第4話
国境の峠を越えて半日。
乗合馬車は、グランツ帝国の辺境都市『ヴァルグ』に到着した。
そこは、私の祖国とはまるで違う空気に包まれていた。
祖国の王都が「優雅で繊細なガラス細工」だとしたら、この帝国は「無骨で頑丈な鉄の塊」だ。
石造りの建物はどれも実用性を重視して四角く、道行く人々も背が高く、体格が良い。
女性ですら革鎧を身につけて大剣を背負っている姿が珍しくない。
まさに「武の国」グランツ帝国。
(……うん、悪くないわ)
私は宿帳に偽名を記入し、二階の客室に荷物を置いた。
窓から見下ろす街並みは活気に満ちている。
そして何より、ここには私の顔を知る者はいない。ギルベルト殿下の癇癪も、ミナ様のマウンティングも、古狸のような大臣たちの嫌味もない。
あるのは、自由だけだ。
「さて、まずは腹ごしらえね」
私はガイドブックを開いた。
この街の名物は『岩トカゲの煮込み』らしい。
名前は恐ろしいが、コラーゲンたっぷりで美容に良く、濃厚な味わいは一度食べたら病みつきになると書かれている。
私は期待に胸を膨らませて、宿の一階にある酒場兼食堂へと降りていった。
◇ ◇ ◇
「へい、らっしゃい! ……と言いたいところなんだが、悪いな嬢ちゃん。今日はもう飯がないんだ」
食堂のカウンターに座るなり、店主の親父さんが申し訳なさそうに頭をかいた。
「えっ? まだ夕方の六時ですよ?」
「ああ、わかってる。客は腹を空かせて待ってるんだが、肝心の食材が届かねぇんだよ」
親父さんは顎で店の外をしゃくった。
「隣の配送ギルドを見てみな。朝から荷馬車が大渋滞してて、荷降ろしが進んでねぇんだ。岩トカゲの肉も、新鮮な野菜も、全部あの荷馬車の中で腐りかけてらぁ」
私は窓の外を見た。
確かに、宿の隣にある配送ギルドの倉庫前には、何十台もの荷馬車が長蛇の列を作っていた。
御者たちが怒号を飛ばし、ギルドの職員たちが右往左往している。
「おい! 俺の荷物はいつ降ろせるんだ! もう三時間も待ってるぞ!」
「ああっ、そこの木箱は壊れ物です! 投げないで!」
「伝票がない? 探せよ! この山の中から!」
……酷い。
一目見ただけで、私は眉間を押さえたくなった。
効率のかけらもない。
荷降ろしの動線が確保されていないせいで、搬入と搬出の馬車が鉢合わせして立ち往生している。
優先順位のタグ付けがされていないから、急ぎの生鮮食品と、どうでもいい建築資材がごちゃ混ぜに積み上げられている。
職員たちは手元の伝票を探すのに必死で、目の前の荷物を見ていない。
(あれじゃあ、日が暮れても終わらないわね)
私はため息をついた。
でも、関係ない。私は無職だ。あそこの職員でもなければ、コンサルタントでもない。
ただの観光客だ。
「……親父さん、パンとスープくらいなら出せます?」
「おう、作り置きの豆スープならあるぜ。岩トカゲは諦めてくれな」
出されたスープを一口啜る。
薄い。
そしてぬるい。
私の脳裏に、ガイドブックの写真がよぎる。
トロトロに煮込まれた岩トカゲの肉。濃厚なデミグラスソース。湯気を立てる焼きたてのパン。
それが、あそこにある荷馬車の中には入っているのだ。
あと数メートル、動線を変えるだけで届くのに。
ガタンッ!
外で大きな音がした。
どうやら、無理に馬車を通そうとして、荷崩れを起こしたらしい。
「ああもう! 何やってんだあの馬鹿どもは!」
「おい、誰か指揮官はいないのか!?」
現場の混乱は頂点に達していた。
その光景を見た瞬間、私の右手が勝手に動いていた。
カタリ、とスプーンを置く。
気がつけば、私は席を立っていた。
(……違うのよ。私は働きたいわけじゃないの)
自分に言い聞かせながら、私は早足で店を出た。
(ただ、美味しいご飯が食べたいだけ。これは食欲という正当な権利の行使よ!)
