報告の電話
五月慶三郎は、自宅の一階の居間にいた。
本日は日曜日だったため、営んでいる道場は休みである。特に急ぎの仕事もなかったため、久しぶりに家の中で家族と寛いでいた。
浴衣姿の慶三郎はソファーの上に座り、その膝の上には一人娘の陽菜が座っている。
娘は1歳とまだ小さく、音の鳴る玩具を両手で持って、夢中になって遊んでいた。
可愛い盛りで、何をしていても見ていて微笑ましい。
時計を見ると、二時半ば頃だった。例のお見合いは二時の予定で、今頃二人で会っているはずである。
性格にかなり癖のある義弟のことだったから、佳子と巧く会話をしているかどうか慶三郎は気がかりだった。
そんな時に居間にあった電話が鳴りだした。
誰だろうと思い、陽菜をソファーの空いているところに座らせて、受話器を取りに行く。
「もしもし、五月ですが」
『あ、義兄さんですか? 春人です』
「春人か? お前、お見合いはどうしたんだ?」
まだ三十分くらいしか経っていないのに、家に電話を掛けてくるとはどういうことだ、と慶三郎は不審に思う。
『それが、佳子さんが連れ去られてしまいまして……』
「連れ去られた? 一体誰に?」
『分かりません。別々に二人の男が現れまして、一人目は一上高志だったのですが、二人目は顔を確認できませんでした。しかし、一上高志も知らない人物だったようなので、里の者ではないようです。その人に佳子さんを連れ去られました』
その後、慶三郎は春人から更に詳しい状況を聞きだした。
一上佳子が抵抗をしなかった状況を聞くと、その男は顔見知りの可能性が高い。
恐らく彼女に危険はないだろうと結論付ける。
その男と彼女の関係が気になるところだったが、ここで話しても推測にしかならない。
「お前たちを出し抜いて、連れ去るとはその男も結構やるな」
『はい』
「ちなみにその男の車のナンバーは覚えているか?」
『はい、ナンバーは記憶しております』
「じゃあ、ちょっと教えてくれ。所有者を確認してみる」
慶三郎は春人から聞きだして車の車体ナンバーを電話器の側にあったメモ帳に記した。
『とりあえず、これから戻ります』
「ああ、気をつけろよ」
電話での会話が終わり、慶三郎は受話器を本体に戻した。
その時、台所から妻の夕輝が家事を終えて、居間へと入って来た。
出会った頃から変わらぬ美しさを備えた慶三郎自慢の愛妻である。
子供を産んでから、ますます女性らしい官能的な曲線を描いた体つきとなり、他愛もない仕草に色情をそそられる。
付き合ってから何年も経っているのに、慶三郎を虜にして離さない。
今日は同居している慶三郎の父親が、趣味の囲碁仲間の所へ出かけていて留守にしている。
娘の陽菜もそろそろお昼寝の時間だ。
(さて、どうしようかな?)
「春人のお見合いが終わって、これから帰ると連絡があった」
とりあえず、慶三郎は家族である春人の状況を夕輝に教えた。
夕輝はその言葉を受けて、壁に掛けてあった時計に視線を送る。
「もう終わったんですか? 早いですね」
夕輝は返事をしながら、足元までやってきた陽菜を抱きあげた。
「妨害があったようだ」
「里中に今回のお見合いの噂が広まっていましたしね。一上家の耳にも、もちろん入ったんでしょう」
夕輝は一上家から妨害を受けてお見合いが中断されたと誤解しているので、慶三郎は春人から聞いた話を夕輝にも伝える。すると、ポーカーフェイスが常の彼女にしては珍しく、考え込むように眉間に皺を寄せた。
「彼女とお付き合いのあった男性でしょうか」
「どうだろうね。情報が無さ過ぎるから何とも。しかし、一上家の当主はどうも身辺が賑やかだね」
「そうですね」
ふと陽菜を見ると、眠そうに大きな欠伸をしていた。
「そろそろお昼寝の時間かな?」
母親に甘えているのか、陽菜は顔を夕輝の体に押しつけていた。
「寝かしつけてきます」
夕輝は陽菜を抱えたまま、居間の隣にある仏間に向かって歩いて行った。
慶三郎たち親子は、夜は自室の二階で就寝しているが、娘のお昼寝の時は仏間に長座布団を敷いて寝かせていた。
一階だと目が届きやすいからだ。
「蒔いた餌に食らいついたか……」
慶三郎は腕を組み、独り言を呟いた。
今回のお見合いの話を里の人間に話して噂を広めたのは意図的のことだった。
一上の本家と分家の本心を探るためだ。
一上家当主としての佳子と顔を合わせたのは、今年の夏のこと。
盆祭りの前に寄り合いがあり、そこでお目に掛かった。
彼女が当主に就任してから三年近く経ってからだった。
