序章
連載始めました。よろしくお願いします。
「佳子さん、そろそろ婿取りの話を進めてもいいかしら?」
母の政子に佳子は結婚の話を切り出された。今日は休日で学校もなく、せっかく自室で寛ろいでいたところを居間に呼び出されたのだ。
在来工法平屋建ての佳子の家は、両親が結婚した時に建てられたもの。今いる居間は二十畳くらいあり、家の中で一番広い。壁際に日用家具がいくつか置かれ、普段から女中によって綺麗に整理整頓されている。
「もうすぐ高校も卒業するんですから、時期的にいいと思って。子供は授かりものだから、結婚は早い方がいいわ」
佳子は長方形の食卓を挟んで母と対面していた。畳の上に正座し、畏まった格好で。
佳子の目の前にいる母は華やかに笑い、ご機嫌な様子だ。長い髪を後ろにまとめ、和装を着こなす姿は年をとっていても艶やか。唇に刷いた紅の色が、佳子の印象にいつも残る。
「婚約者の高志さんは素晴らしい方ですわ。きっと佳子を幸せにしてくれるはずです」
そんな積極的な母とは異なり、佳子は無表情のまま黙り、一切身動きしていない。後ろで束ね損ねた髪が頬に掛かり、顔に陰鬱な影を作っている。
一重の憂いを帯びた眼差しで、食卓を見下ろしたままだ。まだ二十歳にもなっていない、頼りない表情を向けながら。
母と同じように佳子は和装姿。それは母の意向に逆らえないからだ。
「ねえ佳子さん、お爺様に了承の返事をしてよろしくて?」
「え、でも……」
母に決断を迫られて、始めて佳子は反応する。
一上家の当主筋に生まれた佳子。彼女は一族の血を残す義務があった。その血脈に受け継がれる特殊な力を守り続けるために。それ故に血族内で婚姻を代々続けて、現当主の父も分家筋の母と結婚したのだ。
しかし、佳子は結婚に乗り気ではなかった。その一方で、厳しい母に逆らってまで求めるものは佳子には何もない。
「不安なのは分かりますが、大丈夫ですよ。私がついてますから」
母は安心させるように優しい笑みを浮かべている。けれども、その容貌がたまに般若のように変化することを佳子がよく知っていた。返答に困っていると、救いのように居間に置いてある電話が突然鳴り出す。
「はい、もしもし」
佳子は急いで立ち上がって受話器を取る。おかげで母との会話を中断することができた。
「佳子か?」
「あら、お父様!」
電話の主は、外出中の父だ。父は数日前から母の実家に滞在していた。
母の故郷は、佳子の家から遠く離れた田舎にある。一上家のように特殊な力を持つ一族たちが、そこで何百年も前から暮らしている。その場所を山代の里と呼び、異能者の組織を作っていた。
つまり、一上の当主である佳子の家だけが、里から離れたこの地に居を構えていた。
「僕の留守中、変わりはない?」
「え、ええ……。何もないわ」
優しく気遣う父の声に佳子は安堵する。それによって先程よほど自分が緊張していたことを知った。
「そうか、それは良かった。佳子の声を急に聞きたくなって、電話をかけてしまったんだ」
「そうなの? うふふ」
何時になく声が弾んで楽しそうな父に、佳子はつられて嬉しくなる。
「実はね、佳子に会わせたい人がいるんだ」
「え、誰なの?」
佳子が尋ねると、「その人と会うまでのお楽しみだよ」と父にはぐらかされてしまう。
「今夜には帰るから。じゃあね」
父との短い電話は終わった。最後まで明るい口調だった。
(早く夜になればいいのに。)
佳子は父の帰宅を待ちわびた。
口うるさく自分を支配的な母より、寛容で優しい父と一緒に過ごす時間の方が好きだった。
やがて日が暮れて、母と静かに女中が用意した夕飯を食べ終えた。その後は、佳子は自室で耳を澄ませて待つばかり。父の帰宅してくる物音を。
そんな佳子の耳に入って来たのは、父の乗用車の音ではなく電話の呼び鈴。それは警察から父の交通事故を知らせる電話だった。
取る物も取り敢えず、警察から伝えられた病院へ母たちと向かった。
そこで、佳子たちは変わり果てた父の姿と対面する。
父は山道を運転中にハンドル操作を誤ったのか、ガードレールを突き破って崖から車ごと下へ転落。さらに運が悪いことに、ガソリンが漏れて車が炎上したようだと、淡々と警察は説明をしてくれた。
焼け焦げた無残な父の死に顔。
(これは何かの間違いだ。父が交通事故で亡くなるなんて。しかもこんな悲惨な最期だなんて――。)
佳子は堰を切ったように父に縋って号泣した。
取り乱した自分の傍で、「みっともない泣き真似は止めなさい」と母は異様なまでに冷静だった。
この時の母のいつもと変わらぬ横顔を、佳子は今でも忘れられない。
(何故、どうして――。)
その問いは何度も佳子の頭の中を巡回した。
現実を受け入れられずに、ただ自問する日々。
後にその答えを佳子は予期せぬところで知ることとなる。