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【完結】『悪役令嬢の辞表 〜10年間「誰にでもできる」と言われていた実務を全て捨てたら、国が傾いたようですが知りません〜』  作者:
第1章 決別と出会い

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第6話

 夕暮れ時。

 私たちの乗った黒塗りの高級馬車は、グランツ帝国の山間にある『ルグニカ温泉郷』に到着した。


 そこは、まさに地上の楽園だった。

 険しい山々から湧き出る白濁した湯が、川となって温泉街の中心を流れている。

 立ち並ぶ宿はどれも歴史を感じさせる木造建築で、軒先には赤い提灯が揺れていた。硫黄の匂いと、甘い温泉饅頭の香りが鼻をくすぐる。


「……着いた」


 私は馬車の窓からその光景を見て、思わず感嘆の声を漏らした。

 夢にまで見た温泉地。

 ガイドブックの挿絵でしか見たことのなかった景色が、今目の前にある。


「気に入ったか、アディ」

「はい、最高です! 一生ここに住みたいくらいです」


 私が目を輝かせると、向かいの席のディートさんが意味深に笑った。


「そうか。なら、ずっと住まわせてやってもいいぞ」

「結構です。家賃が高そうなので」


 私は即答して視線を逸らした。

 この男の言う「住まわせてやる」は、文字通りの意味ではない気がするからだ。


 馬車は、温泉街の中でも一際大きな、老舗の高級旅館『銀の月』の前に停まった。

 どうやらここが今夜の宿らしい。


「お待ちしておりました、ディート様」


 出迎えたのは、旅館の女将と従業員たちだ。彼らはディートさんの顔を見るなり、最上級の敬礼――帝国式の、右手を左胸に当てるポーズ――をとった。

 ……ただの傭兵に対する態度じゃない。

 やはり、この男はタダモノではない。十中八九、高位貴族か何かなのだろう。


「部屋は手配通りか?」

「はい。最上階の特別室『離れ』をご用意しております」

「うむ。案内しろ」


 ディートさんは慣れた様子で歩き出す。

 私も慌てて荷物を持って続こうとしたが、ふと疑問が湧いた。


「あの、私の部屋は?」

「同じだ」

「はい?」


 私は足を止めた。

 今、なんて言った?


「同じだと言ったんだ。あの『離れ』は、この宿で最も警備が堅固な場所だ。護衛対象である君を一人にするわけにはいかない」

「ご、護衛対象!? いつ私がそんな依頼をしましたか!」

「俺が勝手に決めた。君はAランク魔物に狙われるほどの重要人物(俺にとって)だからな」


 ディートさんは悪びれもせず言い放った。


「安心しろ。寝室は二つある。鍵もかかる。それとも、俺に襲われるのが心配か?」

「……心配に決まっています」

「ははは! 光栄だな。だが、俺は同意のない女性に手を出す趣味はない。それとも、君の方から俺を襲いたくなるほど、俺がいい男に見えるか?」


 彼は顔を近づけ、整いすぎた美貌でウィンクしてみせた。

 悔しいけれど、心臓がトクンと跳ねた。

 この男、自分の顔面偏差値の暴力を自覚して使っている。たちが悪い。


「……自意識過剰です。寝室には鍵をかけさせていただきますからね!」


 私はプイと顔を背けて、先に廊下を歩き出した。

 背後で、彼が楽しそうに笑う声が聞こえた。


   ◇ ◇ ◇


 部屋に通された後、私はすぐに大浴場へと向かった。

 ディートさんとの攻防で疲れた精神を癒やすには、温泉しかない。


 脱衣所で服を脱ぎ、掛け湯をしてから、露天風呂へと足を踏み入れる。

 そこには、岩組みの広い湯船と、眼下に広がる渓谷の絶景があった。


「はぁぁ……生き返る……」


 お湯に肩まで浸かった瞬間、思わず声が漏れた。

 熱めのお湯が、強張っていた筋肉をほぐしていく。

 

 十年間。

 本当に、長かった。

 毎朝四時起きで、冷え切った執務室でペンを握り続けていた日々。

 ギルベルト殿下の理不尽な要求に耐え、ミナ様の無邪気な悪意を受け流し、心を殺して働いていた私。


 その全てが、このお湯の中に溶けていくようだ。


(……でも)


 ふと、寂しさがよぎる。

 仕事がなくなった今、私には何が残っているんだろう。

 ただの無職のアデーレ。

 誰からも必要とされず、誰の役にも立たない私。


「……いやいや、感傷に浸ってどうするの!」


 私はブンブンと首を振った。

 今は自由なのだ。この自由を謳歌しなくてどうする。


 私は手ぬぐいを頭に乗せ、岩場に寄りかかって目を閉じた。

 その時だった。


「――で、例の件はどうなっている?」

「へへっ、上手くいっておりますよ。ダム建設の予算から三割ほど中抜きしましたが、誰も気づいちゃいません」


 男たちの話し声が聞こえてきた。

 男湯と女湯を仕切る竹垣の向こう側からだ。


(……え?)


