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【完結】『悪役令嬢の辞表 〜10年間「誰にでもできる」と言われていた実務を全て捨てたら、国が傾いたようですが知りません〜』  作者:
第1章 決別と出会い

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第5話

「――なるほど。君は『帝都の奥座敷』と呼ばれる秘湯、ルグニカ温泉郷へ行きたいわけか」


 食堂のテーブルで、目の前の美貌の男――ディートと名乗った自称傭兵――が、ワイングラスを揺らしながら言った。


「ええ、そうです。ガイドブックによると、そこには『美肌の湯』と『肩こり解消の湯』があるそうで。長年のデスクワークで凝り固まった私の体を癒やすには、そこしかありません」


 私は岩トカゲの煮込みを完食し、食後の果実水を飲みながら答えた。

 ルグニカ温泉郷までは、ここから馬車でさらに二日かかる。

 山道が険しく、乗合馬車ではお尻が痛くなるのが確定している難所だ。


「奇遇だな」


 ディートは口の端を吊り上げて笑った。


「俺も明日、ちょうどそこへ行く予定なんだ。商談……じゃなかった、傭兵としての依頼があってな」

「へぇ、そうですか。傭兵さんも大変ですね、温泉地で魔物退治ですか?」

「まあ、そんなところだ。そこで提案なんだが、アディ。俺の馬車に乗っていかないか?」


 甘い誘惑。

 しかし、私は首を横に振った。


「お断りします。見ず知らずの男性の馬車に乗るほど、私は危機感のない女ではありませんので」

「タダでいいぞ」

「タダほど高いものはありません」

「俺の馬車は、最新式の『空気バネ(エアサスペンション)』を搭載した特注品だ。石畳の上でも、まるで雲の上のような乗り心地を保証しよう」


 ピクリ、と私の眉が反応した。

 空気バネ。

 それは帝国の魔導技術の結晶であり、王族や大貴族の馬車にしか採用されていない高級機能だ。

 あのガタガタ揺れる乗合馬車とは比較にならない快適さが約束されている。


「……さらに」


 ディートは畳み掛けるように言った。


「道中の食事は、俺専属の料理人が作るフルコースだ。もちろん、デザート付きで」

「乗ります」


 私は即答していた。

 プライド? 危機感?

 そんなもので肩こりは治らないし、お腹も膨れない。

 私は今、人生の夏休み中なのだ。楽ができるなら、悪魔の馬車にだって乗る覚悟がある。


「交渉成立だな」


 ディートは満足げに頷くと、私の空になったグラスにワインを注ぎ足した。

 その赤色の瞳が、獲物を罠にかけた狩人のように怪しく光った気がしたが、きっと気のせいだろう。


   ◇ ◇ ◇


 翌朝。

 宿の前に停まっていたのは、予想を遥かに超える代物だった。


「……あの、ディートさん? これ、本当に傭兵の馬車ですか?」


 私は目の前の物体を指差して尋ねた。

 黒塗りの車体には金色の装飾が施され、窓ガラスには防弾・防音の魔法陣が刻まれている。牽引するのは、軍馬の中でも最高級とされる四頭の黒馬だ。

 どう見ても、一国の要人が乗るレベルの装甲馬車である。


「ああ。俺は稼ぎがいいんでね」


 ディートは何食わぬ顔で答えると、恭しく扉を開けた。

 御者台に座っている初老の男性(昨日の執事服から、今日は御者服に着替えている)が、無言で深く一礼する。その所作の洗練され具合も、ただの御者ではない。


「さあ、乗ってくれ姫君プリンセス

「姫君はやめてください。鳥肌が立ちます」


 私は溜息をつきながら、差し出された手を取って馬車に乗り込んだ。

 中は広々としていて、対面式のソファはふかふかのビロード張りだった。中央には小さなテーブルがあり、すでに温かい紅茶と焼き菓子が用意されている。


(……悔しいけど、最高だわ)


 馬車が動き出す。

 信じられないほど静かだ。振動がほとんどない。これなら移動中に読書をしても酔わないだろう。

 私は持参した小説を取り出そうとして――ふと、ディートの視線を感じて手を止めた。


 彼は向かいの席で、分厚い書類の束を読んでいた。

 傭兵が書類仕事?

