人間不信
世の中には、平気な顔をして他人を騙す人がいるのだと、佳子はしみじみと思い知らされた。
真吾のことも、春人のことも、一度は好意を抱いた人物なだけに、激しい失意に打ちのめされた。
特に春人は恋愛感情まで利用してまで、佳子に近づいてきたので、人間不信になるのに十分なものだった。全ての彼の好意が、計算づくだった。残酷な事実を知ってしまった以上、彼に抱いた愛情は深い傷となった。
本当の恋人である大橋には、捜査のために佳子に嫌々近づいているのだと春人は説明していたのだ。仕事とはいえ、自分の恋人が他の女と仲良くしていて、大橋はよほど不愉快な思いをしていたに違いない。彼女の憎しみが込められた態度を、佳子は許せるものではなかったが痛いほど共感できた。
家に帰った佳子は、如月からのメモが郵便受けに入っていたのに驚いた。佳子が帰宅したら、下記の電話番号に連絡が欲しいと書かれていたので、彼はまだ自分との交流を断ち切る気はないのだと分かって嬉しかった。
ところが、佳子の中に不安が生まれる。如月は佳子に告白をしてきたことを思い出したのだ。
春人の件があって以来、魅力が低い自分を異性として好意を持たれるということは、もはや不審なものにしか佳子は思えなかった。
何か佳子が想像もつかないような企みを抱いて、如月も佳子に近づいてきたのでは。そういう可能性を、今の佳子は否定できなかった。
佳子は次の日に指定された番号に電話を掛けると、如月はすぐに応答してくれた。佳子の安否を気にしてくれて、また会おうと言ってくれた。佳子は嬉しく感じる反面、彼の言葉をそのまま額面通りに受け取れず、その裏を疑ってしまう。
大橋にぶつけられた中傷が、未だに佳子の耳に残る。簡単に他人の話を信用しては、また手酷い目に遭うだけだ。
佳子は見えない傷がまだ癒えてないのを感じた。
夜にベッドの上で、佳子は辛い記憶を思い出して独りで泣いた時もあったが、傷心の心を抱えていても誰かが助けてくれる訳でもない。ただ減っていくばかりの財布の中身は、厳しい現実を教えてくれる。
毎日生活費を稼いで生活していかなければ生きていけない。佳子は求人情報を集めて、求職活動を始めることにした。里の承諾が得られれば家を明け渡すために、ハローワークにも通い、住み込みや寮がついている職場を探していた。
そんな時に如月がいつものように予告なしに佳子の家にやってきた。それは木曜日のことだった。
「お久しぶりね」
「随分やつれてないか? 酷い目に遭ったみたいだね」
一カ月ぶりに見る如月は、相変わらず妖艶な雰囲気を纏い、全く変わった様子はなかった。
佳子は如月の台詞に曖昧に微笑んで誤魔化すと、家の中に上がるよう勧める。
居間で食卓を挟んで向かい合うように如月と座ると、佳子は里の一上家に約束通り来てくれたことに対する礼を述べた。それに続いて、一ヶ月間取り調べを受けたことや、春人が自分を欺いていたことを知ったため、彼とは別れたことを如月に簡潔に説明した。
「そうなんだ。酷く騙していた割には、問い詰められてあっさりと白状しちゃうとは、変な奴だね」
「捜査が終わったことで、私のことは用済みになったのよ。今頃は親公認の本当の恋人と仲良くしているんじゃないかしら?」
事情を聞いて欲しいと懇願していた春人を、今更言い訳など聞きたくないと拒絶したのは、まだ佳子の記憶に新しい。
春人に対する激しい怒りと動揺で、あの場から早く消え去りたいあまりに、佳子はあのような冷たい態度をとってしまった。春人に已むに已まれぬ理由があったにせよ、欺いていたという結果はきっと変わらない。
春人は簡単に引き下がり、佳子を追っても来なかった。そして、あれから春人からは、佳子に対して何も連絡もない。つまりは、そういうことだ。佳子の中で決定事項になっていた。
「如月の忠告に耳を貸していれば、こんなに落ち込むこともなかったのにね」
佳子が自嘲するように笑うと、食卓を挟んで向かいに座っている如月は、痛ましそうな表情でこちらを見つめた。そして、ふと彼は食卓の上に置いてあった求人情報の紙に視線を送る。
「仕事を探しているのかい?」