私は配送ギルドの敷地に足を踏み入れた。
怒号が飛び交う中、私は一番偉そうな――そして一番パニックになっている――現場監督らしき男の元へと歩み寄った。
「ちょっと、そこの貴方」
「あぁ!? なんだ嬢ちゃん、今は忙しいんだ、邪魔すんじゃ……」
「この状況を十分で解決します。私に指揮権を貸しなさい」
私の声は、決して大きくはなかった。
けれど、戦場のど真ん中で指揮官が発するような、絶対的な「圧」を含んでいた。
男が思わず口をつぐむ。
「……は?」
「聞こえませんでしたか? 十分です。それ以上は私の夕食が冷めてしまうので」
私は男の手から、配送伝票の束と、羽ペンをひったくった。
パラパラと一瞬で中身を確認する。
なるほど、エリアごとの仕分けコードが統一されていない。これでは新人が迷うのも当然だ。
私は近くにあった木箱の上に飛び乗った。
そして、よく通る声で叫んだ。
「総員、作業中断! 私の指示に従いなさい!」
現場の空気が止まった。
全員が「なんだこの小娘は」という顔で私を見上げる。
「A班、荷降ろしを中止。今すぐ倉庫の西側の扉を開放して!」
「は、はい?」
「『はい』は一度! 西側を搬出専用にします! 空になった馬車はそこから出して! 入り口で詰まっている馬車を中に入れないと循環しません!」
私の指示に、呆気に取られていた職員たちが慌てて動き出す。
西側の扉が開くと、立ち往生していた空の馬車が次々と出て行く。
それだけで、入り口の渋滞が解消され始めた。
「B班、荷物のタグを見て! 赤いタグは生鮮食品です! 最優先で一番手前のエリアに集めて! 青いタグは資材! これは後回しでいいから奥の棚へ!」
「C班、伝票の照合は後でいいわ! まずは数を数えて仮受領のサインだけして! 責任は私が持ちます!」
矢継ぎ早に指示を飛ばす。
私の頭の中には、この現場の最適なパズルが完成していた。
誰をどこに配置し、どの荷物をどう動かせば最短で終わるか。
それは、祖国の王城で毎日やっていたことの、百分の一の規模にも満たない「お遊び」だった。
何しろ、ここの人たちは私の言うことを素直に聞いてくれる。
「可愛げがない」と文句を言う王子もいなければ、「疲れた」とサボる同僚もいない。
(……楽しい)
私の指示一つで、淀んでいた物流が血液のように流れ出す。
怒号が消え、「オーライ!」「次、入ります!」という活気ある掛け声に変わっていく。
そして、約束の十分後。
倉庫の前には、整然と仕分けされた荷物の山が出来上がっていた。
「す、すげぇ……」
「三時間かかっても終わらなかったのに……」
現場監督の男が、信じられないものを見る目で私を見ていた。
私は木箱から飛び降り、パンパンとドレスの埃を払った。
「あそこの赤いタグの木箱。宿屋の『岩トカゲ肉』の発注分ね。今すぐ届けて」
「は、はいっ! 直ちに!」
私は羽ペンを男に返し、にっこりと微笑んだ。
「ご協力感謝します。おかげで美味しい夕食にありつけそうだわ」
私は何事もなかったかのように踵を返し、宿屋へと戻っていった。
背後から、職員たちからの「ありがとうございます!」という声と、拍手が聞こえてきたが、私は手をひらひらと振って応えるだけに留めた。
◇ ◇ ◇
その様子を、ギルドの二階にある執務室から見下ろしている男がいた。
豪奢な黒髪に、血のように赤い瞳。
上質な黒いコートを身に纏い、その腰には装飾の施された長剣を佩いている。
ただ立っているだけで、周囲の空気を支配するような圧倒的な存在感を持つ男だった。
「……面白い」
男は口の端を吊り上げて笑った。
その視線は、雑踏の中に消えていく小柄な少女の背中に釘付けになっていた。
「おい、見たか。今の指揮」
「はっ、鮮やかな手腕でございました」
背後に控えていた初老の執事が、恭しく答える。
「あの物流拠点は、我が国でも特に課題となっていた場所です。物量が増えすぎて、現地の処理能力が追いついていないと報告を受けておりましたが……まさか、たった十分で解消されるとは」
「ああ。俺が直々に視察に来て、テコ入れをしてやるつもりだったのだがな。俺の出番はなかったようだ」