分家の主である一上元に従うように現れた彼女。
病気の療養のために里へ顔出しが出来なかったと言っていた。先代が事故で亡くなり、しかも継いだばかりの娘は、病に倒れ、よくも不幸が続いたものだ。
地味な眼鏡をかけているため、真面目そうでおとなしそうな印象を受けた。
二十一歳だと聞いていたが、童顔なのか、それよりも若く見え、成人しているように思えなかった。
大きな声で偉そうに話す一上元の脇に、言葉少なに座っていた彼女。華奢で分家に柔順な態度に、慶三郎はあまり良い印象を持っていなかった。
それから盆祭りの後、一か月くらい経った頃だ。二木喜美子が仲介人として今回のお見合いの話を持ってきたのは。
突然の来訪に、慶三郎は正直驚いた。
二木当主である喜美子の実妹――坂井美智子は、一上の本家に仕える坂井正の嫁だ。佳子本人に頼まれたと、喜美子自身が釣書とお見合い写真を持ってきた。
二木家は女系家族だったため、長女の喜美子が婿養子に今の旦那を迎えていた。
当主として集まりなどに喜美子は出席していたので、自分とは顔をよく会わせていた。
恰幅が良くて美人ではないが、笑顔の絶えない愛嬌のある顔つきをしている。明るく気さくな彼女は、険悪な雰囲気になりやすい集会でも、よく場を和ませてくれたり、宥めてくれたりと、大変ありがたい存在であった。
「一上家は親族としか結婚しないんじゃないですか?」
里の中で有名な話だったので、思わず尋ねると、喜美子は意味深な含みのある笑みを浮かべた。
「佳子さんは、分家とは結婚する気がないようですよ。奉納試合で優勝した五月家の息子さんが気に入ったみたいで」
(ああ、要するに春人の顔に一目ぼれしたわけだ。)
慶三郎は一瞬で全てを理解した。
春人の為に、一族の慣わしを蹴っ飛ばそうとしている彼女に好感が上がる。
だが、一上家と云うだけで、胡散臭さがプンプンして、おいそれと信じることは難しい。
(そもそも、おとなしそうな彼女に分家に逆らうなどと恐れ多いことが出来るのだろうか。)
一上の分家には嫌な思いを散々させられていたため、今回も揉め事になる前にさっさとお断りしても良さそうだったが、少し考えるところがあって思い留まった。
「ちょっと、本人にも確認したいので、お返事は待ってください」
「おほほ、色よい返事を期待していますわ。佳子さんは、妹の美智子の話ですと、亡くなった父親に似て温厚で優しい方だとお聞きしております。お会いになるだけでも結構ですのよ。よろしくお願いしますね」
(裏を返せば、分家出身の母親の方は、温厚で優しくはないのか。)
含んだ物言いに、苦笑してしまいそうになるのを堪えた。
喜美子はよほど今回のお見合いを応援したいのか、話している最中は始終上機嫌で、佳子本人をお勧めしていた。
一上の分家は山代の里の中でも裕福で羽振りの良いことで知られていた。
投資や商売がうまくいっているという話だが、妬みからか、あまり良くない噂もされている家である。
五月家に密告のように封書が届いたことさえあった。
大きい屋敷の切り盛りは全て一族だけで行い、他所の人間を決して雇い入れない。
屋敷は高い塀で覆われていて、外からは中の様子は伺い見ることはできない。さらに、その内部は警備として術により操られた妖怪―つまり使鬼たちが多く配置されていて、不法な侵入を固く拒んでいる。
親族間で婚姻を繰り返し、決して内情を公にしない閉鎖的なやり方は、その噂に真実味を密かに与えていた。
その分家の子飼いの犬と化していた本家。
本家は分家の支配に完全に置かれていた。
山代の里とのやり取りもほとんど分家を通して行われているし、当主が出席する集まりにも、当主代理として分家の主が顔を出していた。
その本家の人間が、何の脈絡も無しに五月家にお見合いを申し込むのは、分家の指図である可能性もあった。
どんな思惑にせよ、一上家によって弄ばれるのは御免である。
それにも関わらず、お見合いを一蹴しなかったのは、一上家に探りを入れる絶好の機会だったからだ。
強固な城郭に、侵入の糸口を見つけた気がした。
お見合いの顔合わせだけで、結婚しなくてはならない道理はない。
面倒なことになる前に断れと親父に言われたが、自分の考えを伝えると、“それで一上家の弱みを見つけられるのならば”と、了承してくれた。
とりあえず、喜美子に会ってみたいと返事をした。
お見合いの情報を噂として流して、当日に分家がどのような動きを見せるのか、調べることにした。
