春人の就職 2
次の日から新人研修が始まった。研修は一か所に集められて一ヶ月間行われる予定で、それが終わった後に配属先が決まるようだ。
研修はパソコン技術の講義から始まり、一日中その習得の時間に充てられた。ビジネスマナーなども、講師を招いて行われて、名刺交換など色々なことを教えてもらう。
お金を貰いながら、このような授業を受けられて、春人は非常に有難かった。
同僚たちのほとんどは、年下の春人に対して親切だった。面倒を起こしやすい外見の春人が、既婚ということで同僚の女性たちに異性として相手にされなくなったのも、好印象に働いていた。
春人が誤解を与えないように、用もないのに積極的に女性と話さないところも評価されているのかもしれない。
(男女関係なしに妬みの怖さは、本当に恐ろしいものだ。)
これまでの短い人生の間で、春人は色々と人間の裏側を見過ぎていた。適度な無関心が、一番心地よかった。
佳子との夫婦生活も順調で、非常に満ち足りていた。佳子がシロと一緒にご飯を用意して、春人の帰りを待っていてくれる。研修会場が遠方のため、長時間の通勤が苦痛でも、帰宅の道のりだけは彼女に会うのが待ち遠しくて堪らない。
研修期間はあっという間に過ぎ去り、配属先の辞令を貰う日となった。自宅から通えるところに支店があり、そこへ配属されるだろうと春人は思っていた。
名前のあいうえお順なのか、一番初めに春人は名前を呼ばれて、辞令書を渡された。春人は席に戻って、落ち着いてその辞令文を読んで見る。すると、そこには予想もしないことが書かれていた。
”○×警備保障会社への派遣を命ずる”
派遣されるなんて、春人にとっては寝耳に水だった。しかも、そこに書かれている会社は、全く聞いたことがないもので、どうして警備会社なのかも不明である。しかも、今いる会社とは、業務内容が全く畑違い。
次々と同僚たちの辞令が渡されていく中、春人は上司に真相を問い詰めたくて、ひたすら機会を窺うことにした。
上司が辞令交付を終えて、最後に締めくくりの挨拶で、とうとう本日の業務が終了した。
春人はすぐに上司に駆け寄って、「私の辞令はどういうことですか?」と掴みかかる様に質問してしまった。対する上司は、春人の慌てた様子に非常に驚いていた。
「君の配属は採用時から決まったんだよ。だから、てっきり話が通っていると思っていたんだけど」
(採用時から決まっていた?)
上司には、逆に不思議そうに言われてしまった。何も事情を知らなそうな上司に、これ以上春人は問うことが出来ず、大人しく引き下がるしかなかった。
如月に無理を言って、あの時期に採用してもらったのは春人だった。
だから細かい事に文句を言う筋合いはないのかもしれないが、あの時に大手企業の名前を出されたため、そこに採用されて、そこで働くものだと思い込んでしまった。
詳細を確認しなかった自分を春人は悔やんだ。話がうまく行き過ぎて、浮かれいたのかもしれない。春人は自分の至らなさを反省することとなった。
だから、仕事が見つかれば、どこでも働きたいと思っていた、当初の気持ちを思い出して、今の現実を受け入れることにした。
普通に入社した同僚たちは、問題なく支店勤務が決まっているらしい。
研修最後なので、これから飲み会に行こうと彼らは誘いあっていて、訳ありの春人にも声を掛けてくれる人もいたが、春人はそういう気分にならず、家族が待っているからと断ってしまった。
きっと、彼らと今後会うこともないだろう。憂鬱な気分を抱えて、我が家へ帰宅すると、お帰りなさいと労わってくれる佳子に癒される。
……はずだった。
春人はいつものように出迎えてくれた佳子を抱きしめようとした矢先のことである。彼女は深刻な顔をして、相談があるので聞いて欲しいと春人に話しかけて来た。
何事かと春人は構えて、居間で落ち着いて彼女の話を聞いてみれば、意外なことを彼女は口にしたのだ。
「夫婦の営みの回数を減らして欲しいの」
言われた内容に春人は衝撃を受けたが、彼女が申し訳なさそうに続ける言葉を聞いて、考えを改めることとなった。
彼女は朝晩と連日抱かれると、一日中倦怠感が付き纏い、疲れて仕事をするのが辛いらしい。とうとう今日から咳が再発してしまったので、疲労を溜めるようなことを避けたいようだった。
春人にとっては、愛を確かめ合う大事な行為だったが、彼女にとってはそれだけ済まずに、蓄積された疲労によって身体を蝕むことになっていたとは。
目の前で辛そうに咳をする彼女を見ると、体調の不良をもっと早く察せればと、春人は自分の愚かさが悔やまれた。
そういうことなら、彼女の言い分を聞いて、春人は自分の行動を自粛しなくてはならない。
春人は快く了承したが、彼女の魅力の前に、自分の理性がどのくらい耐えられるのか、今から先行きに不安を感じる。しかし、彼女の身体を労わりたいと、本心から願っていた。
次の日、早朝から佳子の艶めかしい寝姿を目撃して、春人の理性が悲鳴を上げて、捩じ切れそうになった。しかし、昨日の今日で約束を破る訳にもいかず、屋敷のある山の頂上で、身体を動かして懸命に煩悩を追い払った。
