第7話
チュン、チュン、チュン。
爽やかな小鳥のさえずりで、私は目を覚ました。
窓から差し込む朝日は柔らかく、高原の涼しい風が部屋の中を通り抜けていく。
昨夜、額に受けた熱い口づけの余韻で、なかなか寝付けなかった――なんてこともなく。私は驚くほどぐっすりと眠っていた。
やはり温泉の効能だろうか。それとも、久しぶりにフカフカの高級布団で寝たからだろうか。
「……よく寝た」
私は大きく伸びをした。
体の節々の凝りが取れ、魔力も完全に回復している。コンディションは最高だ。
隣の寝室を見る。扉は少し開いており、中はもぬけの殻だった。
ディートさんの姿はない。もう起きたのだろうか。
「さて、朝風呂にでも行こうかしら」
私は浴衣から、昨日街で買った動きやすい平民服に着替えた。
部屋を出て、一階のロビーへと向かう階段を降りる。
その時だった。
「――ええい、離せ! 無礼者! 私が誰だと思っている!」
「往生際が悪いぞ! 証拠は全て揃っているんだ!」
ロビーから、男たちの怒号が聞こえてきた。
何事だろう。
階段の踊り場から下を覗き込むと、そこは黒山の人だかりになっていた。
宿泊客や従業員たちが遠巻きに見つめる中心で、数人の男たちが、帝国の憲兵たちに取り押さえられ、床に這いつくばっていた。
(……あ)
私は見覚えのある後ろ姿に気づいた。
昨夜、露天風呂の竹垣の向こうで密談していた、あの悪代官と建設業者だ。
彼らは浴衣姿のまま、後ろ手に縛り上げられている。
「な、何かの間違いだ! 私は何も知らん!」
「証拠だと!? そんなもの、どこにある!」
代官が顔を真っ赤にして喚き散らす。
すると、憲兵隊長らしき男が、冷ややかな目で一枚の紙を突きつけた。
「とぼけるな。お前たちの部屋から、この『裏帳簿』と、業者からの『賄賂の受領書』が見つかったんだ。言い逃れできると思うなよ」
「ば、馬鹿な! それは金庫に入れて、鍵は私が肌身離さず……!」
代官が絶句する。
そう。普通なら、そんな重要証拠が簡単に見つかるはずがない。
誰かが――それこそ、超一流の密偵か魔法使いが、彼らが寝ている間に忍び込み、金庫を解錠して盗み出さない限りは。
私は背筋が寒くなった。
誰の仕業か、考えるまでもない。
「おはよう、アディ。昨夜はよく眠れたか?」
背後から、涼やかな声がかけられた。
振り返ると、そこには完璧に身支度を整えたディートさんが立っていた。
上質なシャツに、仕立ての良いベスト。黒髪は綺麗に整えられ、朝の光の中で輝くような美貌を振りまいている。
「……おはようございます、ディートさん」
「どうした? そんなに怯えた顔をして」
「怯えてなんかいません。ただ……」
私はロビーの惨状を指差した。
「あれは、一体?」
「ん? ああ、あれか」
彼はまるで、道端の小石でも見るような無関心な目で、連行されていく代官たちを一瞥した。
「朝起きたら、彼らの部屋の前に、なぜか裏帳簿の束が山積みされていたらしい。親切な誰かが、彼らの忘れ物を届けてくれたんじゃないか?」
嘘だ。
絶対に嘘だ。
「親切な誰か」が、一晩で彼らの身辺調査を行い、金庫を開け、決定的な証拠を揃えて憲兵に突き出すなんてことが、あるわけがない。
「……貴方がやったんですね」
「俺は何もしていないぞ。ただ、昨夜少しだけ『寝付きが悪かった』ので、部下に小言を言っただけだ」
彼は悪びれもせず肩をすくめた。
「『俺の連れが、虫の羽音のせいで安眠できないようだ。どうにかしろ』とな」
虫。
彼にとって、あの代官たちは羽虫程度の存在だったということか。
私は改めて、この男の底知れなさに戦慄した。
傭兵? ありえない。
これだけのことを、一晩で、しかも顔色ひとつ変えずにやってのける権力と実行力を持った人間。それはもう、帝国のトップクラス――下手をすれば皇族レベルの人間しかいない。
「……怖くなったか?」
ディートさんが覗き込むように私の顔を見た。
その赤い瞳が、私の心の奥底まで見透かそうとしている。
「いえ」
私は首を横に振った。
怖い。確かに怖い。
でも、それ以上に、私の胸の中で奇妙な感情が渦巻いていた。
「……仕事が、速いですね」
「え?」
