春人と。 2
春人が運転する車は、道路の流れに沿って一般道を走っていた。
先程から車内の会話は少なく静かだ。
春人から話題を振ってくることはなく、佳子が話しかければ答えてくれるだけ。
もともと喉の調子が悪く、声を出すのが辛かったのと、色々あって憂鬱な気分だったため、佳子は気を遣うのを早々に諦めていた。
佳子が口元を押さえて軽く咳をすると、春人が「風邪ですか?」と尋ねてきた。
「そうなんです。季節の変わり目って体調を崩しやすくて」
「熱はないですよね?」
「はい、咳だけなので、大丈夫ですよ」
「寒かったら言ってください。温度調整しますから」
「はい、ありがとうございます」
ホテルを出てから、車はずっと走り続けていた。佳子が腕時計で時刻を確認すると、二時二十三分を指していた。
視界に映る道路標識の案内は、佳子にとって全く見知らぬ方面が記されている。
佳子は目的地について、まだ何も聞いていなかった。
「あの、どちらへ向かっているのですか? あまり遠いところだと、帰るのに困るのですが」
「帰りはちゃんと送りますから大丈夫ですよ。ちなみに海に向かっています」
「海ですか!?」
佳子は春人の答えに心の底から驚いた。
(夏ならまだしも、こんな冬になろうとしている時期に海へ行くなんて!)
今の季節に海へ入るのは常識的に考えられない。そのため、美味しい魚介類でも目当てに行くのだろうかと、春人の目的を推し量るしかなかった。
「そうです。あと三十分くらいで着きますよ」
ちなみに佳子は今まで海へ行ったことが無かった。テレビの映像でしか、海辺を見たことがない。
子供の頃に亡き父と居間でテレビを見ていたら、「海へ行ってロクな目に遭わなかった」と父が苦々しく語っていたので、佳子は海に対して良いイメージを持っていなかった。
道なりに走っていると、そのうち「干物あります」などの看板を掲げた個人経営のお店などが目につく様になる。
通りに沿って、釣り具やサーフィンなどの海関係のお店や、古びた定食屋が所々並んでいた。
佳子たちが海岸沿いへ向かうと、砂浜が目の前に広がる。自由に停められる駐車場がたまたま見つかったので、そこに駐車してから佳子たちは外へ出た。
需要の無い季節のせいか、佳子たち以外に人の姿はほとんどない。
今日の天気は、あいにくの曇り空。
海岸から強い風が吹き寄せて来て、着込んでいても肌寒く感じる。佳子は開いていたコートのボタンをきっちり閉めたが、それでも両腕を体に回して、これ以上熱を奪われないようにした。
海から押し寄せる波は、空と同じくどんよりとした灰色である。
春人に続いて、堤防を佳子は歩く。
彼は両手をブルゾンのポケットに突っ込んで歩いている。
砂浜に降りる階段があり、春人がそこから下っていくので、遅れながら佳子もそれに従った。
先に砂浜まで軽やかなテンポで辿りついた春人は、後ろを振り返って佳子と距離が離れているのに気付くと、立ち止まって追いつくのを待ってくれた。
打ち寄せられた漂着物や、花火をしてそのまま捨てられた残骸など、色々なゴミで砂浜は溢れていた。
意外に汚れていることに佳子は驚きながら、それらを避けて春人と一緒に波打ち際に近づく。
海からの強風で煽られる佳子の長い髪。佳子は自分の髪によって視界を遮ぎられないように手で押さえている。
佳子が濡れた砂にブーツで足跡をつけると、寄せてきた波が綺麗に消してゆく。
引いてゆく波と寄せてくる波同士がぶつかり合い、水面に白い泡が生じていた。
耳を占め尽くす波の音。
佳子が遠くを見渡すと、一面に広い海が広がっていて、遥か先に地平線が見えた。
寒々しい色の海と空。映像では決して体験することができない、初めての光景。