そのため、今回のお見合いで、春人に諜報員としての役割を与えて、佳子の真意を訊き出すように指示を出した。
向こうが本気だった場合を考慮して、相手に期待させるようなことは口にするなと念を押しておいて。
外面の派手さとは裏腹に、春人は他人に関心が薄く、寡黙で一人でいるのを好むタイプだ。そのため、諜報員としては全く向いていなかった。
しかし、今回の任務は、別に失敗を許されないものではない。情報を得られれば運がよいと考えて、あまり期待せずに指示出しをしたのだが――。
意外にも、春人本人は今回の仕事に対してやる気を見せていた。“お見合い結婚のススメ”、“お見合い完全マニュアル”というタイトルの本を、春人が部屋で真剣に読んでいたのだ。
あの気難しい春人が、お見合いについて熱心に勉強している。不似合いな状況が可笑しくて、堪え切れずに陰でこっそりと声を殺して笑っていたら、通りがかった妻に不思議な顔をされてしまった。
春人は養子として受け入れられた五月家に対して、とても恩義を感じているのか、親父や慶三郎から言い付けを完璧にこなそうとするところがあった。そのせいか、今回の仕事も自分に足りないところを補おうと、勉強していたに違いないと慶三郎は彼を理解していた。
(ただ、方向性は若干間違っている気がするが――。)
他人に興味を示さなかった春人。そんな彼に人付き合いに対して関心の目を向けさせることができて、少し嬉しかった。少なくとも、春人にとって良い方向に進んでいるからだ。
これを機に人との接点を増やして、もっと春人に多くの人と親しい人間関係を築いて欲しいと慶三郎は望んでいる。
お見合いに乱入してきた高志と佳子の会話から、本家と分家の対立関係が読めた。
一族の定め通り、結婚話を進める分家と、それに逆らう本家の佳子。
(彼女は本気で春人との結婚を望んでいるのだろうか――? それにしても、最後にやってきた謎の男のせいで、状況が読みにくい。)
五月家はもとからの血筋は絶えた家系だった。跡を継がせるために、全く異なる血筋から後継者を選んだ。それが慶三郎の父親である。
慶三郎にとっては祖父にあたる人は、他所から来た才能ある父親を養子にしたのだ。
ちなみに五月家の中で養子をとったのは、親父が初めてのことではない。それでも里以外の出身の者を迎え入れたのは初めてのことだった。
代々血統が続く一上家にとっては、それが面白くないのだ。
ことあるごとに他所者呼ばわりして、里の運営に当主として顔を出していた父親を見下していた。
そのため、父親の一上家に対する嫌悪感は、隠居後でも凄まじい。
親との関係が拗れた春人を五月家に養子として迎え入れた時も、“他所者が”と嫌味を言われていたのを思い出す。
慶三郎は三男であるにも関わらず、当主として据えられたのは、上の二人の兄の能力が、いまいちだったからだ。
遺伝する確率は高いが、親がそうならば、必ずしも子にも伝わるものではない。
五月家が絶えたのも、そういう事情があってのことだった。
そんな困難な状況にも関わらず、一上家が長きに渡って血と能力を維持している。それに相当な尽力や犠牲を要してきたのは容易に察しがついた。だが、それが五月家を貶めてよい理由にはならない。
奉納試合でも決勝戦前にあった妨害。祭りの関係者を装った男に騙されて、春人が納屋に閉じ込められたのだ。試合開始直前に、顔を隠した親切な人に助けられて、幸いにも不戦敗にならずに済んだが、これも一上家の嫌がらせに違いなかった。
決勝戦の対戦相手は一上高志。一上家の人間だ。
(今回のお見合いの件と云い、あの一族はよほど妨害が好きなようだ。)
佳子が忘れ物をしたので、夜にでも連絡をしてくれるように電話の留守番にメッセージを残したと春人は言っていた。
一上家の内情を探ってもらうために、春人にまた頑張ってもらわなくてはならない。
慶三郎が一上家に探りを入れようと決めたきっかけは、一通の手紙だった。
一上家の先代当主が亡くなって数日後に、五月家に封書が届いていた。
差出人がないため、用心しながら封を開けると、次のことが書かれていた。
“一上家は一の掟を破っている。 一上 健一”
掟とは、里で順守しなければならない決まりごとだ。
いくつもあるが、その一つ目に“暗殺を生業としないこと”とある。
それを破っているということは、一上家は密かに暗殺を請け負っているということとなる。
そして、一上健一とは亡くなった先代当主の名前だった。
(何故うちにそのような手紙が届いた――?)