春人は自分の性的な欲求について淡白、いや不感症なのかもしれないと以前は考えていた。他の女性がすり寄って来ても、疎ましく感じるだけだったのに、佳子が目の前にいるだけで頭の中が邪な思考に占領されてしまう。彼女を欲望のまま食らってしまう状況は、まるで獣のようだと感じるほどに。
佳子に修行用の巻物を沢山用意してもらって、それを使って有り余る自分の体力を消費しようと春人は思いつく。そこで、春人はさっそく彼女にお願いしておいた。
それから春人は出勤して、新しい勤務場所へと向かった。幸いにも通勤時間は短くなったので、苦痛が減って嬉しかった。
教えてもらった住所と電話番号を頼りに、事前に会社の所在地に見当をつけていたので、目的の場所はすぐに見つかった。
そこには、見るからに古びて人気のなさそうな鉄筋4階建てのビルがあった。
建物に飾られた、小さく安っぽい金属製の看板によって、かろうじて会社名が判別できて、そのビルの中に勤め先はあることが分かる。
嫌な予感が漂う中、ビルの小さな入り口を見つけて、春人は入って行った。狭い玄関ホールで、会社がある階数を確認すると、最上階と分かったのでエレベーターで上がった。
エレベーターが目的の階に着いたので降りると、狭く細い廊下に出た。目の前には一枚のドアがあり、プレートに企業名が書かれている。
春人は意を決すると、ドア板をノックして、春人は声を掛けながらドアノブを回してゆっくりと開けた。
中からコーヒーの香りが漂ってきて、ごく普通の事務所のような様子が目の前に広がっていた。
一番奥の窓際の席に、上司のものと思われる大きめの机が一つ置かれている。その手前には事務用の机が二つずつお互い向き合うように並んでいて、その上には電話や書類が雑然と置かれていた。
壁には書類を収納する棚が一面に並んでいる。
少し年季が入ったような感じの設備である。すでに働いている人が三名いて、それぞれ机に座っている。皆一様に入ってきた春人に視線を送っていた。
「あの、今日からこちらに派遣されました、一上春人です。どうぞ、よろしくお願いします」
春人が挨拶すると、近くにいた女性が入口に近づいてきた。髪を一つにまとめて乱れが無く、真面目そうな眼鏡を掛けていて、白いブラウスにタイトなスカートを着ていた。年は二十代半ばくらいだろうか。見るからに、頼りがいのある印象を持った人だった。
「ああ、ボスから話は聞いているわ。貴方、今日からここで働くらしいわね。人間の新入りなんて、貴方が初めてよ。よろしくね、私はキリっていうの。とりあえず、今はやることないから、空いている席に座っててもらえる?」
「はい……?」
キリと名乗った女性は、春人にそう言い残して、また元いた場所へと戻っていた。そして、作業中の書類に取りかかる。
色々と気になる言葉を言われたが、彼女は忙しそうなので、春人は声を掛けるのが憚られた。
「ちょっとー、キリってば、新入りを放置って可哀想じゃん。あたしはミコっていうの。よろしくね、ボーヤ!」
明るい口調で話しかけて来たのは、見るからに春人より幼い感じの女の子である。春人よりも年下に見えるのに、”ボーヤ”と春人を呼ぶのだから、実際は見た目以上に年なのかもしれない。髪を耳の上で左右対称にリボンで結んでおり、顔の横で垂れた髪の束が揺れていた。服はレースがふんだんに使われた白いワンピーススカートで、オフィスに似つかわしくない格好である。
「じゃあ、ミコが下に行って遊んであげればいいでしょ? 私はちょっとやらなくてはいけないことがあるのよ」
「えー、だって、自分が来るまでは手を出すなって、ボスが言ってたんだもん」
「あら、そうなの? 一上君、貴方ボスに気に入られているのね。最近、ボスの雰囲気が変わったのも、もしかして貴方のお陰?」
意味深な視線をキリに送られたが、春人にはボスに関して全く心当たりがないため、首をひねるだけである。
「あの、そのボスという方は、何時頃いらっしゃるのですか?」
「ボスならいつも昼ごろ来るのよ。あの人って、朝には弱いのよね」
キリは下を向いて話しながら、手を動かして書類に何か判子を押していた。
「自販機が下にあるから、ココア買って来て~? お釣りで何かおごってあげるから」
ミコが千円札を可愛らしい財布から取り出して、春人に差し出している。ミコの横に座っている、巨体の男が先程からいるのだが、微塵も動かずに腕を胸の前で組んで、瞑想しているかのように両目を閉じていた。
目を開けて春人を見たのは、一瞬だけだったらしい。TシャツにGパンの格好をしていて、この人もサラリーマンには見えなかった。
「このビルの付近に、自販機などありましたか?」
ミコの話す内容に疑問を感じたので、春人がそれについて質問すると、お札を差し出していた彼女は意地の悪い笑みを浮かべた。
「えへへ、ちゃんと見てるじゃん。自販機がないのに気付いたんだ。観察力は悪くないね。飲み物なら、ここから北に少し歩いたところにあるコンビニで売ってるから、そこで買ってきて貰える?」
「コンビニは本当にありますよね?」
「あるってば~。今度は本当」
春人はミコの答えを一応信用して、お金を受け取ると、買い出しに出かけた。指示通りの方向に歩いていくと、コンビニの看板が見えて、無事にお遣いが出来た。
春人がビルに戻って、会社のドアを開くと、先程まで空席だった窓際の上司の席に、誰かが後ろを向いて座っていた。