ける音が控えめに響く。既に就寝している家族を起こさないように、春人が気遣っているのが、慶三郎には手に取るように分かった。
居間から慶三郎は顔を出して、廊下の先にある玄関を見る。そこには、昨日買ったばかりの上着を着込んでいた春人の姿があった。
「春人、御苦労様」
静まり返った家の中、慶三郎は自然に小声で話した。その慶三郎の格好は、いつでも寝られるような寝間着姿である。
「待っていてくれたんですか、すいません」
春人はお辞儀をしながら、慶三郎と同じように小声で返事をした。
「指示しておいて、先に寝るわけにはいかないだろう?」
一上家の内情を探れ――と密かに命令を春人に下していた慶三郎は、今回は上司として部下の春人の帰りを待っていた。
春人は音を立てないように慎重に玄関の戸を閉めると、靴を脱いで上がり、上着を脱ぎながら手を洗いに行く。
慶三郎が居間のソファーに座って待っていると、上着を手にした春人がやってきた。
「さて、さっそくだが、簡単にどうなったか聞かせてもらおうか?」
「はい」
居間にある食卓の側に正座した春人は、簡潔に今日の出来事を報告する。
「婚約しただと? 思い切ったことをしたな」
慶三郎はほくそ笑む。
恐らくやり過ぎだと、咎められる覚悟をしていたのだろう。春人は肩すかしを食らったように、意外そうな表情を見せた。
「お前が進んで他人に関与するのが珍しいと思ってな。良くも悪くも、何事も経験だ。ただし、深入りするなよ。ミイラ取りがミイラになるぞ」
慶三郎はそう言って、片方の眉だけ上げて目配せした。
それに対して、春人は神妙な面持ちで、無言のまま頷く。
「まあ、この婚約の話も二木の耳に入れば、あっという間に里中に知れ渡るだろうな」
二木の当主だけでなく、当主以外の妹たちも一様におしゃべりが大好きな人たちなのだ。
仲人の喜美子に婚約したことを報告すれば、慶三郎たちが大して労せずとも、この話は瞬時に広がって一上分家の耳にも入ることは容易に想像できた。
(一体、彼らがどういう動きをしてくるのか見物である。)
慶三郎は右手で頭を掻きながら、ふと目の前にいる春人に視線を移した。
「それにしても、佳子も思い切ったことをしたもんだ。まぁ、あの分家とは俺も関わりたくないが、慣わしを破ってまで何故分家との結婚を嫌がるのか、理由を聞いてみたいものだな」
「そうですね。そのうち訊いてみます」
「無理するなよ。意図してあれこれ質問をすると、勘付かれる」
「はい、気をつけます」
「それで、連れ帰ってきた妖怪はどうするんだ?」
「今は車のトランクに札で封じた状態で入れたままです。明日、学校から帰ってきたら、曽我さんの所へ連れて行きます。しばらくそこで看てもらう予定です」
曽我は三十歳過ぎの独身男性で、役場に勤めながら、趣味で妖怪の研究をしている人である。
趣味に没頭しすぎて他のことにあまり興味のないタイプで、春人とは似たような気質でウマがあったのか、たまにつるんで出かけていた。
「ふーん、うまいこと言って、彼女に取り入ったな。まあ、今日はもう遅いし、早く風呂に入って休んでくれ」
「はい、そうします」
慶三郎はソファーから立ち上がると、背伸びをして居間から出る。それから、二階にある寝室へ向うため、床板を軋ませながら階段を上る。
部屋では、妻の夕輝と娘の陽菜が布団を並べて既に就寝していた。慶三郎の分の布団も並べて敷いてある。そこにすぐに入って横になった。
先週の出来事だ。佳子の忘れ物――バッグの中身を検分した時を慶三郎は思い出す。
彼女のバッグから見つけたのは、彼女のスケジュール帳だった。それに慶三郎は注目した。
勝手に女性の手帳を調べることに春人は躊躇していたが、慶三郎は置き忘れる方が悪いと言って、太々しくも手帳を手にとって開いてみたのだ。
手帳は見開きのカレンダーの欄から始まり、最初の一月には何も書かれていなかった。
次々と頁をめくっていくと、五月頃から記入され始めていた。七月からは働き始めたのか、出勤日らしいメモがあった。あと、たまに予定があることを分かるように簡潔にメモしていた。
佳子の手書きの字は、とても綺麗で読みやすく、上手だった。
「この月の絵のマークは何でしょうか? 毎月一つしかないですね」
「お前アホか?」
愚問を口にした春人に思いっきり呆れて、慶三郎はつい毒づいてしまう。
春人は言われた理由がまるで分かっていないのか、きょとんとした間抜け面をしている。
