春人と。 1
日中はレジ打ちのパートに出かけて、夜は内職という生活を続けて一週間。
春人との約束の日がやってきた。
季節の変わり目のせいか、佳子は昨日から少し風邪気味で軽く咳が出ていた。
昔から体調を崩すと、喉に不調が出やすい。
そのため、今日は常用している薬を服用して、咳を抑えていた。
実は昨晩、母から再び電話があって佳子は久しぶりに話をした。
呼び出し音に急かされて、電話番号を確認せずに反射的に佳子は受話器を取ってしまったからだ。
母は佳子の声の不調にすぐに気付き、意地を張って無理をするからだと批難した。そして、お見合いの件にも触れた。
「佳子さん、貴女は同情されているだけなんですよ」
母の声は、妙に優しく感情に訴えるようだった。
「一目惚れをして一族を敵に回してまでお見合いを申し込んだのに、会いもしないのは不憫だと思われたんですよ。貴女はただ哀れんでもらっただけなんです。優しくされても勘違いしては駄目ですよ?」
また、五月の四男坊は、顔だけの男だと母は貶していた。
「別れ話がこじれているのか、最近では学校で可愛い女の子に追いかけまわされているんですよ。あんなに顔が良いのだから、女性関係は相当荒れているのね。佳子さんはあの男の顔にだまされているだけなんですよ。いい加減、目を覚ましてちょうだい」
その一方で、佳子を責めた。
「高志さんを殴ったあの男は誰なんです? まさか、家出中にあの男と出来ていたなんて言わないでしょうね? それにしても何故か里中に今回のお見合いの話が知られていて、私は恥ずかしくて表も歩けないのよ。高志さんにも、申し訳なくて顔も合わせられません。佳子さん、お爺様や高志さんにきちんと謝罪しなくてはなりませんよ」
滅多に会わない連中に好き勝手言われようと、佳子は正直そんなことどうでも良かった。それに、何故祖父や高志に謝る必要があるのか理解できなかった。勝手に結婚相手として決めたのは、そちらだった。佳子は一度も了承した覚えはない。
「破談にはまだなっていないようですけど、時間の問題でしょう? もし終わったら、高志さんとの縁談を進めますよ。また貴女に変な真似をされては困りますからね」
そして母は、クスリと愉快そうに息を吐いた。
「実は花嫁衣装はもう決まっているのよ。ドレスもいいけど、やっぱり白無垢が一番ね」
声を潜めて笑う母に、佳子はめまいを覚えた。
(まだ諦めていなかったの?)
しかも、状況は悪い方向へと進んでいる気がして、佳子は憂鬱な気分に襲われた。
母に言いたいだけ言わせて、一通り話を聞き終えてから、「謝るつもりもないし、折れるつもりもない」と佳子は断言して、電話を無理矢理終了してしまった。
佳子の心に重りがぶら下がったようだった。母の言葉は呪いのように佳子を蝕む。
春人と会うために再び佳子は電車に揺られて、前回も訪れたホテルに足を運ぶ。それは駅から徒歩五分くらいのところに所在している。
今回はお見合いではないので、佳子は少しカジュアルな格好をしていた。
髪は下したままで、柄の入ったブラウンのチュニックに、厚手の黒いタイツを着て、茶色のロングブーツを履いていた。外を歩くのに寒いので、ダークグレーのトレンチコートをその上から羽織っている。
バッグは肩から大きめのトートバッグを肩にかけていた。返してもらった荷物をこれに入れて持って帰る予定である。
(春人から荷物を受け取ったら、すぐに家に帰って体を休めよう――。)
体調不良と昨日の母とのやり取りで、佳子は既に疲労を感じていた。
佳子がホテルのロビーに向かうと、「佳子さん」と声を掛けられた。声のした方を向くと、すでに先にいたと思われる春人の姿が目に入った。
カーキのブルゾン、黒いストレートなボトムスを春人は着ていた。彼も前回と比べて、プライベートに近い格好をしている。
二度と会うとは思わなかった端正な顔。ところが、佳子が彼の身体に視線を下ろすと、彼の両手は空いていて、何も持っていないことに気付く。
(私の忘れ物は――?)
佳子は心配になったが、相手を待たせている状態なので、「五月さん」と声を掛けながら、足早に春人に近づく。
「わざわざお越しいただいてすいません」
謝りながらも、相手に対する不満が頭を過ぎる。
(あんな強引に落ち合う約束を取りつけるなんて――。それに、荷物を送ってくれた方が自分としては楽だったのに。)
佳子の機嫌は昨日から色んなことが重なって悪く、あいにく今日はうまく笑みを浮かべられない。
「こちらこそ、すいません」
春人は相変わらず丁寧な物腰である。
「荷物は車に置いてあるので、一緒に来てもらえますか?」
「え、そうなんですか?」
「はい、車は地下の駐車場に停めてあるので、案内します」
春人は言いながら歩き始めた。置いていかれては自分の荷物を取り戻せないので、佳子は慌ててついてゆく。
春人の歩みは、コンパスが佳子より長いだけあって速い。佳子は小走りをしなくては、彼のすぐ後ろにいられなかった。
(鞄をロビーまで持って来てくれたら良かったのに。……あと、歩くペースを合わせてくれないと困るわ。)
春人の手際の悪さと気遣いの無さが、佳子を苛立たせる。
佳子はゴホンと咳払いをしたが、春人はそれに気付いた様子もなく、振り返ることはなかった。
二人はエレベーターで地下に行き、春人が乗って来た車に辿りついた。五人乗りの白い普通乗用車である。
春人は運転席にキーを差し込んで、ドアを解錠する。そして彼はドアを開けながら、後ろにいた佳子を見て、「どうぞ佳子さんも乗ってください」と指示してきた。
そう言われて佳子は戸惑う。わざわざホテルから外へ出るために、そのちょっとの距離を車で送ってもらう必要を感じなかったからだ。
「あの、荷物を貰ったら、ここでお別れして結構ですよ?」
佳子が乗車を遠慮してそう言うと、春人は何故か困ったような表情を浮かべた。
その顔を見て、佳子は自分が何か不味いことを言ってしまったのかと、不安になる。
「ええとですね。前回みたいに邪魔が来ては困るので、ここから移動したいんです。ご協力お願いします」
その台詞から佳子は高志のことを思い出す。
彼はどこからかお見合いの情報を聞きつけて、佳子の妨害をしにやってきた。今回も現れないとは限らない。
「分かりました。よろしくお願いします」
了承した佳子はすぐに助手席側に移動して、ドアを開けて乗りこむ。
それから春人は無言で車の運転を始めて、二人を乗せた車はホテルから出発した。