いきなりこんな冬景色を見るなんて、佳子は思いもしなかった。
(しかも、見目の良い男の人と二人きりだなんて――。)
思わぬ展開と自然の壮大さに触れて、佳子の気持ちは高揚したが、すぐに我に返った。
そもそも春人は佳子自身に好意があるわけでもないのだ。
“同情”という母の言葉が頭の中を霞める。
母の言葉がどこまで本当なのか、佳子には判断のしようがなかったが、春人が自分に気が無いのは当然のこととして受け取っていた。
そう思い直すと、目の前に広がる冬の海岸なんて、ただ寒いだけである。
何を感動していたのだろうと、先ほど浮かれた自分を佳子は虚しく感じるだけである。吹きつける風は、身体ばかりだけでなく、心からも熱を奪い去っていく。
春人は佳子から離れて、波打ち際で波と追いかけっこをしていた。
軽やかな足取りで砂浜を駆ける姿は、童心に返ったようで元気そのもの。
横顔のすっきりと通った鼻筋が綺麗で、佳子は思わず目を奪われる。
「海へ来たのは初めてです」
佳子が波音に負けないように大きな声で話しかけると、春人はちらりと視線を佳子に向けた。
春人は佳子の方へ駆け寄り、側まで来て立ち止まる。
「私もですよ」
春人は少し嬉しそうに笑う。彼が零した笑顔の素敵さに、ドキリと心臓が跳ねて、動揺した佳子は彼から視線を反らした。
(一人称が“私”だなんて、堅苦しすぎ。)
別のことを考えながら、佳子は冷静を努めた。
(私が春人のことを好きだと、彼が勘違いしているから、彼は自分に気を遣っているだけ。今回の遠出は、きっと可哀想な私のための思い出作りなのだろう。少しだけ甘い夢を見せて、期待をさせつつ、傷つけないようにお断りをするのよ――。)
今後の春人の行動予定が佳子には読めてきた。
如月が言っていた男女の機微について、自分も分かってきたものだと、佳子は内心自嘲する。
「寒いので車に戻りませんか?」
そろそろ寒さも限界だったので、春人の言葉に佳子は一も二もなく頷いた。
二人して波に背を向けた時だった。
「ヨシコ、ナニカクル」
佳子の足元から声がした。自身に発せされた低く慌てた警告。
その声を聞いた佳子は咄嗟に辺りを見回すと、波打ち際から近づく何かに気付いた。緑がかった太い紐状のものが、佳子を目掛けて物凄い勢いで伸びていたのだ。
あっという間に佳子の左のブーツに巻きつき、強力な力で海の方へ勢いよく引っ張る。バランスを失った佳子の体は砂の上に転倒した。
勢いよく海の方へと佳子は引きずられる。
「佳子さん!」
「翔影、防御して!」
春人と同時に佳子は叫んだ。
瞬時に佳子の体の下から黒い影が吹き出す。その黒い流動性のある物体は、膜状になって佳子自身を下から包み込む。そのおかげで全てから遮断されて、襲い掛かってきた緑色の物体は、佳子から切り離された。
佳子の体は静止して、海の中へ連れ去られるのを間一髪で防いだ。
一方、佳子を襲ったものは、切り離されても海の中へそのまま戻っていき、姿を消す。
その間に、佳子は体勢を持ちなおして立ち上がった。
「マダイルヨ」
「一旦防御を解除して、近づいたら攻撃して」
「ウン」
敵は海の中へ全て消えて見えなくなったが、翔影の話から未だ警戒が必要な状況である。
翔影―-と呼んだものは、いつも佳子の足元にいる影のような妖怪である。
黒い膜は溶けるように上から下へと移動して佳子の足元に集まり、ゆらゆらとその周りを警戒するようにアメーバのように動きまわる。
その隙に佳子はしゃがみ込んで指で砂浜に絵を描いた。
子供の落書きのような魚の絵だ。
「出できなさい」
佳子が言うと、魚の絵の線が鈍く光り出して、そこから何か白いもやの様なものが出てくる。そして、それはみるみる大きくなって巨大な魚になっていた。
