忘れ物
如月に起こされて、自分がいつの間にか気持ちよく寝てしまっていたことに佳子は気付いた。
自分が起きた直後、「もうすぐ着くよ」と彼に言われて、現在どこにいるのか、すぐ脇にある後部座席のドアの窓から確認する。
次から次へと硝子の上を流れる水滴を見て、雨が降っていることを知る。
暗い空から雨が降り注ぎ、目の前の視界がぼやけている。
目を凝らすと、見慣れた山道や街路灯がようやく見えた。
佳子の屋敷へと続く、舗装されていない砂利の坂道を、ゆっくりとヘッドライトを点けた車が上っていた。
「寝かせてくれてありがとう」
深く座席に腰掛けた状態だったので、体を動かして佇まいを直す。
その時、如月が着ていたはずの上着が自分の体に掛かっているのに気付いた。全く肌寒く感じなかったのは、これのお陰だったのだ。
「上着もありがとうね。でも、如月が優しすぎて恐いんだけど」
佳子はそう言いながら、上着を如月に返した。
「俺の優しさは一応プライスレスだよ?」
面白そうに目を細めて如月は笑う。
「もし後で請求来ても踏み倒すわよ。うち貧乏だし」
「請求するつもりもないけどさ。それに、お金が無いなら、体で払ってくれてもいいんだよ?」
「痩せているから食べても美味しくないわよ」
佳子は目つきを剣呑にして如月を睨みつけた。
ふざけたやり取りをしている間に、佳子たちが乗った車は、屋敷の前まで辿りついた。
玄関前の広い庭の空間に駐車する。
外は雨だったため、家へすぐに入るために、事前に鍵を取り出そうと、佳子は自分のバッグを探した。
そこで、手元にバッグがないことに気付いて血の気が引く。
(最後にバッグを見たのは、何時何処だった――!?)
佳子の頭の中で、慌てて今までの行動が逆再生される。
如月に連れ去られた時は、すでに手ぶらだった。
高志が来た時も、手ぶらだったことを思い出す。
レストランに移動して、席についた時、空いている席にバッグと上着を置いたのを覚えている。
(もしかして、両方ともレストランに忘れてきた?)
佳子はショックで言葉も出ない。
バッグの中には財布が入っており、その中には大事なお金と銀行のキャッシュカードが入っている。
しかも、バッグは亡き父が誕生日にくれた、自分にとっては父から貰った最期の贈り物。
上着も他所行き用に購入して、結構いい値段がしたものだった。
「どうしたの?」
動きが止まった佳子に如月が怪訝な表情で尋ねてきた。
「如月どうしよう。ホテルのレストランにバッグと上着を忘れてきたみたい」
佳子は今にも泣きそうだった。
如月はズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、どこかにダイヤルする。
「もしもし。1階にあるレストランにつないで欲しいんですけど。あ、すいません。今日、2時頃にそちらに来た一上佳子と云う者がバッグと上着を忘れたみたいなんですけど、そちらで預かっていますか? え、無い? 連れが持って行った? あ、そうですか、ありがとうございます」
如月は電話を操作して、会話を終了した。
佳子は彼の話を聞いて、どうやら今日佳子が行ったホテルのレストランに電話をかけて問い合わせてくれたようだと理解する。
(連れが持って行った?)
