春人の就職 3
「ボス、一上君が帰ってきましたよ」
キリが声を掛けると、ボスと呼ばれた男は、クルリと椅子を回転させて、振り返った。
「やあ、今日からよろしく!」
胡散臭い笑顔を浮かべて、そう話す男は春人がよく知る人物だった。佳子の家に、突然来訪する妖艶な男。今も春人の目の前で、笑みを浮かべていた。
「如月さん、貴方が私の上司なんですか……?」
まさか彼がここにいるとは想像もしていなかった春人は、頭の中がクエスチョンだらけだった。間抜けにも片手にビニール袋を提げたまま、茫然と彼を見つめてしまった。
「”如月”だって~。やだ、ボスってば、また新しい偽名を使ってる~!」
春人の言葉を受けて、ミコはやたらとテンション高く、甲高い声を出して笑っていた。その耳をつく不快に感じる声で、春人は疑問で埋め尽くされた頭から抜け出せることが出来た。如月を”ボス”と呼んでいる彼女は、如月の本当の名前を知っているのだろうか。
春人はコンビニの袋をミコの机の上に無言で置くと、如月が座っている席に詰め寄った。
「如月さん、私がこの会社に派遣されたのは、一体どういうことですか? 最初からこの会社に就職の話をしてくだされば良かったのに……」
動揺している春人に対して、如月はあくまで平然とした態度を取り続けている。
「君は書類の上では大手企業の社員で、普通に働いていると思わせることができるだろう?」
(普通に働いていると思わせる?)
「それは……、どういうことですか?」
春人は如月からもっと分かりやすい説明を求めて、椅子に座っている彼に視線を送った。如月は面白そうに笑いながら、それを真っ向から受け止める。
「お前はその抜き出た身体能力を腐らせたまま、普通に働くつもりだったのかい?」
「それは、そうですが……」
里を出て安定的に暮らすとなれば、一般の企業に就職して、給料を稼ぐしかない。
春人は自分の力を活かせるような仕事に就こうと考えても、そもそも他の組織など知らない。もし仮にそれに属することになれば、故郷を裏切ったように感じてしまう。
「俺はお前と手合わせをして、お前のその能力を評価しているんだ。だから、是非うちで働いてもらえればと思ったんだよ。この企業は、表向きは只の警備会社だけど、実際は裏の仕事も多く請け負っている。色々と春人も楽しめると思うよ?」
「ですが……」
如月の話す内容は、おいそれと春人が簡単に受け入れられる話ではない。如月は躊躇う春人を眺めながら、身体を前に乗り出すと、机に右肘をついて頬杖をついた。
「嫌なら、明日から来なくていいよ。ただ、元の会社に戻っても、君の居場所はないと思うけどね」
冷酷な台詞を、先程と変わらない微笑を添えながら、如月は言い捨てる。春人は憤りを感じたが、彼の態度に気圧されて、それは胸の中で抑え込まれた。
「それは脅しですか……?」
春人は残った気力を振り絞って、やっとそれを口に出来た。
「何、人聞きの悪い事を言っているんだい? 俺はお前にとって悪い話じゃないと思って、わざわざ手配したんだけど。それが気に喰わないなら、別のところに就職したらどうだい?」
簡単に他の会社に就職できていたら、そもそも如月に頼んでいない。春人の置かれた状況を分かっていながら、突き放す言い方をする彼のやり方が狡く感じた。しかし、春人にも落ち度があったことは自覚していた。
(うまい話には裏がある。)
まさに身を持って知った春人である。
「あの……、裏の仕事は、犯罪になるものではないですよね? それに、里には色々と掟があって、それを破らなければ、この話を受けたいと思います」
春人は腹を括って、承諾を口にした。如月は無言で頷くと、ミコの名前を呼んだ。
「今日から彼女の下で訓練してもらうよ。このビルの地下に施設があるから、一緒に行くといい」
「ボーヤ、よろしくね♪」
ミコは如月の声に反応して、機嫌よく愛嬌を振りまいていた。春人は彼女のように愛想を作ることはできず、儀礼的に挨拶を返すのがやっとである。
これから、この子供のようなミコが春人の直属の上司になり、ビシバシと扱かれる破目になるとは露知らず。
一見普通の就職かと思いきや、腹黒い策略によって如月の手下にされるとは、春人は全く予想できなかった。
春人の社会人としての新生活が、早くも雲行き怪しいものになっていた。
ここまでお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。