「ええ、里から許しを得られたら、ここを出ようと考えているの」
「それなら、俺が仕事を紹介するよ。住む場所も良かったら都合をつけるよ?」
如月の申し出は、非常に助かるものだったが、彼にそこまで尽してもらう理由が佳子には見当たらない。
「とても嬉しい話だけど、自分で探してみて、本当に駄目だった時に如月にお願いするわ」
佳子は無難な受け答えをして、その話を流した。今までのように、如月と会話を楽しむ余裕などなかった。
彼のどんな仕草を見逃すまいと、見張る様に神経を尖らせて、佳子は彼と対面していた。如月も何か言いたげな様子で、佳子のことを見つめていた。
そんな時に、シロがお茶を淹れた湯呑をお盆に載せて持って来てくれた。いつもの陽気なシロとは違って、おどおどと挙動不審に食卓に湯呑を置くと、そそくさと台所へと戻ってゆく。
シロは佳子の不穏な空気に怯えているようだった。
佳子が湯呑に口をつけてお茶を飲み始めると、如月は片手を食卓について軽々とそれを乗り越えて、反対側に座っていた佳子の隣へと着地した。
佳子は驚いて、湯呑を持ったまま固まる。佳子が如月を凝視すると、彼の色気が溢れた瞳に近距離で見つめられた。
「もしかして、俺のことも疑っている?」
核心をついた如月の発言に佳子は動揺する。
湯呑を持つ手元が怪しくなったので、食卓の上に置くのを理由に彼の視線から目を逸らした。
「ごめんなさい。でも、その……、警戒をするようにはなったわ。如月も彼と同じで女性には困りそうにないタイプでしょ? やっぱり、どうしても……」
「俺はあいつとは違うよ? もし裏切ったら、殺してくれても構わない」
「そんなに簡単に殺すとか言わないで欲しいわ。私は人殺しになんてなりたくないの」
そう言いながら、佳子はあの時も如月に真吾を殺すように意見されたことを思い出す。そして佳子がそれを断ると、酷く落胆した如月は自分の前から消え去った。それなのに何故、如月は再び佳子の前に現れたのか――? 佳子はその答えを思いつき、気が付いたら口にしていた。
「如月は私に人を殺させたかったの? だから、復讐に手を貸してくれたの?」
鬼である如月は、残酷な場面に遭遇したいがために、佳子を唆そうとしたのだろうか。佳子は恐ろしい想像に震えそうになる。
「そうだね、お前が己の手を血で染めれば、里での居場所がなくなって、結果的に俺のものになると思っていたよ。だから、殺人を教唆したんだ」
「私を手に入れるため?」
佳子の予想を超えた回答が返って来たために、彼の考えを瞬時には理解できなかった。
「そうだよ。罪に問われた身分なら、俺の手を取るしか生きる方法がないと、思わせることができると考えていたんだ」
「でも、私は殺人を望んでいないわ。亡くなった父も、私にはそのようなことはさせたくないと願っていたの」
「そうだね。自分の復讐心より、父の望みを叶える方をお前は選択したんだね。俺はそれを見誤っていた。お前の心はあの男に奪われて、さらに最後の手段を失った俺は酷く落ち込んで、お前にはもう会わない方がいいんじゃないかと思っていたんだけど……」
如月は言いかけると、腕を伸ばして佳子の手を握り締めて来た。
「離れていても、お前のことが忘れられないんだ。だから、また会いに来てしまったんだよ」
「如月……」
佳子は如月に握られた手を引こうとしたら、逆に彼によって抱きしめられた。相変わらず温かみのない如月の身体に触れて、逃げなくてはと気持ちが焦る。彼の身体を自分から引き離そうとするが、ビクともしなかった。
「あいつと別れて、俺にも再びチャンスが巡って来て、歓喜したよ。俺ならお前のことを泣かせるようなことはしないよ。今は無理でも、いずれは俺を受け入れてくれないか?」
如月の熱烈な告白を聞いても、佳子は全く心が動かされなかった。
「ごめんなさい、如月のことは、春人さんと出会ってなくても、きっと断っていたと思うの」
佳子の迷いのない言葉に、如月は抱擁の手を緩めて佳子の顔を覗き込む。
「……それは何故?」
そう問いかける如月の声は弱々しくて、顔は強張っていた。




