喧嘩
――それから三年後。
夏の季節が過ぎてすっかり秋らしくなったこの頃。風が幾分か冷たさを帯びてきていたが、今日のような晴天の中では、窓ガラスから差し込む陽の光が体を温めてくれていた。
「佳子さん、貴女は何て事をなさったの!?」
そんな長閑な雰囲気を破壊するような母の怒声が佳子の部屋に響き渡る。母の怒りの剣幕は凄まじかった。佳子は予想していたとはいえ、内心恐れで縮こまる。
自室にいて佳子が筆耕の仕事に勤しんでいた時、いつもの和服姿で訪ねてきた母の政子。
父の死後、佳子は家出していたため長く家を空けていた。その彼女が今年の春に自宅へ戻って来てからというもの、毎日のように結婚について、母は説得もとい説教をしていた。
そんな母に佳子が先ほど「五月家にお見合いを申し込んだんですよ~、アハハ」とふざけ気味に暴露したら激怒されたのだ。
母は十六歳で結婚してから、佳子が授かるまで十年もかかっていた。そのため、まだ娘が二十一歳と若いというのに、母は非常に焦っていた。その気持ちは、佳子も分からなくもない。しかし、毎日耳にタコが出来るくらい「結婚、結婚」と繰り返されて、佳子は鬱憤が溜まっていた。
「いきなり大声を出されてどうしたのですか、お母様」
母の怒りの原因などとっくに分かっているはずなのに、敢えて佳子は平静を装ってとぼけてみせた。
このぐらいの意趣返しは可愛いものだろう、と佳子は思う。
佳子はゆっくりと手にしていた筆を卓上の筆置きに戻すと、母親の方へと向き直る。
母は佳子と目が合うと、目尻を釣り上げて彼女を睨みつけた。
家の中でもきちんとした和服姿の母とは対照的に、彼女の着用していた衣類は長袖のカットソーに綿パンという寛いだ感じのホームウェアである。
しかも、古臭いデザインの黒縁眼鏡を使用している。以前はコンタクトを装着していたが、ひと月ほど前に洗面所でうっかり排水溝へと流してしまったのだ。
母に倣って和服を着こなしていた時期もあったが、今ではこの恰好が定着している。これについて母との間に一悶着あったのだが、佳子は無言の勝利を治めていた。母の小言を馬耳東風の如く無視を続けていたら、いつの間にか母が諦めていたからだ。
「五月家にお見合いを申し込んだなんて……。なんてことをしてくれたのです!」
鬼の形相をした母を佳子は作った笑顔で見つめる。
血族内での婚姻が常識の母には、娘が他家の人間と結婚するなんて考えられないのだ。しかも、五月家といえば、里の中で一上家と犬猿の仲で有名である。
「お母様と約束したじゃないですか。里の奉納試合で優勝した人と結婚するって。だから、五月家にお見合いを申し込んだんですよ」
先月のことになるが、母の故郷で毎年恒例の盆祭りが開催されていた。そのお祭りのメインイベントで、四年に一度の奉納試合があったのだ。そこに佳子は一上家の当主として母と一緒に観戦していた。
決勝戦は、一上家の分家と五月家の対戦。その勝敗について佳子と母は賭けをしたのだ。そして、今年は五月家の人間が優勝していた。
「佳子さん、何を言っているの!? あれは……」
「分家の人間が優勝した時、限定とか言わないで下さいよ?」
佳子は母の言葉を遮って発言した。
母は分家筋の高志と佳子を結婚させたがっていた。
その相手が前回の奉納試合にて準優勝だったという話を佳子は聞いて、「優勝も出来ない人間と結婚なんて出来ないわ」とわざと嫌味を言ったのだ。ところが、母はそれを逆手にとり、「じゃあ、優勝したら結婚してもらうわよ」と無理矢理約束させられた経緯があった。
トーナメント方式の決勝戦で一上家と五月家がぶつかり合い、勝負の軍配は後者に上がった。
親が勝手に決めた婚約者が優勝したら、問答無用で入籍させられそうだったが、佳子は何とか難を逃れたのだ。
そして、これ幸いにと母の言を借りて、優勝した五月家にお見合いを独断で先日申し込んでいた。
全ては母の背後にある分家との繋がりを断つために。
同じ血縁同士の婚姻を繰り返してきたため、異能の力を今まで保持することが出来た。ところが、数代前からの当主筋の人間は虚弱体質が続いている。血が濃くなっていることの弊害かもしれないと佳子は推測していた。
父が生存していた時は、それが母の勧める縁談を渋っていた主な原因でもあった。
また、勝手に決められた婚約者に佳子は良い印象を持っていなかったのもある。何度か相手と母の故郷で会ったことがあるが、分家で育った母と同様な物の考え方をする人だったからだ。
