第一話 灰の中で
灰が降っている。
十年前から、ずっとだ。
粉雪みたいに静かに落ちてくるそれは、地面も、建物も、人の痕跡も、何もかもを覆い隠していた。踏みしめるたびに、靴の下で灰がかすかに鳴る。乾いた音だ。まるで世界そのものが、ゆっくりと崩れているみたいだった。
世界はもう、ほとんど灰の色だった。
空を見上げる。太陽はある。だが光は弱い。灰に覆われた空の向こうで、黒く鈍く光っているだけだ。
かつてはもっと明るかった。
カイルも覚えている。青い空。暖かい太陽。風に揺れる草の色。遠くまで見える雲。
そして――灰が降り始めた日。
最初はただの砂みたいだった。空から落ちてくる白い粒。誰もそれが何なのか分からなかった。けれどその日を境に、空は暗くなり、太陽は弱くなり、世界はゆっくりと壊れていった。
あの日から、世界は変わった。
カイルは視線を落とした。崩れた街。瓦礫。灰。そして、死体。
「……今日は多いな」
カイルはぼそりと呟いた。
魔物に襲われた跡だろう。灰の世界では珍しくもない光景だ。むしろ、こういう場所は運がいい。だいたい何か残っている。
カイルは一番近い死体にしゃがみこんだ。兵士だ。鎧は割れ、胸のあたりが大きく裂けている。内側から何かに引き裂かれたような傷だ。魔物の爪だろう。
だがカイルは顔も傷も見ない。興味があるのは、持ち物だけだ。
腰袋を探る。
「……ちっ」
空だ。硬いパンくずすら残っていない。次に胸元を探る。服の内側に指を突っ込む。
そのとき、固いものに触れた。
「お」
指を引っかけて引っ張る。だが動かない。よく見ると、死体の手が何かを握っていた。指の隙間から銀色が見える。
ペンダントだ。
カイルは指をこじ開けようとした。だがびくともしない。死後硬直だ。時間が経つと、体は石みたいに固くなる。
「……めんどくせぇ」
カイルは腰の剣を抜いた。刃こぼれした安物の剣。何度も研いで使っているが、もう刃はまともじゃない。それでも、ないよりはマシだ。
カイルは刃を死体の指に当てた。躊躇はない。
振り下ろす。
鈍い音。骨を叩く感触が手に伝わる。指が地面に落ちた。死体の手からペンダントが転がる。
カイルはそれを拾い上げ、灰を拭った。銀の装飾に小さな宝石が取り付けられている。
「……そこそこ売れそうだな」
懐に突っ込む。こうして生きている。死体を漁る。奪う。売る。それで数日生きる。それだけだ。
だが、それでもいい。生きている限り、まだ終わっていない。
カイルは立ち上がり、廃墟の奥へ歩いた。そのとき、ふと足が止まる。
「……ん?」
灰の量がおかしい。地面一面に、分厚く積もっている。しかもただの灰じゃない。魔物の灰だ。
カイルは周囲を見回した。そこには無数の斬撃跡があった。壁。瓦礫。地面。どれも鋭い剣で切り裂かれている。そして灰の山。
魔物が倒された跡だ。
一体や二体じゃない。十体以上はいる。
「……誰か戦ったのか」
カイルは灰の中心へ歩いた。そこに、一人の死体があった。鎧を着た騎士。全身が血に染まっている。鎧は何ヶ所も割れていた。
だがその周りには、魔物の灰が山のように積もっていた。
この騎士がやったのだ。
一人で。
これだけの魔物を。
それでも、死んでいる。
カイルは少しだけ眉を上げた。
「……すげぇな」
騎士の手を見る。黒い剣を握っていた。光をほとんど反射しない刃。まるで闇を固めたみたいな色をしている。全てが灰に覆われたこの世界でも一際暗く、そして黒い。
カイルはしゃがみ込み、剣を掴んだ。騎士の手から引き抜く。
「……へぇ」
思ったより軽い。妙に手に馴染む。まるで最初から自分の武器だったみたいに。