 私は耳を疑った。

 温泉の効能で聴覚が鋭敏になっているのか、それとも彼らの声が大きいのか。

 内容が、あまりにも不穏すぎる。


「資材を安物の『脆岩フラジル・ロック』にすり替えましてね。見た目は高級石材と変わりませんが、強度は半分以下。差額は私の懐……いえいえ、代官様の隠し口座へ」

「くくく、悪よのう。だが、もし決壊したらどうする?」

「その時は『想定外の豪雨だった』と言い逃れすればいいのです。それに、この辺りの村人は無知ですから、石材の違いなんて分かりませんよ」


 ピクリ、と私のこめかみが引きつった。

 癒やされていたはずの私の脳内で、職業病スイッチが激しく明滅を始める。


 予算の中抜き。

 資材の偽装。

 安全性の無視。


 それは、実務家として最も許せない「不正のトライアングル」だった。


(……許せない)


 私のせっかくの夏休みを。

 私の至福の温泉タイムを。

 こんな胸糞悪い話で汚すなんて、万死に値する。


 私は立ち上がった。

 ザバァッ、とお湯が跳ねる。

 もう、リラックスどころではない。私の頭の中は、その不正役人をどうやって社会的に抹殺するかという計算式で埋め尽くされていた。


   ◇ ◇ ◇


 風呂から上がり、私は部屋に戻った。

 旅館が用意してくれた浴衣に袖を通す。淡い藍色に、白い撫子の花が描かれた上品な柄だ。

 帯を締め、濡れた髪をタオルで拭きながら広縁ひろえんに出る。


 そこには、先に風呂から上がっていたディートさんがいた。

 彼は窓際の椅子に座り、月見酒を楽しんでいた。


「……っ」


 私は息を呑んだ。

 彼は黒い浴衣をだらしなく着崩し、逞しい胸板が露わになっていた。

 濡れた黒髪が首筋にかかり、月明かりに照らされた横顔は、同じ人間とは思えないほど色気がある。


「おや、上がったかアディ。……よく似合っているぞ」


 彼が私に気づき、グラスを掲げた。

 その視線が、私の浴衣姿を頭のてっぺんから足の先まで、舐めるように這う。


「……ありがとうございます。貴方も、その……目の保養になります」

「はは、素直でよろしい」


 彼は笑って、向かいの椅子を勧めた。


「こっちに来て座れ。湯上がりの一杯はどうだ?」

「お酒は結構です。判断力が鈍りますから」

「なら、こっちだ」


 彼が差し出したのは、よく冷えた果実水だった。

 私はそれを受け取り、一口飲む。冷たさと甘酸っぱさが体に染み渡る。


「……それで? 何かいいことでもあったか?」

「え?」

「顔に出ているぞ。『許せない不正を見つけてしまった』という、仕事人の顔だ」


 ドキリとした。

 なぜ分かったのだろう。私は平静を装っていたはずなのに。


「……気のせいです。ただ、お湯が少し熱かっただけです」

「嘘だな。君の瞳孔が開いている。それに、指先が貧乏ゆすりをしている」


 ディートさんは立ち上がり、私の前に立った。

 大きい。

 威圧感と、それとは違う甘い香りが私を包み込む。


「言ってみろ。誰が君の機嫌を損ねた?」


 彼は長い指で、私の濡れた髪を掬い上げた。

 指先が頬に触れる。熱い。温泉のせいだけじゃない。


「……隣の男湯で、下種な話が聞こえただけです。ダム工事の予算を横領して、粗悪な資材を使っていると」

「ほう?」

「代官と癒着している業者のようでした。……放っておけば、次の大雨で下流の村は水没します」


 私は悔しさに唇を噛んだ。

 

「でも、私には関係ありません。私は帝国の人間ではありませんし、ただの無職ですから。証拠も権限もありません」

「……そうだな。君はただの無職だ」


 ディートさんの声が低くなった。

 彼は私のアゴを軽く持ち上げ、無理やり視線を合わせた。

 赤い瞳が、宝石のように妖しく輝いている。


「だが、俺は違う」

「……え?」

「俺にその情報を売れ、アディ。報酬は弾むぞ」


 彼の顔が近づく。

 鼻先が触れそうな距離。

 彼の吐息から、芳醇なワインの香りがした。


「報酬は……君が望むもの全てだ。金か? 地位か? それとも……」


 彼は私の唇を親指でなぞった。


「俺の寵愛か?」


 頭が真っ白になった。

 寵愛。

 そんな言葉、物語の中でしか聞いたことがない。

 でも、目の前の男が言うと、それは絶対的な契約の言葉のように聞こえた。


「……私が望むのは」


 私は声を絞り出した。

 ここで流されてはいけない。この男のペースに巻き込まれたら、二度と抜け出せなくなる気がする。


「私が望むのは、安眠です。……その不正役人を排除してくれれば、枕を高くして眠れますから」

「くくっ……はははは!」


 ディートさんは堪えきれないように吹き出した。


「安眠か! 色気のない願いだ。だが、そこがいい」


 彼は私の額に、ごく自然な動作で口づけを落とした。

 熱い唇の感触に、私は硬直する。


「商談成立だ。その願い、叶えてやろう」


 彼は私の耳元で囁いた。


「今夜はゆっくり眠れ、アディ。……明日の朝には、君の憂いは全て消えている」


 彼は離れていったが、私の心臓は早鐘を打ったまま止まらなかった。

 額に残る熱。

 耳に残る甘い声。


(……全然、安眠なんてできそうにないじゃない!)


 私は真っ赤になった顔を手で覆い、その場にしゃがみ込んだ。

 湯あたりしたのかもしれない。

 それとも、この危険すぎる男のフェロモンに、すっかり当てられてしまったのか。


 私の波乱の温泉旅行は、まだ始まったばかりだった。


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