「不正の発覚から証拠の確保、身柄の拘束まで、わずか半日。完璧な手際です。無駄が一切ない」
そう。
元社畜として、実務家として。私はこの男の「仕事の速さ」に、不覚にも感動してしまったのだ。
もしこれが祖国の王城だったら、どうなっていただろう。
まず調査委員会の立ち上げに一週間。
関係各所への根回しに二週間。
そして、ギルベルト殿下が「面倒くさい」と言って決裁をサボるせいで、さらに一ヶ月が過ぎる。その間に証拠は隠滅され、うやむやになって終わるのがオチだ。
(それに比べて、この人は……)
私の呟きを聞いて、ディートさんはポカンとした後、声を上げて笑い出した。
「くくっ、ははは! 君は本当に面白いな!」
「な、何がおかしいんですか」
「いや、普通の令嬢なら『残酷だ』とか『怖い』とか言って泣き出すところだ。それを君は『仕事が速い』と褒めるのか」
彼は愛おしそうに私の頭を撫でた。
大きな手のひらの温もりに、胸がトクンと跳ねる。
「やはり、君は俺の国に必要な人材だ。ますます手放せなくなった」
「……人材として、ですか?」
「さあな。それも含めて、君が決めればいい」
彼は私の手を取り、エスコートするようにロビーへと降りていった。
連行される代官たちとすれ違う。彼らはディートさんの顔を見た瞬間、幽霊でも見たかのように真っ青になり、ガタガタと震え出した。
(……やっぱり、顔見知りなんだ)
私は確信した。この男、絶対に堅気じゃない。
◇ ◇ ◇
騒動が落ち着いた後、私たちは旅館の食堂で朝食をとった。
焼きたての川魚に、山菜の味噌汁。そして炊きたての白いご飯。
純和風の朝食は、日本人の前世を持たない私にとっても、なぜか懐かしく、体に染み渡る美味しさだった。
「ん〜っ、幸せ……」
私はご飯をおかわりした。これで三杯目だ。
昨日の夕食も完璧だったが、朝食も素晴らしい。この旅館を選んで正解だった。
「よく食べるな。見ていて気持ちがいい」
「無職は体が資本ですから。それに、憂いがなくなりましたからね」
私が言うと、ディートさんが満足げに頷いた。
「そうか。では、約束通り報酬をもらおうか」
「へ?」
私が茶碗を持ったまま固まると、彼はナプキンで口元を拭い、真剣な表情で言った。
「君の夏休みは、これで終わりだ」
「は、はい?」
「俺が君の憂いを排除した。次は、君が俺の憂いを排除する番だ」
嫌な予感がした。
背筋に冷たいものが走る。
「……貴方の憂いとは、何でしょうか」
「帝都だ」
「帝都?」
「ああ。俺の本拠地である帝都が今、書類の山に埋もれて機能不全に陥りかけている。無能な部下たちが、俺の帰りを泣きながら待っている状態でな」
それはまるで、どこかの国で聞いたような話だった。
デジャヴだ。強烈なデジャヴを感じる。
「まさか、とは思いますが」
私は恐る恐る尋ねた。
「私に、その書類を片付けろと?」
「ご名答。君には俺の『補佐官』として、帝都に来てもらう」
彼は右手を差し出した。
それはプロポーズのようにも、悪魔の契約書のようにも見えた。
「拒否権は?」
「ない。君はすでに、俺の最高級馬車での送迎と、最高級旅館での宿泊、そしてこの美味しい朝食という『対価』を受け取っている。契約は成立済みだ」
「詐欺だ! そんな契約書にサインした覚えはありません!」
「口約束も立派な契約だ。帝国法第108条にもそう書いてある」
この男、法律まで持ち出してきた。
私は頭を抱えた。
逃げられない。温泉で癒やされたばかりの私の体が、再び激務の予感に震え始めている。
「さあ、行こうかアディ。馬車の用意はできている」
「……悪魔」
「最高の褒め言葉だ。安心してくれ、給与は弾む。君の前の職場の十倍は約束しよう」
「じゅっ……!?」
十倍。
その言葉に、私の社畜魂が悲しいほど激しく反応してしまった。
こうして、私の「温泉でのんびり無職生活」は、たった一晩で幕を閉じた。
次に私が向かうのは、大陸最大の都市・帝都。
そこで私は、この危険な男の正体を知り、そして祖国を揺るがす大事件へと巻き込まれていくことになるのだが――。
とりあえず今は、目の前の美味しいご飯を完食することだけに集中しようと心に決めたのだった。




