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第1章:テナーの匂いと、平らな空

アスファルトを蹴る音だけが、私の世界のすべてだった。 けれど、その未来は一瞬の故障であっけなく途切れ、すべてを奪われたまま、美容学校の教室へと流れ着いた吉田なるか。

 綺麗に整えられたこの場所は、どこか息苦しく、私はずっと乾いた冷たさを抱えたまま息を潜めていた。

 そんな私の世界に、不意に割り込んできたのは、昼は美容講師、夜はJAZZサックスプレイヤーとして音を鳴らす・宮下恭吾の存在だった。凍てついていた私の日常に、思いがけない熱とリズムを呼び覚ましていく。

 スタートラインでつまずいた少女に少しずつ変化が見え隠れしていく。

目標としていたサロンの求人票を手のひらの汗で湿らせてしまうくらいに、私の世界はいつも湿気っていた。千葉の空はどこまでも平らで、夕方になると電線がぐにゃりと曲がって見える。美容学校の二階、廊下のつきあたりにある職員室の扉をノックする音は、いつも自分の心臓の音にかき消されてしまう。

 宮下先生は、私を見つけるといつだって太陽みたいな声で笑った。

「お、なるか。どうした、また履歴書のことで煮詰まったか」

 先生の白衣のポケットからは、いつもかすかにジャズの匂い――というよりも、冷えた真鍮とオイルの混ざった匂いがした。昼間は専門学校の教員で、夜はサックスを吹く。その二足の草鞋のどちらをも軽やかに履きこなしている背中を、私はいつも少し離れたところから盗み見ていた。陸上のトラックの上で息を詰まらせていた頃の私には、あんなふうに軽やかに息をする大人の存在が、どうしても信じられなかったというのに。

「先生、志望動機のここ……どうしても、自分が薄っぺらく思えてしまうんです」

 机に向かい合って座ると、先生は赤ペンをくるくると指先で遊ばせた。幼い頃から走ることしか知らなかった私の足は、もうあの眩しい競技場の上を駆けることはない。故障という冷たい壁にぶつかり、すべてを投げ出して逃げ込んだこの場所で、私はまた新しい「正解」を探している。誰にも言えなかった過去の傷なんて、この綺麗な美容学校の空気には似合わないから、ずっと奥底に閉じ込めていた。

けれど、宮下先生は私のそんな臆病な沈黙を、少しも急かさなかった。

「薄っぺらいなんてことないだろ。お前がハサミを握る時の指の角度、俺はちゃんと言い当てられるぜ」

 先生が指摘してくれる私の癖は、どれも自分では気づきもしなかったものばかりだった。履歴書の空欄を埋める言葉一つに、ここまで血を通わせてくれる大人なんて、この世界に存在しないのだと思っていた。大人はみんな、何かを守るために嘘をつくものだと、どこかで諦めていたから。

 放課後の教室は、消毒液とファンデーションの匂いが微かに混ざり合って、やけに静かだった。


夕陽が窓枠の影を黒々と床に引き延ばしていく中、私は先生に向かって何度も頭を下げ、言葉を紡いだ。

「――御社で、お客様の新しい魅力を引き出すお手伝いをしたい、です」

「よし、今の目線はすごくいい。声のトーンもな」

 先生の褒め言葉は、お世辞というにはあまりにも温度があって、私は胸の奥がチリチリと熱くなるのを感じた。

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