ところが、父の死後、別の理由で分家とは縁を切りたいと、佳子は考えるようになっていた――。
佳子が幼い頃から感じていた事だが、母の考え方は相容れないものが多かった。
一般の子供に混じって育ってきた佳子と、古くからの一族の因習を当たり前として分家の中で育ってきた母の政子。
二人の環境は大きく異なり、母の言動は佳子を子供の頃から苦しめてきた。
それでも今は亡き父が佳子と母の間に立って、彼女を守ってくれていた。しかし、優しい父の庇護の手はもはやない。
父の死後、佳子はこの家や母から逃げるように家出してしまったが、ある目的を果たすために再び自宅に戻って来た。
「屁理屈を言わないでください。一上家の当主である貴女が、後世に後継者を残すためには、婿は適当に選べないんですよ! 先祖が苦労して残してきた素晴らしい力を、貴女の代で途絶えさせるわけにはいかないのです。それに五月の四男坊と言えば、他所からやってきた貰われっ子ではないですか。どこの馬の骨とも知らぬ輩……」
「お母様が何と言おうと、もう当主である私が決めたことですから、決定事項です。黙って従ってください」
私は再び母の科白を遮った。
佳子が母の目を見据えながら低い声ではっきり言い切ると、母が怒りで身を震わせたのが分かった。
そして、振りあげられる母の右手。
「パシンッ」
佳子の頬を平手で叩く音が部屋に響いた。
和服の袖を左手で押さえて右手を振りおろした姿は、険しく恐ろしい形相でも非常に優雅で凛としていた。
「親に向かって何て口の聞き方をするんです! 当主といえども、一族が決めた者以外との結婚は許されません!」
佳子は打たれた頬を手でさすりながら、そう叫ぶ母を見た。
母が放つ凄まじい怒気によって、佳子の肌に電気が走ったような感触がした。
母の言動は佳子の予想の範囲。歯を食いしばり、母の気迫に負けまいと踏ん張る。
「もう私は成人しましたから、保護者の同意なく結婚できます。しかも、結婚は個人の自由でしょう。一族が勝手に決めるなんて馬鹿馬鹿しい」
「なんですって!」
佳子が吐き捨てるように中傷すると、母の怒りがさらに増したのが手に取るように分かった。
母を追い詰めようとさらに口を開く。
「そもそも、お母様はどうなんですか? 嫁に出てもなお、親の脛をかじって贅沢三昧。いつまでお嬢様気分で、ご実家からお小遣いを貰えば気が済むんですか? お父様があまりお金を稼げなかったのは事実でしたが、お母様も一緒に働いて二人で頑張れば、分家のご実家に頼らず貧しいなりに生活できたかと思うんですけど。それなのに、一切働こうとはしませんでしたね」
綺麗に整えられた母の眉毛が、ピクリと跳ねあがった。興奮しているためだ。
お役目のために、里から遠く離れたこの地で生活している当主筋の家系。今ではすっかり落ちぶれて、分家から見れば能力と血筋だけしか勝る物がない。
貧しい本家とは対照的に、繁栄して裕福な分家。
恵まれたお嬢様生活を送って来た母は、嫁に来ても本家の状況に馴染もうとせずに独身時代と同等の生活水準を求めた。
身につける衣類や装飾品は高級品ばかり。女中を分家から呼んで家事をさせて、自分は全く手を掛けなかった。
「貴女、何を言っているの!? そもそも、どうして私が働かなくてはならないのですか。私は当主の嫁としてふさわしい振る舞いをとってきただけです。そのことについて非難される筋合いはありません!」
「当主の嫁としての振る舞い? お母様の場合、私を産んだは良いけど、子育ては女中に任せて、外に出て遊びっぱなしだったじゃないですか」
呼吸器系が生まれつき弱い佳子は、熱を出した時にその症状が悪化することが多くて苦しい咳が何日も続くことがあった。
そんな状態の佳子を母は特に悪びれもせずに置いて出かけたことがあった。
女中や父が家にいてお世話してくれたから、放置されていたわけではなかったが、小さい頃はやはり体調が悪くて辛い時の母親の不在は寂しいものがあったのだ。
大きくなった今でも、忘れられない記憶の一部となっている。
「遊びって、何てことを! お付き合いも大事な女の仕事なんですよ! 貴女、今更何を言い出すの!?」
佳子の言葉に傷ついたように母は顔を顰める。母の肩が興奮の為に震えていた。
どんなに母が反論しても、佳子は全く同情しようとは思わなかった。
母が会っていた人たちは独身時代に分家との付き合いがあった人で、佳子にとってみれば本家のこの家に住んでいる限り、無理に付き合う必要のないものである。
