残酷な真実
「嘘よ……! 春人さんが私を騙すような真似をするはずがありません」
必死に否定した佳子の声は、酷く震えていた。
それとは正反対に里香の態度は尊大になり、太々しいものになる。
「だったら、ハルに直接訊けばいいわよ。だいたい、五月と一上との仲が険悪なのは、里でも有名なことだし、あんたもよく知っているでしょ? 何でお見合いの話がスムーズに進んだのか、少しも不思議に思わなかった訳? 婚約の話も偽装だったってことは、あたしも知っているのよ? 地味で不細工なあんたが、あのカッコいいハルと恋人ごっこできただけでも、せいぜいありがたく思いなさいよね」
里香の言葉の残酷さに、佳子は心が引き裂かれそうなほど激しい衝撃を受けた。
これ以上、彼女の刃物のような言葉を聞きたくない。拒絶のように思わず佳子の口から「止めて!」と叫び声が漏れた。
「出て行って! これ以上貴女とは何も話したくありません!」
「はいはい、言われなくても出て行くわよ。さよなら!」
言いたい事を全て吐き出したと思われる大橋は、満足げに嘲笑を浮かべて、佳子の希望通り部屋から出て行った。
一人部屋に残された佳子の頭には、先程の里香の台詞が何度も駆け巡っていた。
(私に近づいたのは、全部捜査の為?)
それを裏付けるように、今まで疑問に思ったり、忠告されたりした記憶が佳子の中で瞬時に甦る。
怪しいのではないのかと判断を迫られて、考える機会は何度もあった。しかし、春人の佳子を愛しげに見つめる瞳や、佳子の名前を切なげに呼ぶ声を信用して、彼の手を取ったのは佳子自身だ。彼の態度は誠実そのものだったと、佳子は信じている。
大橋は春人と佳子を引き裂こうとして、わざと佳子の気持ちを揺さぶるような虚言を口にしただけだ。今回も春人に真相を尋ねれば、いいだけだ。きっと今まで通り、佳子の不安を一蹴してくれるに違いない。だからこそ、佳子は早く春人に会いたくて仕方が無かった。
大橋が運んできた昼食に佳子はほとんど手をつけることが出来ず、佳子は精神的に追い詰められたまま、迎えが来たと言葉を掛けられた。
鞄を持って佳子が出入り口まで向かうと、そこには再会を待ちわびていた春人がいた。
一か月振りに見る、恋人の姿に佳子の心が躍る。
「春人さん!」
佳子の姿を見て、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべてくれた春人に、佳子は何も考えられず彼のもとへと足早に近づいた。
「佳子さん、会いたかったです」
春人も近づくと、佳子を両手で愛おしそうに抱きしめてくれた。彼から伝わるその温もりに、感極まった佳子は思わず涙が出た。
「私も会いたかったです……」
嗚咽混じりに自分の気持ちを告白したら、佳子の身体に回った春人の腕に力が込められた。
「取り調べは大変厳しかったと聞きました。無事に終わって本当に良かったです」
「いえ、それはいいんです。私も納得していますから。でも、先程嫌な言葉を投げかけられて……」
「何があったんですか?」
春人は気遣わしげに詳細を尋ねてくれた。佳子はそんな彼に安心を覚えつつ、抱きしめられたまま春人の顔を見上げると、彼の腕の力が少し緩んだ。
近距離でお互い見つめ合う。
「春人さんが慶三郎さんから命令されて、スパイのために私に近づいたって言われたんです。全くの嘘ですよね、春人さん!?」
佳子の台詞を春人が聞いた瞬間、彼の表情に動揺が浮かんだ。その反応を信じられない思いで佳子が見つめ続けていると、その視線に彼は更に焦りの色を深めた。
「あの、それは、その……」
さらに佳子へ追い打ちをかけるように、春人の口から漏れるのは、取りとめのない単語ばかり。
突然の佳子の問いかけに、彼は動転して挙動不審な態度になっていた。そんな彼を間近で見てしまい、佳子の不安は絶望へと変化していく。
春人との再会に感動して流れた涙は、呆気なく止まり、佳子の胸は抉られたように苦しい。まるで刃物で刺されたような傷の痛みが、全身へと広がって行き、手が震える。
佳子は自分を包んでいた彼の腕から抜け出して、お互いの距離を少し置いた。
二人の間には、先程までなかった近寄りがたい雰囲気が漂っていた。
「本当だったのですか……?」
絞り出すように呟いた佳子の言葉に、春人は力なく頭を垂れた。
「す、すいません……」
小さく呟いた春人の謝罪を聞いた途端、彼の裏切りは決定的なものだと分かってしまった。気まずそうに立っている春人が、全く知らない別人に見えた。
佳子が茫然として立ち尽くしていると、春人は勢いよく頭を上げた。
「あの、これには事情がありまして……! 佳子さん、聞いてくれませんか!」
春人は慌てて弁明を始めようとして、縋りつくように佳子の両肩に手を置こうとしたが、佳子はその手を振り払って拒絶した。
(全部、嘘だった! 私に対する気持ちも、彼の誠意も何もかも! 人の真心を利用してまで、この人たちは―!)
信じていた分だけ、裏切られたと分かった時の衝撃は酷かった。佳子の感情は一瞬にして凍りつく。
春人は傷ついて今にも泣きそうな顔をしていたが、彼にそんな表情を向けられる筋合いはない。
行き場を失くした彼の手が、力なく下に垂れ下がった。
佳子は睨みつけるように春人を見ると、「五月さん、お仕事お疲れさまでした。もう二度と私の前に現れないでください」と、捨て台詞を残して、彼の前から逃げ出すので精一杯だった。
佳子を追いかける者はいなかった。意地でも佳子は、決して振り返らなかった。