第3話
王都の東門にある乗合馬車の発着場は、朝から活気に満ちていた。
巨大な荷物を抱えた行商人、巡礼に向かう修道女、そして私のような旅行者たち。
様々な人々が行き交う雑踏の中に、私は立っていた。
身につけているのは、昨日までの豪華なドレスではない。
町娘が着るような麻のワンピースに、革のブーツ。そして頭には、日除けと顔隠しを兼ねた深めのフードを被っている。
荷物は、魔法鞄一つだけ。
これも「いつか家出をする時のために」と、こっそり裏ルートで購入しておいた高級品だ。見た目は古ぼけた肩掛け鞄だが、中には家具一式が入るほどの容量がある。
「――帝国行き、出るぞー!」
御者の太い声が響く。
私は切符を握りしめ、列に並んだ。
これから乗るのは、四頭立ての大型馬車だ。
王都を出発し、国境の峠を越え、隣国グランツ帝国の交易都市まで丸一日かけて移動する。
(ふふ、遠足みたい)
心が弾む。
これまでは「移動」といえば、窓に鉄格子がはまったような堅苦しい王家の馬車で、分刻みのスケジュールの合間を縫って移動するだけだった。
こんな風に、自分の足で地面を踏みしめ、自分の意志で行き先を決めるのは初めての経験だ。
馬車に乗り込むと、私は窓際の席を確保した。
隣に座ったのは、恰幅の良い中年の商人だった。向かいには老夫婦がいる。
皆、それぞれに旅慣れた様子で、誰も私が元公爵令嬢だとは気づいていない。
「よし、出発だ!」
鞭の音と共に、馬車がゆっくりと動き出す。
車輪が石畳を転がるゴトゴトという振動すら、今の私には心地よい揺りかごのように感じられた。
遠ざかる王都の街並み。
高くそびえる王城の尖塔が、朝日に輝いている。
(さようなら、私の十年間)
私は心の中で小さく手を振った。
あそこには、私の青春のすべてがあった。そして、そのすべてが報われなかった場所でもあった。
未練がないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に「清々しさ」が勝っていた。
馬車は順調に進み、やがて王都の城壁を抜けて街道へと出た。
広がるのは一面の草原と、遠くに見える山脈。
私はフードを少しだけ上げて、流れてくる風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……あー、くそっ! また計算が合わない!」
静かな旅の情緒を破ったのは、隣に座っていた商人だった。
彼は膝の上に分厚い帳簿を広げ、頭を抱えている。
「おいおい、どうしたんだい旦那」
「いやね、今回仕入れた香辛料の関税計算なんだが……どう計算しても赤字になっちまうんだよ。帝国の関税率は一律5%のはずなんだが……」
商人はブツブツと独り言を言いながら、何度も羽ペンを走らせている。
私はなるべく関わらないように窓の外を見ていた。
しかし、私の視界の端に、どうしてもその帳簿の数字が飛び込んでくるのだ。
職業病とは恐ろしいもので、数字の羅列を見ると、脳が勝手に計算を始めてしまう。
(……あ、そこ違う)
私はムズムズとした。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
今の私はただの無職だ。余計な口出しをして、トラブルに巻き込まれるのは避けたい。
「ええと、仕入れ値が金貨100枚で、輸送費が20枚。関税が5%だから5枚……合計125枚か。売値が120枚だから……やっぱり赤字だ! くそっ、なんでだ!」
商人がバンと帳簿を叩く。
その拍子に、羽ペンが転がり落ちそうになった。
「あの」
私は気づけば、羽ペンをキャッチして彼に差し出していた。
そして、つい口が滑ってしまった。
「関税の計算、間違っていますよ」
「は? なんだ嬢ちゃん。俺はこれでも商売歴二十年だぞ。帝国の関税は昔から5%と決まってるんだ」
「それは先月までの話です。今月一日から『帝国通商条約・第十二条』の特例措置が適用されています」
私はスラスラと、先週自分が決裁したばかりの条約内容を暗唱した。
「帝国内で消費される生活必需品、特に食料や香辛料に関しては、関税が5%から一時的に免除されています。その代わり、贅沢品である宝石類には10%の重税が課されることになりました」
「えっ、免除……? 0%ってことか?」
「はい。ですから、あなたの計算式から関税の5枚を引く必要があります。そうすると、原価は120枚。売値と同じになりますが、帝国政府から輸送補助金として馬車一台につき金貨3枚が支給されますので……」
私は空中に指で計算式を描いてみせた。
「トータルで金貨3枚の黒字になりますね」
馬車の中が、しんと静まり返った。
商人はポカンと口を開けて私を見ている。向かいの老夫婦も目を丸くしている。
「じょ、嬢ちゃん……あんた何者だ? なんでそんな最新の条約を知ってるんだ?」
