第四話 異変
頬に、何かが触れた。冷たい粒が肌の上で止まる。
そのわずかな感触が、沈んでいた意識をゆっくり引き上げた。
次の瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。
「――ッ!!」
カイルの体が跳ねる。息が勝手に吸い込まれた。
肺が焼ける。喉が裂けるみたいに痛い。
「がッ……はっ……!」
灰の地面に爪を立てる。呼吸が止まらない。体が勝手に痙攣する。
空気を吸うたび、胸の奥が軋んだ。
腹の奥が熱い。
いや――違う。
焼けている。
「……ッ、ぐ……!」
激痛に耐えきれず、カイルの体は反射的に縮こまり、腹を庇うように灰の上で体を丸めた。背中が震え、指が地面の灰をかきむしる。
腹の奥で何かが動いている。肉が裂け、骨が軋む。
内側から無理やり体を組み直されているみたいだった。
「ふざ……けんな……ッ」
歯が鳴る。視界が白く滲む。
腹を押さえた瞬間、激痛が走った。
「ッああああ!!」
思わず叫びが出る。喉が裂けるような声だった。
皮膚の下で、何かが這う。
黒い線みたいなものが腹から胸へ伸びていく。
それが広がるたび、神経を焼くような痛みが走った。
「……クソ……ッ……!」
カイルは灰の上で転がった。体が勝手に痙攣する。
呼吸が荒い。肺がうまく動かない。吸っても吸っても空気が足りなかった。
灰が舞い上がり、頬や唇に触れる。
冷たい粒が肌に張り付き、呼吸のたびに口の中へ入り込む。
やがて――痛みがゆっくり引いていった。
残ったのは、重たい疲労と、焼けるような違和感だけだった。
体の奥で、まだ何かが燻っている。
カイルはしばらく動かなかった。
灰の空を見上げる。
「……はっ……はぁ……」
荒い呼吸が漏れる。胸が上下するたび、肋骨の奥が鈍く痛む。
空気を吸い込むたび、肺の奥まで灰が入り込んでくるみたいだった。
「……はぁ……っ」
何度か深く息を吸い、ゆっくり吐く。
しばらくのあいだ、カイルは灰の上で息を整えることしかできなかった。
やがて、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。
「……はぁ……」
長く息を吐き、カイルはゆっくり体を起こした。
腹の奥にまだ鈍い熱が残っている。
何気なく視線を落とす。
服は破れていた。
巨人の爪が叩き込まれた場所だ。
カイルの動きが止まる。
「……は?」
そこにあるはずのものが、なかった。
いやむしろ、ありすぎた。
腹を裂かれたはずだった。
肉も骨も、吹き飛んだはずだ。
だが――
傷がない。
皮膚は繋がっている。
裂けた跡すら残っていない。
代わりに、そこには奇妙なものがあった。
腹の皮膚の上に、黒い線が浮かんでいる。
細く歪な線が絡み合い、皮膚に刻み込まれていた。
まるで焼けた鉄を押し付けられたみたいな、焼印のような跡だった。
それは、紋様だった。
本来、傷があるはずの場所。
巨人に裂かれたはずの場所に――
その紋様が、傷の代わりみたいに刻まれていた。
皮膚の裂け目を埋めるように。
失われたはずの肉を、別の何かで補われたみたいに。
どこか文字にも見える。
だが、読めるわけでもない。
そもそも、本当に文字なのかすら怪しい。
意味のある形なのか、それともただの模様なのかも分からない。
「……何なんだよ、これは」
カイルは小さく呟いた。
黒い線は腹から胸、そして脚へと伸びている。
蜘蛛の巣みたいに複雑に絡み合っていた。
指で触れる。
熱はない。
だが、皮膚の奥がわずかに疼いた。
カイルはゆっくり顔を上げる。
地面に黒いものが転がっていた。
あの剣だ。
カイルは立ち上がり、歩み寄る。
灰を踏む乾いた音が広場に響いた。
剣を拾い上げる。
刃を見る。
そして、眉が動いた。
「これって……」
黒い刃の奥に、白い線が浮かんでいる。
細く、歪な模様。
複雑に絡み合った線。
それは――
自分の腹に刻まれた紋様と、よく似ていた。
カイルは黙って剣と腹の紋様をを見比べた。
「……一体何がどうなってんだ」
誰もいない広場で、呟きが落ちる。
カイルはその疑問、真偽を確かめるかのような強く剣を握りしめた。
じっと広場を見渡す。腹の紋様が、まだ皮膚の奥でじんと疼いている。焼けたような違和感は薄れてきたが、完全に消えたわけではない。
足元の灰がかすかに動く。
広場を渡る風が瓦礫の上の粉塵を撫で流すようにしている。
その流れが、途中でふと止まった。
下に――何かがいる。
視界の隅、意識の奥、胸の奥の神経が反応する。
直感。それは嫌な予感だけではなく、確実な警告だった。
瓦礫の影から黒く巨大な腕が突き出した。灰を払いのけ、背丈三人分ほどの人型が姿を現す。普通の魔物より一回り以上大きく、腕は異様に長い。灰に覆われた体の隙間から黒い影が揺れ、重力すらも歪ませるかのような存在感を放つ。
だが、あの巨人より遥かに小さい。
ゆっくり首を動かす。空洞のような目がカイルを捉え、低い唸り声が地面を振動させる。
「……くそ、またか」
カイルは小さく吐き捨て、剣を握り直した。胸の奥の紋様が軽く疼く。焼けたような感覚が、皮膚を通して全身に広がる。まるで全ての神経を掌握したかのように。
魔物が地面を蹴る。
灰が弾け、巨体が一直線に突っ込んできた。腕が振り上げられる。爪が、瓦礫ごとカイルを押し潰す勢いで振り下ろされる。
その瞬間、違和感が全身を貫いた。
世界の時間が、妙に遅くなった。
落ちてくる爪の動き、崩れる瓦礫、舞い上がる灰、すべてが鮮明に見える。
体が軽い。重力を忘れたように、足は自然に動いた。
気づけば、魔物の攻撃はすでに後ろを通り過ぎていた。
「……なんだ、これ……」
戸惑いの声が喉から漏れる。
しかし、次の瞬間、魔物は振り返る。唸り声を上げ、再び踏み込む。長い腕が横から薙ぎ払う。
カイルは自然に前に踏み込んだ。
速い。自分でも信じられないほど速く、距離は瞬時に消える。気づいた時には魔物の懐に入り、黒い剣が自然に振られていた。
一閃。
刃が魔物の胴を貫く。
何も起きない瞬間、ただ静寂が支配する。
そして――魔物の体が崩れる。灰とともに崩壊し、舞い上がった粉塵は静かに黒い剣へ吸い込まれていった。
広場に静寂が戻る。
カイルはその場に立ったまま、息を整える。
今の一撃。力を込めたわけではない。ただ振っただけ。
それでも、魔物は抵抗する間もなく灰となった。
足元を見る。踏み込み、体の動き、全てが異常だった。
全身の紋様が、わずかに熱を帯びている。
黒い剣の奥で、かすかな光が脈打つ。
「はは、俺は狂っちまったのか?」
声はおどけていた。。誰に向けた疑問でもない。
ただ、全身に残る熱、紋様、黒い剣の感覚が、今の異常さを確かに告げていた。
カイルは空を見上げる。
そこには、異変を訴えるカイルの体とは正反対にいつも通りの灰色の空が大きく広く広がっている。
「汚ねぇ、空だ……」
独り言が宙にまい、そして消えてゆく
リアクション嬉しいです




