謝罪の電話
自宅の居間にいた佳子は、壁にあった掛け時計を見た。
ちょうど夜の八時。
春人から教えられた電話番号は、市外局番が母の実家と同じだった。つまり、山代の里にある彼の自宅の電話番号を教えてくれたのだ。
お見合いをしたホテルから、あのまま直帰したのならば、もうとっくに着いていておかしくない時間である。
佳子が緊張しながらダイヤルすると、呼び出し音が受話器から聞こえた。
『もしもし、五月です』
落ち着いた若い女の人の声だ。誰だろうと思いつつ、佳子は口を開く。
「夜分にすいません。一上佳子と申しますが、春人さんはいらっしゃいますか?」
『ちょっと、お待ちくださいね』
電話口から電子音のメロディーが流れてくる。
相手の保留状態が終わるのを佳子が固唾をのんで待っていると、突然音が止み、「もしもし、春人ですが」という男性の声が聞こえてきた。
(わあ! 本人が出た!)
「あ、あの、一上佳子です。本日は申し訳ございませんでした」
佳子は動揺しつつも、開口一番謝った。
『……』
春人が受話器の向こうで黙っている。
沈黙が恐ろしいまでに気まずい。佳子は続けて何か話さなくてはと焦った。
「五月さんにとって失礼な状況になってしまって……、御足労もおかけしたのに…、本当に申し訳ございませんでした」
『……』
まだ何も返事をしてもらえない。
(……いい加減、何か言っていただけると、ありがたいのですが。は、針のむしろです……!)
姿が見えない分、とても話しにくい。佳子は泣きそうになりながらも、自分の用件を伝えなくてはと気合を入れる。
「あの、こちらの落ち度でしたので、今回のお見合いは、五月さんの方から二木さんへお断りのお話をしていただけますか……?」
『あの、』
佳子が言い終わるや否や、ようやく春人が言葉を発した。嫌味の一つや二つ飛んでくるかと思い、佳子は覚悟する。
『あの、最後に現れた男は、……誰なんですか?』
その声は、非常に暗くて重かった。まるで怨念が籠っているようだと感じるくらいに。地を這うくらい低音だった。
(ひぃぃ! すごく怒ってる!!)
恐ろしさの余り、動揺した佳子は受話器を落としそうになる。
留守電の春人の声が落ち着いていたので、怒っていても今回も冷静な感じでやりとりをするのかと想像していたのだ。しかし、この様子からでは見込みは甘かったと思わざるえない。
どのように返答しようかと迷った時に、『もしかして』と再び春人の声がした。
『佳子さんの恋人ですか……?』
春人にそう尋ねられて、佳子は初めて気付いた。如月の出現がそのように解釈される可能性があったのだと。
言われてみれば、全く佳子と関係のない人が、わざわざお見合いをぶち壊すはずもない。
男女の関係にあるのだと、思われても仕方がないのに、佳子本人は全くそこまで頭が回ってなかった。
「あ、えーと、その……」
如月のことをどのように話したらよいものか、佳子は悩む。
彼とは全然色っぽい関係にはない。そもそも如月がお見合いに現れたのも、“意に染まぬお見合いに無理矢理参加させられたお嬢様を攫うナイト役”をやりたかっただけだと言っていた。
(一応、友達?のような間柄?)
恋人だと誤解させたままならば、完璧にこの縁談は終わりそうな雰囲気である。
しかし、そうすれば、恋人がいるのにお見合いを申し込んだ非常識な人間と思われたままだ。
ただでさえ、春人はものすごくご立腹な様子だ。心証が悪いままだと、バッグを取り戻す際のやり取りに支障が出てしまう恐れがある。
バッグをどうしても返してほしかった佳子は、すぐに結論を出した。
「違います。彼とはただの友人です。恋人がいるのに、他の人にお見合いを申し込んだりはしません」
『本当ですか?』
春人の声が少し明るくなった気がした。
最悪な状況は脱することはできたのだろうか、と希望が見え始める。しかし、油断はできないので、さらに佳子は殊勝な態度を続ける。
「はい、信じてはもらえないかもしれませんが……」
申し訳なさそうに佳子は正直に答える。
疚しいことは何もない佳子だったが、理由がどうであれ、身辺が落ち着いていない女との縁談は懲り懲りなはずだ。
(これでお見合いは破談で終わるはず。――ああ、本当に終わって欲しい。)
せめて機嫌を少しでも直してもらい、事務的なやり取りで忘れ物の話に入りたいと願っていた。
『じゃあ、何故彼はお見合いに現れたんですか?』
佳子の願いもむなしく、春人にはすんなり信じてもらえず、厳しく追及してくる。
「私が意に染まぬお見合いを強いられていると、彼は思っていたようなんです」
(そういうことにしておいてもらおう。如月もそんなことを言っていたし。)
『あ、そうなんですか!』
春人の声が晴れやかな調子に戻っていた。ようやく納得してくれたと、佳子は内心安堵する。
もともと佳子は分家との結婚を迫られていた。代々親族同士で婚姻を繰り返してきた一上家。そのことを同じ里の人間である春人が知らないはずがない。
そちらとのお見合いだと勘違いした如月が佳子を助けに駆け付けたのだと、春人は解釈してくれたのだ。
『それじゃあ、佳子さんは現在フリーなんですよね』
「はい、そうですが」
(先程から恋人はいないと言っているのに。)
何故、念を入れて独り身であることを確認してくるのか、佳子は怪訝に思いながらも正直に答えた。
しかしながら、フリーとはいえ、分家の高志との結婚を迫られている状況ではあったが。
『佳子さんがお暇な日って、いつですか?』
「基本的に水曜日と日曜日にパートは休みです」
『それでは、今度の日曜日は空いていますよね?』
「え、ええ……」
佳子は戸惑いながら答えた。春人の話の目的が分からないからだ。
『では、また同じ時間に同じホテルで会いましょう。その時に佳子さんの忘れ物を持っていきます』
「え?」
『来週の日曜日の二時ですよ。必ず来てくださいね。では、失礼します』
佳子の返答を待たずに電話が切れる。
春人の強引さに、佳子は開いた口が塞がらなかった。