第9話
皇帝陛下による衝撃の正体バレと、盛大な歓迎式典を終えた私は、さっそく「職場」へと案内されることになった。
「ここだ」
ディートリヒさんが重厚な扉を指差す。
皇城の西棟にある、内政を取り仕切る『文官棟』だ。
外観は立派だ。黒曜石の柱に、黄金の装飾。
さぞかしエリート官僚たちが、優雅かつ効率的に仕事をしているのだろう――。
そう思っていた時期が、私にもありました。
ガチャリ。
扉が開かれた瞬間、そこから溢れ出してきたのは、腐ったインクの匂いと、男たちの悲鳴にも似た溜息だった。
「ひぃぃ……予算が合わない……」
「助けてくれ、この申請書はどこの部署の管轄だ……」
「もう三日寝てない……家に帰りたい……」
目の前に広がっていたのは、地獄絵図だった。
広いフロアには、天井まで届きそうな書類の塔が乱立している。
その隙間を、目の下にクマを作ったゾンビのような文官たちが、よろよろと徘徊していた。
「…………」
私は無言で扉を閉めようとした。
「待てアディ。見捨てないでくれ」
ディートリヒさんがガシッと私の手首を掴む。
「これが我が帝国の現状だ。軍事面では大陸最強を誇るが、内政面――特に事務処理能力においては、悲しいほど未熟でな」
彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「俺が即位してから領土が急拡大したせいで、物流や税収の管理システムが追いついていないのだ。現場の人間は優秀なんだが、『剣の振り方』は知っていても『ペンの持ち方』を知らない者が多くてな」
なるほど。
脳筋国家ということか。
「……それで、私にこのゴミ屋敷を掃除しろと?」
「掃除ではない。改革だ」
ディートリヒさんは真剣な眼差しで私を見た。
「この国には『脳』が足りない。君のその怜悧な頭脳で、この混乱を鎮めてほしい。……頼めるか?」
皇帝陛下に頭を下げられては、断れるはずもない。
それに。
(……うずくわ)
私は目の前の書類の山を見た。
乱雑に積み上げられた未決裁の箱。分類されていない請求書。
これらを綺麗に片付け、整然としたシステムに作り変えた時の快感を想像すると――正直、少し興奮してしまう。
悲しき社畜の性だ。
「……はぁ。わかりました」
私はため息をつきつつ、腕まくりをした。
「ただし、私のやり方に口出しは無用ですよ。たとえ相手が宰相だろうと将軍だろうと、非効率な人間は容赦なく切り捨てます」
「望むところだ。俺の名前を使って好きに暴れろ」
言質は取った。
私はカツカツとヒールの音を響かせて、ゾンビの群れの中へと歩み出した。
「注目!」
私が手を叩くと、死んだ魚のような目をした文官たちが、のろのろと顔を上げた。
「だ、誰だ……? 迷子か……?」
「今日からこの部署の指揮を執る、アデーレです。今からこの部屋の『大掃除』を行います」
私は一番手近にあった書類の塔を指差した。
「まず、この書類は何ですか?」
「あ、ああ……それは『南方戦線の兵糧補給申請書』だ……」
「なぜ未処理なんですか?」
「承認印が五つ必要なんだが、三番目のハンス将軍が遠征中で、ハンコがもらえないんだ……」
見ると、羊皮紙には無駄に大きな枠が五つ並んでいた。
「馬鹿馬鹿しい。緊急時の補給にスタンプラリーをしてどうするんですか」
私はその書類をひったくると、ビリリと破り捨てた。
「ひぃぃぃッ!? な、何をするんだ!」
「事後承認で十分です。今すぐ物資を送ってください。将軍のハンコが必要なら、私が皇帝陛下のサインをもらってきます」
「えっ、へ、陛下のですか!?」
文官たちがざわめく。
私は次々と指示を飛ばした。
「そっちの山は?」
「『道路工事の予算申請』です! 形式が古いと言って財務省から突き返されて……」
「形式なんてどうでもいいです。金額と工期が合っていれば通しなさい。文句がある財務官がいたら、私の前に連れてきて。論破します」
「あっちの箱は?」
「『他国からの親書』ですが、翻訳班が手一杯で……」
「貸して。私が読みます」
私は箱の中から数通を抜き出し、パラパラと目を通した。
「これは社交辞令の挨拶状。返信不要。これは貿易の提案、重要度・低。……こっちは国境付近の不審な動きに関する密告状、重要度・高! これだけ陛下の執務室へ! 残りはシュレッダーへ!」
私の指示が飛ぶたびに、書類の山が物理的に消滅していく。
最初は呆然としていた文官たちの目に、次第に光が宿り始めた。
「す、すげぇ……」
「判断が速い……! これなら終わるぞ!」
「おい、アデーレ様の指示通りに動け! 財務省への殴り込み部隊を編成しろ!」
停滞していた空気が、熱を帯びて回転し始める。
私はフロアの中央に立ち、まるで指揮者のようにタクト(羽ペン)を振るった。
「A班は決済! B班は仕分け! C班は休憩をとって、濃いコーヒーを全員分淹れてきて!」
「「「イエスマム!!」」」
野太い返事が響き渡る。
さっきまでゾンビだった彼らが、今や歴戦の戦士のような顔つきになっていた。
その様子を、入り口で腕を組んで見ていたディートリヒさんが、愉快そうに喉を鳴らした。
「……見事だ」
彼は呟き、近づいてくると、私の腰に手を回した。
「きゃっ!? へ、陛下? 仕事中ですが」
「構わん。素晴らしい指揮だった。ご褒美が必要だろう?」
彼は衆人環視の中で、私の耳元に唇を寄せた。
「君が破り捨てたあの書類の山……あれだけで、この国の作業効率は三年分進化したぞ」
「……大袈裟です。ただの整理整頓ですから」
「謙遜するな。君は俺の選んだ『最高の女』だ」
彼が指先で私の顎を持ち上げる。
周囲の文官たちが「おぉ……」「陛下があんな顔を……」と顔を赤らめて見守っているのが視界の端に見えた。
恥ずかしい。
仕事モードの時は平気だが、急に恋愛モードに切り替えられると心臓に悪い。
「こ、公私混同は禁止です!」
「俺が法だ。文句があるなら書面で提出しろ。……もっとも、その書類を審査するのは君だがな」
彼は楽しそうに笑うと、私の頬にちゅっと音を立ててキスをした。
「頑張れよ、俺の可愛い宰相殿。夜には最高級のディナーと、極上のマッサージを用意して待っている」
彼はそう言い残し、颯爽と去っていった。
残されたのは、真っ赤になった私と、ニヤニヤと生温かい視線を送ってくる部下たちだけ。
「……み、見世物じゃありませんよ! 仕事に戻る!」
「「「はーい!」」」
こうして、私の帝都での一日目は、怒涛の勢いで過ぎていった。
しかし不思議と、疲れはなかった。
祖国ではあれほど苦痛だった書類仕事が、ここではパズルのピースがハマるように気持ちよく進む。
(……悪くないかも)
正当に評価され、必要とされ、そして(過剰に)愛される職場。
私は積み上がった書類の山を見上げて、不敵に笑った。
さあ、残業の時間だ。
この国の膿を、一滴残らず絞り出してやるわ。