 まあ、経費精算とかあるのかもしれない。


「……なんだ、退屈か?」

「いえ。貴方もお仕事がおありのようですから、お構いなく」

「ふむ。実は少し困っていてな。この数字が合わないんだ」


 ディートはわざとらしく書類を一枚、テーブルの上に滑らせた。

 それは帝国南部の『穀物生産量と税収の報告書』だった。


(……これ、国家機密じゃないの?)


 私は見なかったことにしようとしたが、職業病という名の呪いがそれを許さなかった。

 ちらりと見えた数字の違和感。

 昨日、乗合馬車で商人が言っていた「今年の異常気象」の話と、この報告書の数字が噛み合っていない。


「……南部の天候不順を考慮していませんね」


 私はつい、口を開いてしまった。


「え?」

「この生産量の予測値は、平年並みの降水量を前提にしています。ですが、先月の気象データでは南部は干ばつ気味だったはず。このままだと実際の収穫量は二割減、税収もそれに応じて下方修正しないと、秋になってから予算不足で慌てることになりますよ」


 ディートの目が大きく見開かれた。

 そして次の瞬間、彼はニヤリと笑った。


「ほう……? ただの旅行者が、なぜ帝国の気象データまで知っている?」

「あ」


 しまった。誘導尋問だ。

 私は冷や汗をかきながら言い訳を探した。


「し、新聞です! 帝国の新聞に書いてありました!」

「ふーん。帝国の新聞は優秀なんだな。俺も知らなかったよ」


 ディートは楽しそうに書類を回収し、赤ペンで修正を書き込んでいく。


「ありがとう、アディ。君のおかげで、無能な代官の首を一つ飛ばさずに済みそうだ」

「……代官?」

「ああいや、雇い主の代官のことだ。俺たち傭兵の給料もそこから出ているからな」


 嘘だ。絶対嘘だ。

 この男、傭兵ごっこを楽しんでいるだけの貴族か何かじゃないでしょうね。


 私は疑いの眼差しを向けたが、彼は涼しい顔で紅茶を啜るだけだった。

 それから数時間。

 彼は巧妙な話術で、私から様々な知識を引き出そうとした。

 税制の抜け穴、街道整備の優先順位、魔導具の流通コスト。

 私は「一般常識です」とシラを切り通したが、彼の瞳が「逃がさない」と語っているのが怖かった。


   ◇ ◇ ◇


 午後になり、馬車は人里離れた山道に入った。

 両側を切り立った崖に囲まれた、薄暗い谷底の道だ。


 その時だった。

 ヒヒヒヒヒンッ!

 馬がいななき、馬車が急停止した。


「……なんだ?」

 ディートの表情から、一瞬で笑みが消えた。

 空気が凍りつくような殺気。

 

 私は窓の外を覗いた。

 前方五十メートルほどの場所に、巨大な影が立ちはだかっていた。

 岩のような皮膚に覆われた、四足歩行の巨獣。

 頭部には鋭い一本角が生えている。


「『鉄甲猪アイアン・ボア』か」


 ディートが低い声で呟いた。

 それは、突進だけで城壁をも砕くと言われるAランクの魔物だ。通常なら騎士団一個小隊で当たる相手である。


「ちっ、運が悪いな。御者、下がっていろ」

「はっ。ご武運を」


 御者の老人が手綱を引き、馬車を安全圏へと後退させる。

 ディートは腰の長剣を抜き放ち、扉を開けた。


「アディ、君は中で待っていてくれ。すぐに片付ける」

「無理です! あれは魔法耐性が高い魔物ですよ! 剣だけで挑むなんて自殺行為です!」


 私が止めようとするが、彼は聞く耳を持たず外へ出て行ってしまった。

 馬鹿なの? 死にたいの?

 せっかくの快適な旅が、ここで終わってしまうなんて冗談じゃない。


(……仕方ないわね!)


 私は舌打ちをして、彼を追って馬車を飛び出した。

 私の目的は「温泉に行くこと」。

 そのためには、この馬車の持ち主に死なれては困るのだ。


「グルルルルゥ……!」

 鉄甲猪が鼻息を荒くし、地面を蹴った。

 その巨体が、砲弾のような速度でディートに向かって突進を開始する。

 

 速い。

 しかし、ディートは逃げない。

 彼は剣を構え、真正面から迎え撃つ体勢だ。


「馬鹿! 避けなさい!」

「ふっ、この程度で避けるかよ!」


 ディートの剣が蒼い光を帯びる。魔力を纏わせた斬撃だ。

 だが、相手は鉄の皮膚を持つ猪だ。生半可な攻撃では弾かれる。


(サポートしなきゃ!)