「女の子なんだから、生理の日に決まっているだろう」
察しの悪い愚弟のために、慶三郎がわざわざ丁寧に教えてやると、目に見えて春人の顔が赤く染まった。その赤面ぶりは一瞬で耳たぶまで赤くなるほど。中学生のような反応をする春人が面白くなって調子に乗り、慶三郎は他の月の生理日もチェックしてみる。
「へぇ~、彼女はしっかり毎月くるタイプなんだな。お前、危険日って知っているか? 生理が来る2週間前に排卵するから、その付近がやばいんだ。逆に安全日はな、生理が来る直前頃で、えーと、彼女の場合、今月はこの日あたりが狙い目らしいな」
ついでに女の子の体の事情も説明しながら、カレンダーの日付を指差して教えてやると、春人は顔を真っ赤にしながら慌てていた。
今どきの高校三年生とは思えない純情ぶりだった。
「な、何言っているんですか! そんな調査と全然関係ないところまでチェックしたら失礼ですよ!」
春人の真面目っぷりには、頭が下がるほどだ。慶三郎はそんな彼の反応を十分楽しんだので、本題に戻ることにした。
「はいはい、お前もこれしきのことで動揺しない。それにしても、何で年の途中から書き始めているんだろうな。普通、一月から書くよな?」
「病気のせいで書けなかったんでしょうか?」
「うーん、怪我をして手が使えないならともかく、手帳くらいは病気の時でも使うんじゃないか? まあ、それは本人しか分からないことだな……」
一上高志が“家出”と佳子の件で口にしていたと、春人から報告を受けたのは記憶に残っていた。
(当主の長期の不在は、病気の療養ではなく、家出をしていたせいだったのかもな。)
佳子は家出から帰って来てから、手帳を使用し始めた――と色々と推測できるが、根拠となるものがない以上、結論が出ないのでこれ以上の考察は中断した。
「あと、これを見ろ。こっちには使った金額が書かれている。手帳を家計簿代わりにも使っていたんだな」
一週間の見開きページには、八月頃からその日に使ったと思われる金額が書かれていた。その出費額を見ると、慎ましい生活を送っていることが分かる。
また、たまに人の名前も見かけた。春人とのお見合いの日には、“五月”という文字と、待ち合わせ場所のホテルの名前と時間が記されていた。会う予定のある人の名前と、約束した日時と場所を忘れないように佳子はメモしていたのだ。
これより先の日付には、“如月、しんご”と名前が書かれていて、お店のような名前と時間が書いてあった。
「点で区切ってあるということは、“如月”と“しんご”という二人の人物に会うということか。しかも、“しんご”とあるが、何故これだけひらがなで書いて、名字ではなく下の名前なんだろう」
佳子は会う予定の人物の名前を“しんご”以外、全て名字で書いていた。
慶三郎は何かが引っ掛かる。
「呼び捨てで呼び合う仲なのでは?」
「そこまで親しかったら、名前の漢字も知っているだろう?」
「親しくない人物ということですか」
「知っていたら、多分佳子は手帳に漢字で書いていたはずだ」
男の名前で“しんご”という名前が元からひらがななのは、一般的に少ない気がした。
ただ、名字を記入していない状況は、下の名前しか知らないという可能性もあった。しかし、他人の名前というものは、下の名前よりも名字で覚えている方が多いのではないかと、慶三郎はなかなか納得できなかったのだ。
「もしくは、同じ名字の人物が多くて、下の名前で判断しないと誰か分からない状態なのか?」
春人はその言葉の意味を察したらしく、無言で軽く頷いた。
佳子の場合は、背後に分家という存在がある。分家は、ほとんどが一上姓を名乗っていた。
もし、彼女が会う人が分家の人間ならば、名字ではなく名前を記すのは筋が通る。
「面白くなってきたな。誰と会うのか、ちょっと店の名前を調べて見張ってみるか」
表では分家と対立する様な真似をしていて、わざわざ陰で分家の人間と会うのも怪しい。
もし、分家の人間と会うのならば、どんな人物と接触するのか。慶三郎はそれに興味が湧いてきた。
それから慶三郎はお店の名前から該当する店舗を調べ出した。各店舗に電話で日時の確認をするふりをして、予約客の確認を取ってみたところ、如月という名前で同一時刻に予約を取っていたお店を突き止めた。
(佳子の友好関係を少し調べてみるのも、捜査の幅が増えるきっかけとなるかもしれない。)
慶三郎はそう考えて、調査の実行を決意した。