大きさならば、全長は大人の人間くらいあった。
キラキラと表面を覆ううろこが輝き、一匹の立派な魚は、宙に浮かびながら口をパクパクさせていた。
「犯人を探してきて!」
佳子がそう言い放つと、それは弧を描くように飛び跳ねて、海の中へ飛び込んで行った。
しばらくの間、ただ立ちながら待っていると、先程潜っていった魚が再び海から飛び跳ねて戻って来た。
佳子の前で、ペッと何かを吐き出す魚。
砂の上に転がったそれは猫の大きさくらいの海草の塊のような物体だった。様子を見守っていると、それはのっそりと動きだした。
昆布のような海草がゆっくりと起き上がる。
ちょうどバランスの良い位置に海草でできた腕と足のようなものがあり、それを使って本体部分を持ち上げていた。
ちらりと振り返り、顔のようなものを佳子たちに向けたと思ったら、急に素早く動いて一目散に逃げようとした。しかし、春人がそれを上回る速度で動いて、足でそれを踏みつける。
「んぎゃ!」
春人の足の下から、何か潰れたような声が漏れた。
「五月さん、ナイスです!」
佳子は思わず拳を握りしめて感心する。
「そのまま踏んでおいてくださいね」
佳子はそう言いながら、海草の妖怪に近づく。
春人に踏まれた妖怪は、手足のような海草をじたばたさせていた。
「あなたが私を襲ったのね?」
佳子が話しかけると、妖怪の動きがぴたりと止んだ。
「……」
春人に踏まれたままの妖怪は何も答えない。
「五月さん、もっと踏みしめてください」
佳子の言葉に従って、春人の足に力が入り、ぐりぐりと砂に押しつけられるように妖怪は踏みしめられた。
「ぎゃー! 止めてー!」
再び、妖怪は手足をばたつかせる。
春人の足の周辺で、4本の海草がばさばさと舞うように騒がしく動き続ける。
「あなたがやったんでしょ?」
「そ、そうだ!!」
妖怪が白状したので、春人の足の動きが止まった。
「どうしてあんなことをしたの?」
「楽しいから」
「あなたは楽しくても、私は楽しくないわよ。いきなり引っ張るのは駄目でしょう」
「だって、そうしないと海の中に来ないじゃないか」
「陸の生き物は、水の中へいきなり引きずり込まれたら、大変なのよ。あなたもこのまま天日干しにされたら困るでしょ?」
「うっ……!」
「もうしないって約束するなら解放してあげるわ」
「するする」
本当に反省しているのか、軽いノリで妖怪は答える。
そんな様子に佳子はため息をつく。
「じゃあ、名前を教えなさい」
「海塊だ!」
妖怪の名前を知ることは重要だった。
術的な意味合いを含み、相手の名を認識するということは、対象として把握しやすくなる。
「海塊ね。よく聞いて。二度目はないわよ。もし約束を破ったら、」
「待ってください」
今まで、事の成り行きを黙って見守っていた春人が、佳子の言葉を遮った。
「今年に限って、この海で何度も海水浴客が遊泳中に足を引っ張られたのですが、その犯人も海塊だったんですか?」
「……」
春人の問いに、海塊は何も答えない。
「あなた、他の人にも同じことをしていたの?」
「うん」
佳子が尋ねると、態度をころっと変えて海塊は素直に答えた。
「それももう止めるわね?」
「うん」
「約束を破ったら、……鍋の出汁用に煮込むわよ」
佳子のドスの籠った脅しに、海塊は「ひぃっ」と声を上げて慄く。
その怯えた様子を見て、佳子はこの妖怪はもう悪さはしないだろうと思い、春人に目で合図を送る。すると、それに気付いた彼は、海塊の上から足をどけた。
自由になった妖怪は「もうしましぇーん!」と叫びながら、ものすごい勢いで海の中へ戻ってゆく。再び辺りに平穏が戻った。