一上家に噂される一つに、そのようなことが無いわけではなかった。
真実はどうであれ、故人の名前を使うとは、悪戯にしては非常に性質が悪い。
だから、3年近く経った今でも、慶三郎はその手紙のことを覚えていた。
その一上健一の一人娘の、分家への突然の反旗。
そして、今回のお見合い話。
(何やら不穏な気配がするのは気のせいだろうか。)
おまけ(R15)
慶三郎が物思いに耽っていると、娘の陽菜を寝かしつけた夕輝が居間へと戻って来て、ソファーにいた自分の隣に座った。
「これから買い出しに行くんですけど、今日の夕飯に食べたいものはありますか?」
いつも通りの無表情だったが、こちらに向ける眼差しは柔らかい。
炊事は夕輝と春人で分担していたが、今日は義弟が外出していたので、妻が作る予定だった。
手を伸ばせば簡単に届く距離に最愛の妻がいて、隣に娘が寝ているとはいえ、この部屋には現在二人きりである。
「夕輝が食べたい」
「え?」
夕輝を抱き寄せて、口付けた。
最初は唇を味わうように感触を存分に楽しむ。そして、調子に乗って舌を使って彼女の咥内を弄ぶと、彼女が抵抗して体を離そうとするので、そのまま体重をかけてソファーに押し倒して、上着の中に手を入れた。
「あぁ、んぁ、やっ……!」
夕輝の口から甘い吐息と共に、微かに抵抗する声が漏れた。
様子を見るために顔を彼女から離すと、夕輝は顔を少し赤くしながら潤んだ目で、慶三郎を見ていた。
戸惑いを含んだそれは、慶三郎の眼には可愛い以外の何ものでもない姿に映る。彼をますます煽っているとも知らずに、彼女は何とか彼の腕の中から逃げようとしていた。
「昼間っから襲わないでください、慶三郎様。お父様が帰ってきたらどうするんですか」
「親父なら、まだまだ帰って来ないよ」
「でも、誰かやってきたら……」
「夕輝」
強く口調で彼女を遮ると、夕輝は口を噤んだ。
「この3日間、陽菜を寝かしつけて、そのまま寝てしまったのは誰かな?」
夕輝の目が泳いだ。
「わ、私です……」
「三日間、お預けを食らった旦那様が可哀想だと思わないかい?」
言いながら、夕輝の体に猛った己の分身を押し付けた。
その存在を感じたのか、夕輝は下半身を自分から逃げるように動かそうとした。
「も、申し訳ございません……」
「ここが嫌なら、二階でもいいけど」
「……はい」
これまでの経験からか、夕輝はさして反論せずに慶三郎の提案に従って、二階へと移動を始めた。
その後、二階の自室で、愛妻を美味しく頂いたのは言うまでもない。
夕輝はふらふらになりながらも、夕飯の買い出しに行こうとしたので、少し責任を感じて一緒に出かけることにした。
お昼寝から目覚めた陽菜を慶三郎が抱っこして、仲良く家族三人で家を出た。