春人と。 5
話し合いが終わった後、春人は車を発進させて、来た道を戻っていた。
佳子たちが待ち合わせに使ったホテルへ向かっているのだ。
車の中で佳子が我慢できずに咳込んでいると、「大丈夫ですか?」と春人に声を掛けられた。
それに対して「うるさくて、ごめんなさい」と佳子が謝ったのは、発作のような咳が治まってからだ。
車内の暖房が効いてきても、佳子の体の悪寒は無くならない。
途中でコンビニに寄った時に、付き合ってくれたお礼だと温かいココアを春人に奢ってもらって飲んではみたが、全然身体は温まらなかった。
急速な勢いで悪化していく体調。
佳子の頭は酷くぼうっとして、ほとんど考えられなくなっている。なにより体がだるくて仕方が無い。
もしかしたら、熱が出てきたのかもしれないと、佳子は自分の経験から感じていた。
余計なことを言って、春人に心配を掛けてしまうのも申し訳ない。そのため、佳子は自分の状態を黙っておくことにした。
「エアコンの温度上げてもらっていいですか?」
佳子がお願いすると、すぐに春人は手前の調節レバーを動かしてくれた。
その途端、空調の入り口から温かい風がより強く吹いてきた。
「寒いんですか?」
「そうなんです。すいません」
春人が運転する車が、赤信号に引っ掛かって停止した。
その時に、春人は左手を遠慮がちに佳子の顔の方へ伸ばしてきた。
「少し、失礼しますね」
春人は佳子の返事を待たずに、額に手の平を当てた。
先ほどとは異なり、彼の手の方が冷たく感じた。すぐに彼の手は離れる。
「熱があるんじゃないんですか?」
春人は心配そうな表情をする。
「そうですか? 五月さんの手が冷たすぎるだけですよ」
佳子は気を遣われたくなくて、誤魔化そうとした。
一方で、春人は自分の額にも手を当てて、体温を確認していた。
「やっぱり、私より熱いですよ。私の平熱は六度五分くらいなので、それ以上は絶対にあります」
意外に高い体温に佳子は驚いた。佳子の平熱はもっと低い。
「そうですか? でも、あとは電車の中で座って帰るだけですから大丈夫ですよ」
車はもうすぐ佳子たちが待ち合わせた街に到着しようとしていた。見覚えのある風景が視界に入ってくる。
「佳子さんの家まで送りますよ。電車だと途中で歩いたりしなくてはいけないから、大変じゃないですか」
「五月さんの家とは逆方面ですし、五月さん自身が帰るのが大変になってしまうので、結構ですよ?」
佳子の家から里まで三時間くらいかかるのだ。
春人が佳子を家まで送って、それから帰宅するとしたら、とんでもない時間を運転することになる。
運転初心者なのに、長時間運転をしてしまったら、疲労の為に注意力散漫になり、事故を起こしてしまうかもしれない。そう佳子は懸念して、彼の申し出を即座に断った。
「でも、放っておけません」
「五月さんがそこまで気をかける必要はないと思いますよ。お気持ちだけで十分です」
「佳子さんは長い間療養していて、病気が快復したばかりじゃないですか。それなのに、私が連れまわしてしまったために体調を崩させてしまって、そのまま放置して帰ったら、気になって運転どころじゃありません。この時期の海辺があんなに寒いとは思っていなかったんですよ。本日は、申し訳ないことをしました」
佳子の三年近くの家出による不在を、一上家では表向きには病気ということにしていた。
そのことを春人は言っていたが、ここまで心配されるとは思ってもみなかった。
「五月さんに会う前に風邪をひいていたんですから、本当に気にする必要ないですよ?」
本当のことを言える状況ではなかったため、訂正はしなかったが、佳子は春人の主張を受け入れなかった。
きちんと今日の不手際を謝ってくれた春人。それで佳子は少し気が晴れたため、そこまで彼が自分に対して気を遣う必要はないとように感じた。
「佳子さん、諦めてください。もう決定事項です」
しかし、春人も負けじと言い返すどころか、断言をしてきた。
ここまで強く相手に言い切られて、佳子はこれ以上の抵抗は無駄だと悟る。
春人は強引だ。そもそも、今日の約束も一方的に取り決められ、海へ向かったのも春人の独断だった。
きっと佳子がこれ以上何を言っても、話し合いは平行線のままで終わり、結局は運転する春人の思う通りになるだろう。佳子は少し春人の性格が掴めてきた。
「分かりました。申し訳ないですが、よろしくお願いします」
それでも結果的には、今回の春人の申し出は正直ありがたかった。
このまま座っているだけで、家の前まで連れて行ってくれるのだから、体は楽で消耗を最小限に抑えることができる。
「着くまで寝ていていいですよ。あと、これ」
春人は再び信号で止まった時に、自分が着ていたブルゾンを脱いで佳子に渡した。
「どうぞ使ってください。少しでも温かくしてください」
「あ、ありがとうございます……」
佳子は差し出された上着を受け取る。まだ真新しそうなそれは、佳子も知っている有名なメーカーのロゴが印字されていた。
彼の好意を無下にするのも悪いと思い、上半身にかけてさっそく使った。
春人の香りというか、全然馴染みのない異性の匂いがして、否応なしに佳子は意識してしまう。
(なんか、変に緊張する……。)
佳子は偽りとはいえ、婚約してしまったのだ。
隣にいるのは、その相手。
こうして優しくされると、何だか急にそわそわとして居心地の悪い気分になってしまう。
(こういう状況って、苦手だわ……。)
朦朧とした頭からは、この場に適した話題が全く思い浮かばない。会話が進みそうもない現状では、春人のお言葉に甘えて佳子は寝ることにした。
目を瞑ると、心地よい揺れもあってか、すぐにうつらうつらとしてきた。
そんな佳子の様子を、春人は盗み見るかのように観察していた。
佳子の体調を案じて、気遣いが浮かんだ春人の眼差しに、目を閉じていた佳子が気付くことはなかった。