春人とのお見合い当日に、最後に現れて佳子を攫った男。彼が乗っていた車の登記情報を調べてみたところ、意外な事実が発覚したのだ。
車の所有者の名義は、“鬼頭 克”という人物だった。
株式を上場している企業をいくつも傘下に治めた親会社の会長の名前だ。様々な分野に進出して、手広くやっているグループ企業の代表。
まさか高齢の会長本人がやってきたとは考えられないので、その大物から車を借りたと予想された。そんな人物とつながりがある男と佳子が交友していたとは、慶三郎はただ驚くばかりであった。
(そのあたりの裏事情も分かれば、ますます面白い――。)
一上家の分家を探るため、未だごく少ない情報量とはいえ、春人が自ら進んで人と関わり収集したのだ。慶三郎はその彼の姿を見て、大変前進しているとしみじみ感じていた。
調査という全く私的なことではないが、それでも人と触れ合ってやり取りを学ぶことは、現在の春人にとって必要な経験になるからだ。
今回、佳子から本心を聞き出し、交渉の末に偽装の婚約話まで持ちかけたのだから、大したものである。
五月家の人間が、一上家の本家を訪れたのは初めてのことだ。しかも足を運ぶ口実を作って、今後もお邪魔する約束を取り付けた。
佳子の家は、泥棒にでもあったかのように凄まじく散らかっていたと報告を受けた。そのため、色々と調べ回っても気付かれにくいから好都合だと、春人は語っていた。
(なかなか春人も諜報員として、やるようになったものだ。)
春人が五月家に来たのは、彼が五歳の時だった。
慶三郎と春人は、年が一回り近く離れていた。ちょうど慶三郎自身が思春期に入る頃だったので、親の目が春人へ集中したのは、自分にとっては大変有難かったのを覚えている。思春期特有の反抗期の、親の干渉が疎ましく感じる時期だったからだ。
初めて会った時の春人は、子供のくせに死んだような暗い目をしていた。
常に怯えたように人の顔を窺い、手が頭の上に近づいただけで、反射的に顔と身体を強張らせる始末。
こちらが話しかけるまで何も話さず、子供らしいところがまるでなかった。
慶三郎はどうなるかと思ったが、亡母が生前、それはそれは優しく接して春人を甘やかせてやり、ずいぶん時間をかけて信頼関係を築いていった。
そのおかげで春人は母に良く懐き、家の中では何処に行くにも側を離れずべったりだった。それから徐々にだが、彼は母以外の家族にもやっと慣れてくるようになった。そうなると、不思議と可愛くなるもので、慶三郎と仲良くなったのは、それからだ。
そうして、だんだんと春人が色々な感情を露わにするようになると、今度は興奮した時の癇癪が酷かった。
今まで理不尽な形で押さえつけられていた感情が、色々な形で出されるようになったため、急に上手くは制御できなかったらしい。そう母が説明していた。
しかし、そうは言っても現実の被害は目を覆わんばかりのものだった。
春人の特殊能力は身体的強化である。通常の大人よりも破壊力を持つ腕力や脚力。それを感情のままに振り回して、家の中のあちこちを破壊し尽くした。
感情の嵐が去った後に、春人本人は後悔して酷く塞ぎこみ、それを母が慰めるというパターンを何度も繰り返していた。
慶三郎は春人を恐ろしい子供だと思ってしまったが、母はそんな自分にこう言った。本人が一番可哀想なのだと。そして母は決して見捨てたり突き放したりしなかった。
そのうち、母が言うように春人は感情の折り合いを訓練してつけられるようになった。野生の猛獣のような子供が人間らしくなってきて、問題を起こすことが少なくなったのだ。
ところが、学校に通うようになった春人は、どうも人間関係で上手くいかない様子だった。
家族には慣れ始めていた春人だったが、入学当時は同級生にもビクついていて、すぐに泣きだすような弱虫だったからだ。
苛めというより、おもちゃにされていて、よくからかわれては泣かされて学校から帰って来ていた。
そのうち、春人は意地悪な奴らから自分の能力を活かして逃げることを覚えていた。その結果、構われないように他人と接触自体を避けるようになってしまったが。ほとんどの子供は家の外で駆けまわっているのに、春人は友達と遊ばず、家の中や道場にしか顔を出していなかった。
そうして中学校に上がると、今のような性格にほとんど出来上がっていた。
ちょうどその頃、母が不調を訴えたので病院で検査したところ、末期の癌であることが発覚した。
それから坂道を下るように、急速に病状は悪化して、亡くなった母。苦しむ期間が短かったのが、せめてもの救いだった。