 私は右手をかざした。

 攻撃魔法? そんな派手なものは使えない。私が使えるのは、事務処理のために特化した地味な生活魔法だけだ。

 

 ――『高速検索サーチ』。

 普段は、山のような書類の中から特定のキーワードを探すために使う魔法。

 それを、魔物の体に適用する。

 

 検索対象:『亀裂』『古傷』『装甲の薄い場所』。


 ブワンッ、と私の視界の中で、猪の左前足の付け根が赤く光った。

 

「ディートさん! 左前足の付け根! 三日前の古傷が開いています!」


 私は叫んだ。

 ディートの耳がピクリと動く。


「そこか!」


 彼は迷わず踏み込んだ。

 猪の角が彼の鼻先を掠める。その紙一重の隙間に体を滑り込ませ、彼は逆手に持った剣を、私が指摘した一点に突き立てた。


 ズプッ、という嫌な音が響く。

 硬い皮膚の隙間、柔らかい肉の部分に刃が深々と突き刺さる。


「ブモオオオオオッ!!」

 鉄甲猪が悲鳴を上げ、バランスを崩して転倒した。

 

 しかし、まだ息がある。

 暴れる巨体に、ディートが追撃を加えようとするが、猪が首を振って彼を弾き飛ばそうとする。


(動きを止めなきゃ……!)


 私は次の魔法を起動した。

 ――『固定フィックス』。

 普段は、バラバラになる書類をクリップなしで束ねたり、インク壺が倒れないように机に固定するための魔法。

 

 それを最大出力で、猪の四肢と地面に対して発動する。


「止まれぇぇぇッ!」


 見えないのりで貼り付けられたように、猪の動きが一瞬だけ完全に静止した。

 たった一秒。

 けれど、超一流の戦士にとっては永遠にも等しい時間だ。


「……上出来だ、アディ!」


 ディートが空高く跳躍した。

 重力に従って落下する勢いを乗せ、その剣が猪の眉間――唯一の急所――を垂直に貫く。


 ドスンッ!!

 地響きと共に、巨獣が沈黙した。


「ふぅ……」

 ディートが剣を引き抜き、血振るいをして鞘に納める。

 そして、汗ひとつかいていない爽やかな笑顔で振り返った。


「ナイスアシストだ。今の『固定』魔法、タイミング完璧だったぞ」

「……はぁ、はぁ……死ぬかと思いました」


 私は膝から崩れ落ちそうになった。

 久しぶりに全力で魔力を使ったせいで、目眩がする。


 ディートが駆け寄ってきて、私を支えてくれた。

 たくましい腕に抱き留められる。至近距離で見ると、悔しいことにますます顔がいい。


「君は魔法使いだったのか?」

「……いいえ。事務員です」

「事務員がAランク魔物の弱点を瞬時に見抜いて、拘束魔法を使うものか」


 彼は楽しそうに笑うと、私の顔を覗き込んだ。


「弱点看破に、行動阻害。君の魔法は派手さはないが、指揮官として戦場全体を見渡す目がある。……俺が求めていた『軍師』の才そのものだ」


 その瞳の熱量に、私は背筋がゾクリとした。

 これは、まずい。

 魔物よりも厄介な「評価」をされてしまった気がする。


「……買い被りです。あれは書類整理用の魔法を応用しただけです」

「書類整理魔法で魔物を殺せるなら、帝国軍の魔導師団は全員クビだな」


 ディートは私の体を軽々と抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこだ。


「きゃっ!? な、何するんですか!」

「疲れているだろう? 馬車まで運んでやる。英雄への報酬だ」

「歩けます! 下ろしてください!」

「断る。君は俺の命の恩人だからな。……絶対に離さん」


 最後の「絶対に離さん」という言葉が、物理的な意味以上に重く響く。

 

 私は抵抗を諦めて、彼の胸に顔を埋めた。

 彼の心音が、力強く規則正しく響いている。

 

 ああ、温泉に行きたいだけなのに。

 どうして私は、この危険な男の「お気に入りリスト」の筆頭に登録されてしまったのだろう。


 馬車に戻ると、御者の老人が目を見開いて私を迎えた。

 その視線は、もはや「ただの旅行者」を見るものではなく、「未来の皇后陛下」を見るような、恭しくも期待に満ちたものに変わっていた。


 私の安息の夏休みは、こうして音を立てて崩れ去っていくのだった。


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