真っ先に浮かんだ人物は春人だった。けれども、本当に彼なのだろうかと不安がよぎる。もしかしたら、高志ということも考えられたからだ。
どちらが持って行ったにせよ、返して貰う方法が憂鬱だった。
正直なところ、佳子は彼らと非常に顔を合わせづらく、ホテルで預かっていた方が、心理的に取りに行きやすかった。
「聞いていて分かったと思うけど、ホテルのレストランには無いみたいだよ?」
「うん、訊いてくれてありがとう。後は自分で探してみる」
「ごめん、俺も荷物まで気が回らなくて」
「ううん。私もすっかり忘れていたから、どうしようもないわ。送ってくれてありがとう。またね」
「うん、またね」
佳子は後部座席のドアを開けて、車から降りる。
暖かくエアコンの効いた車内から風雨が吹きつける外に出て、思わず佳子は身震いした。
雨脚は強く、あっという間に佳子の体が濡れる。そのため、急いで玄関の軒下に走って辿り着く。
玄関の引き戸を叩いて、「佳子よ。開けて!」というと、戸にある曇ガラスから黒い影が動くのが見えた。
そして、ガチャガチャと鍵を操作する音が聞こえて、戸が自動的に少し開いた。
そうしている間にも、如月たちが乗った車は車体の向きを転換させて帰って行った。
一人残された佳子は引き戸を開けると、慌てて中に入る。
土間に入って玄関の電気を点けると、あちこちに散らばっていた小さい黒い影たちが一目散に物陰に隠れていった。
「ただいま~」
誰もいない廊下へ向かって声を掛けると、屋敷の奥から「おかえりなさいませ~」と声が複数した。その主の姿は見えない。
今日はシロに夕飯を頼んでいなかった。お見合いがどのくらい長引くか、先が見えなかったからだ。
結局、蓋を開けてみれば、お見合い開始直後に連れ去られて、ほとんどホテルにいなかったのが現状だった。
春人と少ししか話せず、彼が車の免許を夏休みに取得したばかりで、運転が割と好きだと云うことしか知りえなかった。
(十分も話していたかしら……?)
本当にただ単に相手の顔を見るために、行って帰ってきただけだ。しかも大事なものを忘れてくると云う始末。
(お見合いなんて、もう二度と申し込まないわ!)
佳子は自分が失ったものを思うと、高すぎる勉強代だと感じずにはいられなかった。
佳子が靴を脱いで居間へ入ると、電話器の留守電ボタンが点滅しているのに気づいた。
(留守中に誰かしら?)
佳子は電話器を操作して、着信情報を確認する。彼女の家の電話はナンバーディスプレイの契約をしていたため、相手の電話番号が分かるのだ。
月々の使用料は少し掛かるが、使いなれてしまうと便利な機能なので、ケチって解約をしなかった。
着信件数は二件、最初の一件は母の実家からで、もう一つは公衆電話からだった。佳子は電話器に残されたメッセージを再生する。
「メッセージは二件です」
続いて、日付と時間を機械が述べる。
「私です。帰ったら電話を頂戴」
声の主は母だった。高志が知っているくらいだ。今日のお見合いについて母が知っていても不思議ではない。
恐らく自分にとってロクでもないことしか言われないだろうと思い、佳子は無視することにした。
さらに、次のメッセージへと続き、それが残された日付と時間が聞こえてくる。
「五月です」
聞こえてきた声に、佳子は心臓が止まりそうになった。
春人の声だったからだ。
「佳子さん、ご無事ですか? 佳子さんのバッグと上着をこちらで預かっています。今晩よろしければご連絡ください。電話番号は、○○○○-○○-○○○○です」
落ち着いた声のトーン。
そこから彼の感情を読みとることは難しかった。
今日のことを怒っているのか、それとも心配してくれているのか。
佳子はメモ帳とボールペンを手に取った。
もう一度メッセージを再生して、春人が話す電話番号を紙に記入する。
もともと、佳子は謝罪をするつもりでいた。
時間と経費を佳子の都合でかけさせてしまった挙句に、途中で佳子本人がいなくなってしまったのだから。
既に迷惑をかけていて、それだけでも気が重いことなのに、さらに自分の忘れ物を返して貰えるようにお願いしなければならない。
どれだけ春人に迷惑を掛けてしまうのだろう――と佳子は相手に申し訳なくて仕方がなかった。
けれども、上着は何とか諦められても、父との思い出のバッグとその中身だけは必ず取り戻したい。
(……背に腹はかえられない。土下座覚悟で誠心誠意謝ろう。)
佳子は自分の迂闊さをこの時ばかりは恨めしく思った。