そんな母が最期まで春人のことを気に掛けていた。
今の春人は大げさに言うと、自分の世界に閉じこもって、人間関係の余計なストレスを受けないように自己保身に走っているように見えた。
友達と言っても、道場に通っている同級生数人だけで、人間関係はほとんど築かれていない。
他人と接しなければ、確かに煩わしいことから逃れられることが出来るだろうが、それ以上に大事なことを得ることが出来ない。
慶三郎は春人を何とか変えたいと思っていたが、それは本人が望まない限りどうしようもない事である。
今回、佳子によって偶然にも春人に白羽の矢が射られ、それを利用して彼を一上家の調査に駆り出したところ、予想外に面白い方向へ話が進んで行く。今後の報告が楽しみである。
偽装とはいえ、一上家と婚約したことに親父は良い顔をしないだろう。しかし慶三郎は事情を説明して説得するつもりだ。
(そういえば……。)
慶三郎はふと別件を思い出す。先週くらいから、従兄妹の里香が春人を目当てに五月家に遊びにくるようになったことを。父が面白がってお節介を焼き、二人をくっつけようとしていた。
里香は父の義妹の子供である。
父が後継ぎとして五月家の養子となったが、そもそも五月家の実子として里香の母がいて、大橋家に嫁いだのだ。
最近できたアウトレットパークに行きたいと里香が言い出し、それを聞いていた父が口添えしたのだ。「それなら春人が車を出せばいい。ついでにこずかいあげるから上着でも買ってこい」と。そうやって全く乗り気でない春人を無理矢理頷かせていた。
春人は父には柔順で決して逆らわない。思春期であるにも関わらず、春人の反抗的な態度を慶三郎は今まで見たことがなかった。
父もそれを見通して言っているから人が悪い。
しかし、そのくらいのことをしないと、春人はいつまでも変わらないのは理解できた。
里香は明るくて愛想のいい可愛い娘だ。挨拶もきちんとしてくれる。
無愛想な春人にはお似合いかもしれないと、父はいたく気に入っていた。
春人は相変わらず彼女にも無関心で相手にしていないが、それにもめげずに里香は積極的に話しかけていた。
(まあ、あのくらいしつこくないと、春人は落とせないかもしれないな。)
昨日の春人は、親父の言いつけどおり里香と出かけていた。
春人は日が暮れる前に帰ってきたが、嫌なことが蓄積していたのか、家の裏の雑木林で暴れていた。そこにあった樹木の数々を、春人は素手や足で殴りつけたり蹴りつけたりして、幹の根元からへし折って倒していた。
所構わず癇癪を起こすことは無くなったものの、我慢できない怒りやストレスを何かしらにぶつけて発散するのは昔と変わらなかった。それでも自分で考えて被害の少ない場所を選ぶようになったのは、大きな進歩である。
以前、春人が雑木林を風通し良くしたのは、高校へ入学した頃だった。それ以降、波風の立たない生活を送っていたのに、最近は慶三郎が無理矢理参加させた奉納試合で優勝して注目されるようになったせいか、ストレスの溜まることが多くなっているように感じる。
(うちの雑木林が、そのうち丸坊主にされなければいいが。)
ちなみに倒された木々は、近所の人がトラックに積んで持って帰ってくれた。冬場に薪に使うと、有難がられたものだった。
慶三郎がごろりと寝返りをうつと、その向いた側にはすぐ隣に妻の夕輝がいて、寝ている姿が見えた。
目を瞑って静かに眠っている。そう思っていたら、夕輝の目が開いて、見つめていた慶三郎と視線があった。
「起きていたのか?」
慶三郎が密やかに話しかけると、夕輝は首を横に振った。
「慶三郎様が入らした時に、たまたま眠りが浅くて、起きたのです」
「そうか」
「眠れませんか?」
「考え事をしていて、頭が冴えてしまったよ」
そう苦笑しながら答えると、慶三郎の布団の中へと夕輝が体を動かして入ってきた。
慶三郎の足に摺り寄せてきた夕輝の太もも。
布団で温まっていた夕輝の足は、冷たくなっていた慶三郎の足に熱を与えてくれる。擦れ合う彼女の足の肌は、とても滑らかで、気持ちが良かった。
「足先を温めると、寝つきが良くなりますよ」
慶三郎は自分を気遣って優しげな表情を浮かべる夕輝を見つめて、幸せを感じる。
慶三郎は夕輝を抱きしめて、彼女の髪に自分の顔を埋めた。
自分と同じ洗髪剤を使っているはずなのに、彼女からは自分とは違った不思議と良い匂いがする。
安らぎを胸に抱きながら、慶三郎は目を閉じた。