第8話
ルグニカ温泉郷を出発してから二日。
私たちを乗せた黒塗りの高級馬車は、グランツ帝国の心臓部――帝都『グラン・ロディス』を目指して街道をひた走っていた。
「……すごい」
私は窓に張り付くようにして、眼下に広がる光景を見つめていた。
峠を越えた先に現れたのは、想像を絶する巨大都市だった。
祖国の王都が「箱庭」だとしたら、ここは「平原そのもの」だ。
地平線まで続く石造りの街並み。幾重にも張り巡らされた城壁。空には小型の飛空船が行き交い、地上には魔導蒸気機関車が煙を上げて走っている。
何もかもが規格外。大陸一の軍事大国にして経済大国の首都の威容が、そこにあった。
「気に入ったか、アディ」
向かいの席で、ディートさんが満足げに微笑んだ。
彼はこの二日間、馬車の中で溜まっていた書類仕事を片付けていたが、帝都が見えた途端にペンを置いた。
「ええ。活気があって、合理的で……美しい街ですね」
「だろう? 俺が設計した都市計画に基づいているからな」
「へぇ……って、え?」
私は思わず聞き返した。
都市計画を設計した? 一介の傭兵が?
「ああ、いや、俺の雇い主の『皇帝陛下』が、だ。俺はその手伝いをしただけだ」
彼はわざとらしく咳払いをした。
「ところでアディ。これから君が働く職場――俺の事務所だが、少しばかり問題があってな」
「問題、ですか?」
「うむ。前任の事務員が逃げ出して以来、書類の整理が追いついていない。特に『財務』と『人事』の連携が取れておらず、給与の支払いや経費精算が滞っている状態だ」
私は眉をひそめた。
財務と人事の連携不備。それは組織が腐敗する典型的な前兆だ。
「……原因は?」
「縦割り行政の弊害だな。財務担当は『規定通りの申請書じゃないと金は出さん』の一点張りで、人事担当は『現場の状況に合わせて柔軟に対応しろ』と反発する。その板挟みで、中間管理職が次々と胃潰瘍で倒れていく」
「最悪ですね」
私は即答した。
脳裏に、祖国の王城での日々が過ぎる。ギルベルト殿下の無茶振りと、硬直した官僚組織との板挟みになっていた、あの地獄の日々が。
「改善案は?」
「あります。三つ」
私は指を立てた。職業病スイッチが入ると、相手が誰であろうと口が止まらなくなる。
「一つ。申請書の統一フォーマットを作成し、必須項目を最小限に絞ること。二つ。少額の経費精算は現場の長の決裁で可能にし、事後報告で済ませること。三つ――」
私はディートさんの目を真っ直ぐに見て言った。
「その財務担当と人事担当の責任者を、一度同じ部屋に閉じ込めて、話し合いが決着するまで水しか与えないこと。……私が以前、頑固な大臣たちを黙らせた方法です」
「……くくっ、はははは!」
ディートさんは膝を叩いて大爆笑した。
「素晴らしい! 特に三つ目が気に入った。採用だ」
「えっ、本当にやるんですか? ただの冗談ですけど」
「いや、やる。君が指揮を執れ。必要な権限はすべて与える」
彼の瞳が、肉食獣のように爛々と輝いている。
まずい。この人、本気だ。
私は自分が掘った墓穴の深さに戦慄した。給与十倍の対価は、想像以上に重いかもしれない。
◇ ◇ ◇
馬車は帝都の巨大な城門を、ノーチェックで通過した。
御者台の執事さんが何かを見せただけで、強面の衛兵たちが直立不動で最敬礼したのだ。
「……あの、ディートさん。私たち、どこに向かっているんですか?」
私は窓の外の景色を見て不安になった。
馬車は賑やかな大通りを抜け、街の中心部――小高い丘の上に聳え立つ、巨大な城郭都市の入り口へと向かっている。
黒曜石で作られたような、威圧的で荘厳な城。
その頂上には、帝国の国旗である『双頭の鷲』の紋章が翻っている。
「えっと、もしかして、貴方の事務所って……」
「ああ。セキュリティは万全だ。安心してくれ」
「そうじゃなくて!」
馬車は跳ね橋を渡り、幾重もの門をくぐり抜け、広大な石畳の中庭に滑り込んだ。
そこには、数百人の兵士と、煌びやかな衣装をまとった官僚たちが整列して待ち構えていた。
馬車が止まる。
同時に、数百人の視線が一斉にこちらに向けられる。
「到着だ」
ディートさんは何食わぬ顔で立ち上がり、扉を開けた。
瞬間。
「――皇帝陛下、万歳!!」
地鳴りのような歓声と、一斉に膝をつく音(ザッ!)が響き渡った。
全員が、馬車から降りてくる男に向かって、これ以上ない臣下の礼をとっている。
「……へ?」
私はソファに座ったまま、石のように固まった。
今、なんて言った?
皇帝、陛下?
ディートさんは優雅に馬車を降りると、振り返って私に手を差し出した。
「さあ、降りてこいアディ。ここが君の新しい職場、帝国の皇城だ」
「…………はい?」
思考が追いつかない。
ディートさん。傭兵。お金持ち。仕事が速い。偉そう。
皇帝陛下。
「まさか、貴方……」
「ん? ああ、すまない。名乗るのが遅れたな」
彼はニヤリと笑った。それは、獲物を完全に罠に嵌めた狩人の笑顔だった。
「俺の名はディートリヒ・フォン・グランツ。このグランツ帝国の皇帝だ」
「…………」
時が止まった。
私の脳内で、彼とのこれまでの会話が走馬灯のように駆け巡る。
――『俺はディートと名乗ろう。しがない旅の傭兵だ』
――『俺の雇い主の代官の首を飛ばさずに済んだ』
――『給与は十倍を約束しよう』
「……嘘つき」
「嘘ではない。『ディート』は愛称だし、国を守って戦うという意味では傭兵のようなものだ。代官(部下)の首もかかっていたし、給与も俺のポケットマネー(国庫)から出る」
彼は悪びれもせず、屁理屈を並べ立てた。
「さあ、手を取れ。我が帝国の最高指導者補佐官殿。君の歓迎式典が待っているぞ」
「えっ、式典!? ちょっと待ってください、心の準備が!」
「必要ない。君はただ、俺の隣で笑っていればいい」
彼は強引に私の手を取り、馬車から引きずり出した。
まばゆい太陽の光。
数百人の視線。
そして、隣にはドヤ顔の皇帝陛下。
「あ、あはは……」
私は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
夢の無職生活は、温泉の湯気と共に完全に消え去った。
これから始まるのは、ブラックな祖国の王城よりもさらにスケールが大きく、さらに責任重大で、そして何より――この危険すぎる皇帝陛下に昼夜問わず溺愛される、波乱万丈な日々。
私は遠い目をして、祖国の方角を見た。
ギルベルト殿下。ミナ様。
あなたたちの元を去った私が、まさかこんなことになるなんて。
(……とりあえず、有給休暇の残りは買い取ってもらおう。絶対に)
私は心の中で固く誓い、皇帝のエスコートを受けてレッドカーペットの上を歩き出したのだった。