男――グランツ帝国皇帝、ディートリヒ・フォン・グランツは、楽しげに喉を鳴らした。
「あの娘、何者だ? どこの商家の娘だ?」
「いえ、服装を見る限り、ただの旅人のようですが……」
「ただの旅人が、軍隊レベルの兵站指揮を行えるわけがないだろう」
ディートリヒの瞳が、狩人のそれに変わる。
彼は即位以来、徹底した実力主義で帝国を拡大してきた。
無能な貴族を排除し、有能であれば平民でも重用する。
そんな彼にとって、今の光景は「道端にダイヤモンドが転がっていた」のと同じ衝撃だった。
「欲しいな」
ディートリヒは短く呟いた。
「え?」
「あの才能が欲しい。俺の国にしたい」
彼は窓枠に手をかけ、身を乗り出した。
少女は今、宿屋の食堂に入っていくところだ。
「おい、降りるぞ。夕食はあの宿屋にする」
「陛下!? 護衛もつけずに市井に降りるなど……!」
「構わん。ダイヤの原石を他の誰かに拾われる前に、唾をつけておかないとな」
皇帝は悪戯っ子のような、しかし絶対零度の独占欲を秘めた笑みを浮かべた。
「それに、彼女が何を食べたがっていたか聞こえたか? 『岩トカゲの煮込み』だ。……俺の奢りで、最高級のワインも付けてやろうじゃないか」
◇ ◇ ◇
食堂に戻った私は、運ばれてきた『岩トカゲの煮込み』に舌鼓を打っていた。
「ん〜っ! 美味しい!」
口の中でほろほろと崩れるお肉。濃厚なソース。
労働の後のご飯は、どうしてこうも美味しいのだろう。
いや、私は働いていない。あくまでボランティアだ。
私が幸福感に浸りながらスプーンを動かしていると、ふと、向かいの席に影が落ちた。
「相席、いいだろうか?」
顔を上げると、そこには息を呑むような美貌の男が立っていた。
黒髪に赤目。
夜の闇を凝縮したような危険な香りと、大人の色気が漂っている。
私の元婚約者も顔だけは良かったが、この男の顔面偏差値は桁が違う。人類の奇跡だ。
「……空いている席なら他にもありますけど」
「ここがいい。君の食べっぷりがあまりに良くてな、釣られてしまった」
男は私の許可も待たずに、優雅な動作で向かいの椅子に座った。
そして、給仕に向かって指を鳴らす。
「彼女と同じものを。それと、この店で一番高い赤ワインをボトルで」
男は頬杖をつき、真っ直ぐに私の目を見つめた。
その赤い瞳に、蛇に睨まれた蛙のような居心地の悪さを感じる。けれど不思議と、恐怖はなかった。
「俺はディートと名乗ろう。しがない旅の傭兵だ」
嘘だ。
私は心の中で即座にツッコミを入れた。
その指先のタコは剣のものだけでなく、ペンのタコもある。そして何より、着ているコートの生地は最高級の魔獣の革だ。傭兵が買える値段じゃない。
「……アディです。ただの無職です」
「無職、か」
ディートと名乗った男は、面白そうに目を細めた。
「先ほどの物流ギルドでの指揮、見事だったな。あれが無職の仕事かね?」
「……見ていたんですか」
「特等席でな。君の采配は芸術的だった。どこで習った?」
探るような視線。
私はスプーンを置き、ナプキンで口元を拭った。
「前の職場で、少し雑用をしていただけです。……それより貴方、ナンパなら他を当たってください。私は今、人生の夏休み中なんです」
「夏休み?」
「ええ。食べて、寝て、温泉に入る。それ以外はしないと決めているんです」
私がきっぱりと言うと、男は肩を揺らして笑い出した。
「くくっ、ははは! そうか、夏休みか。それはいい」
彼は笑い涙を拭うと、届いたワイングラスを私に差し出した。
「だが、残念ながら君のその才能は、隠しきれずに溢れ出ているようだ。……俺の勘だが、君の夏休みはそう長くは続かない気がするぞ?」
「不吉な予言はやめてください」
「予言ではない。確信だ」
男はグラスを掲げた。
「乾杯しよう、アディ。君との出会いと、この美味いシチューに」
カチン、とグラスが触れ合う音が鳴る。
その音は、私の「自由な無職生活」の終わりの合図であり、新しい「溺愛と激務の日々」の始まりのゴングでもあった。
こうして、私は出会ってしまったのだ。
私を過労死寸前まで追い込んだ元婚約者とは正反対の、
私を過保護なまでに評価し、溺愛し、そして逃がしてくれない――帝国の若き皇帝陛下に。