嫁の仕事と称するには、あまりにも勘違い過ぎる。
「お金もないのに見栄だけのために新しい衣服を買い、付き合いと称してその人たちにあわせて豪華な食事のし放題で、金銭的にずいぶんお父様を苦しめたんじゃないですか。いつも分家のお爺様に頭を下げて、可哀想でした。 私は、もう分家から経済的に援助してもらうのを止めたいんです。レジのバイトと内職の収入は少ないですけど、贅沢をせず節約すれば何とか食べていけます。お母様もここで暮らす以上、何かしら働いてください」
母の顔が醜く歪む。怒りは頂点に達したと見た。
父と母の仲は、悪かったと佳子は認識している。
佳子の言ったように金銭感覚のない母は湯水のようにお金を使い、いつも父は支払いに苦慮していた。
母の実家に頭を下げながら電話している姿を何度も見かけたことがあった。
もちろん父は母に何度もお金の使い方について母の背後にあるお爺様の存在に遠慮して、遠まわしであったが苦情を伝えていた。
しかし、独身時のお嬢様感覚がいつまでも抜けない母には、全く理解できなかったのだ。
実家に援助してもらうのに何の疑いも抵抗も持たない母とは、話し合いになってなかった。
優しい父から笑顔が消えたのは、いつだったからか。
そんな父の姿を見て育った佳子は、自分自身が同じように母によって苦しめられるのは何としても避けたかった。
そもそも分家に依存していては、結婚を断ることができない。
まずは自立しなくてはと、佳子は今年の夏頃から働きに出ていた。
外で働くことを良しとしない母によってそのことを反対されたが、言うことを聞かずに続けていた。
それは母に初めて逆らった時だった。
自分の意思を曲げずに給料日まで働き続けて初めて給料を貰った時は、本当に感動したものだ。
「何で子供の貴女にそんな酷いことを言われなくてはならないの!? お父様の援助は当然なものよ!」
母は興奮のあまりに、大きな声で叫んでいた。
そんな母の姿を見て、逆に佳子は自分が冷静になるのを感じた。表情を殺して目線を送る。
「では、お爺様の扶養されるつもりなら、ご実家に帰られてください。うちでは、働かざる者食うべからず、です」
「なんですって!? 貴女、自分の親を追い出すつもり!?」
母の科白にわざとらしくため息を漏らす。
「出て行きたくないなら、仕事を見つけて働いてください。お母様はお父様や私と異なり、病気一つない健康体じゃないですか」
佳子は言いながら、決して母が自分の提案を受け入れないことを確信していた。
「親に向かって、何て生意気な! 誰のおかげでここまで育ててもらったと思っているの!?」
母は憎らしげに佳子をしばらく睨み続けた。一方、佳子はその視線をかわすことなく受け続ける。
この気持ちを伝えようと決意するまで、佳子はどれほど躊躇いや母親に対する恐れがあったか。
それを克服したからこそ、彼女は母と対峙できたのだ。
目を逸らさず自分を見つめる佳子の姿に揺らぎない意思を感じ取ったのか、ふと母は険しい表情を緩めた。
そして、興奮を抑えるためか、大きなため息を一つこぼした。
「いいでしょう。貴女の言う通り、実家に帰って差し上げましょう。せいぜい苦労して、親のありがたみを知りなさい。……貴女独りで何ができるというのかしら」
話し合いの末、折れたのは母だった。
佳子を見る母の目つきは鋭いものの、先ほどより表情は平静に近くなり、怒りで興奮した頭は少し落ち着きを取り戻しているように感じた。
佳子が音を上げて親に泣きついてくるに違いない――と母は高を括っているのだ。
佳子は母のその言葉に何も返さなかった。
「家出しても結局は戻ってきましたしね。今回はいつまで強がりを言っていられるかしらね?」
母はそう捨て台詞を残すと踵を返す。足音も無く佳子の部屋から出てゆき、戸を閉めて行った。
遠くで母が女中を呼ぶ声がする。
きっとこれから母は実家へ帰るために準備をするのだろう。佳子はほくそ笑んだ。
全ては佳子の計算通りに事は進んだ。
母と分家から遣わされた女中をこの家から追い出す。
それこそ、佳子の考えたシナリオの一部だった。
今頃になって、手が震えてきた。緊張が途切れたせいだ。
佳子は自分の手をそっと握り締める。
(長い間溜めこんでいた母への不満をぶちまけてすっきりするはずだったのに、虚しいのは何故だろう――。)
子供の頃から抑圧されていた感情は、まだうまく整理できそうもなかった。