そのときだった。
――殺せ。
声が聞こえた。頭の奥に直接響く声。同時に、強烈な感情が流れ込む。憎悪。怒り。底の見えない殺意。
誰かを殺したいという衝動。
カイルは顔をしかめた。
「……なんだよ」
頭を振る。だが不快感は残る。まるで剣の奥に、何かがいるみたいだった。
その瞬間。
足元の灰が揺れた。
カイルの目が細くなる。地面の灰が動いている。風はない。なのに、円を描くように流れている。
やがて――地面が膨らんだ。
「チッ」
カイルは舌打ちした。灰の塊が盛り上がる。その中から腕が伸びた。関節の歪んだ灰の腕。
カイルは反射的に剣を振る。
刃が腕を切り落とす。
だが――
切れた腕は崩れた。灰に戻る。そしてすぐに、また盛り上がる。同じ場所から新しい腕が生えた。
「……やっぱ無駄か」
カイルは剣を下ろした。灰から生まれる魔物は、最初はまだ形になりきっていない。この状態で何度斬っても、灰に戻って作り直されるだけだ。
カイルはそれを何度も試していた。そして、そのたびに無意味だと理解している。完全に地面から抜け出し、形が固まるまで待つしかない。
カイルは大きく後ろへ飛び退いた。灰がさらに膨らむ。腕。肩。胸。灰が崩れながら体の形が作られていく。
そのときだった。
別の場所の灰も動いた。
「……は?」
もう一つ。さらにもう一つ。灰の山が三つ、同時に盛り上がる。
カイルは舌打ちした。
「最悪だな」
三体同時だ。逃げるか。そう思った瞬間だった。
最初の魔物の体が地面から抜け出る。肩。頭。完全に地面から引き抜かれる。
その瞬間。
魔物の動きが一瞬止まった。
カイルの目が鋭くなる。
「……今だ」
カイルは地面を蹴った。黒い剣を振る。刃が走る。
次の瞬間。
魔物の首が落ちた。
灰が崩れる。その灰が――動いた。地面に落ちる前に、黒い剣へ吸い寄せられる。
刃に触れた灰が、音もなく消えた。まるで飲み込まれているみたいに。
カイルは眉をひそめた。
「……なんだこれ」
剣を見る。黒い刃。底の見えない闇みたいな色。その奥が、ほんのわずかに脈打った気がした。
そのとき、頭の奥でまた声がした。
――もっと。
カイルは小さく笑った。
「……変な剣だな」
剣を構える。残りの魔物が、ちょうど地面から抜け出るところだった。
カイルは黒い剣を見た。さっき魔物の灰を吸い込んだ刃。普通の剣じゃない。
「……売れねぇな、これは」
カイルは小さく笑った。こんなもの、街に持っていけば面倒に巻き込まれる。
だが――
「まあいい」
カイルは剣を肩に担いだ。
「強い武器があれば、もう少し長く生きられる」
そのときだった。
黒い剣が、わずかに震える。
カイルは眉をひそめる。
「……?」
刃の奥で、何かが脈打った。
さっき吸い込んだ灰が、剣の中で渦を巻いているように見えた。
次の瞬間。
――もっと。
声がした。
さっきよりも、はっきりと。
頭の奥で、低く、粘つくような声が響く。
――もっと殺せ。
カイルはしばらく剣を見つめていた。
それから、小さく鼻で笑う。
「……うるせぇな」
剣を握り直す。
手の中で、妙にしっくりくる。
まるでこの剣が、自分の手の形を覚えているみたいに。
カイルは廃墟の外へ歩き出した。
灰が、静かに降っている。
十年前から、ずっと。
そして今日、カイルは一本の剣を拾った。
その剣の名を、彼はまだ知らない。
それが――
この世界で最も多くの命を奪う魔剣になることも。
灰は、今日も静かに降り続けていた。
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