「えっと……」
しまった。
私は慌ててフードを目深に被り直した。
「た、ただの無職です。昔、役所で少し働いていたことがあって、その時の癖で」
「役所? いやいや、こんな細かい条文、下っ端の役人が知ってるわけねぇだろ。もしかして、王城の官僚様か?」
商人の目が怪しむように細められる。
まずい。身バレは避けたい。
「い、いえ! ただの雑用係でしたから! 書類の整理をしていただけです!」
「ふうん……ま、いいか。おかげで助かったよ! 3枚の黒字か、それなら商売になる!」
商人は豪快に笑うと、懐から干し肉を取り出して私に勧めてくれた。
「ほら、礼だ。食いな。しかし嬢ちゃんみたいな賢い子が『無職』とは、この国も世知辛いねぇ」
「……本当に、そうですね」
私は苦笑しながら干し肉を受け取った。
塩気が強くて、少し硬い。
でも、王城で食べた最高級のステーキよりも、なぜか美味しく感じられた。
(役に立つって、嬉しいな)
ギルベルト殿下に書類を渡しても、「文字が多い」と文句を言われるだけだった。
でも今は、私の知識が誰かの笑顔に繋がっている。
その単純な事実が、私の冷え切っていた心を少しずつ溶かしていくような気がした。
◇ ◇ ◇
その頃、王城の騎士団執務室。
そこは、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「捜せ! 王都中をくまなく捜せ! アデーレを見つけ出すんだ!」
第一王子ギルベルトの怒声が響き渡る。
しかし、集められた騎士たちは困惑した顔を見合わせるばかりで、誰も動こうとしない。
「おい、何をしている! 私の命令が聞こえないのか!」
「いえ、聞こえてはおりますが……」
騎士団長のバルトロメオが、ため息交じりに一歩前に出た。
「殿下。『捜せ』とおっしゃいますが、正式な『捜索願』もしくは『逮捕状』は出ておられるのですか?」
「は? そんなもの、私が口頭で命じているのだから不要だろう!」
「いえ、法治国家において、王族といえども私的な理由で軍隊を動かすことはできません。アデーレ嬢は犯罪を犯したわけでもなく、正式な手続きを経て辞職されています。彼女を連れ戻す法的根拠がないのです」
正論だった。
昨日までなら、ギルベルトが多少無理な命令を出しても、裏でアデーレが書類を偽造……もとい、超法規的措置の申請書を作成して、合法的に処理してくれていた。
だからギルベルトは知らなかったのだ。
この国には法律があり、軍隊を動かすには膨大な手続きが必要だということを。
「だ、だが! 彼女は私の婚約者で……」
「婚約破棄されたと伺っておりますが」
「ぐぬっ……! と、とにかく! 彼女が持ち出した重要書類があるかもしれない! 国家機密漏洩の疑いで捜索する!」
ギルベルトは苦し紛れに嘘をついた。
「では、その『重要書類』とは具体的に何ですか? 捜索令状に記載する必要がありますので、正式名称と管理番号を教えてください」
「えっ……」
ギルベルトは言葉に詰まった。
書類の名前など知らない。管理番号など見たこともない。
「あ、あれだ! 予算とか、条約とか、そういうやつだ!」
「『そういうやつ』では裁判所の許可は下りません」
バルトロメオ団長は冷ややかに言い放った。
「殿下。我々は王家の剣ではありますが、殿下の使い走りではありません。アデーレ嬢を捜索したいのであれば、まずはご自身で法務局に行き、所定の手続きを行ってください。書類の書き方は、そこの受付にマニュアルがありますので」
「私が!? この私が、受付に並んで書類を書けと言うのか!?」
「他に誰がやるのです? アデーレ嬢はもう、いないのですよ」
その言葉は、鋭利な刃物となってギルベルトの胸に突き刺さった。
アデーレはもう、いない。
その事実は、時間が経つごとに重くのしかかってくる。
昼食の時間になっても、食事が出てこなかった(料理長への指示書が未提出だったため)。
トイレに行こうとしたら、個室の水が流れなかった(水道局への魔力供給契約更新が昨日で切れていたため)。
愛人のミナが「新しいドレスが欲しい」とねだったが、王室御用達の商人は「アデーレ様からの発注書がないと動けません」と首を横に振った。
生活のすべてが、アデーレという基盤の上に成り立っていたのだ。
その基盤を自ら破壊したことに、ギルベルトはまだ気づいていない――いや、認めたくなかった。
「くそっ……書いてやる! 書けばいいんだろう!」
ギルベルトは羽ペンをひったくり、羊皮紙に向かった。
しかし、インクが切れている。
替えのインクがどこにあるのかも、彼は知らなかった。
「うおおおおぉぉッ!!」
情けない絶叫が、王城の廊下に虚しく響き渡る。
◇ ◇ ◇
夕暮れ時。
馬車は峠を越え、グランツ帝国の国境検問所に到着した。
厳重な警備が行われているゲートの前で、馬車が停止する。
本来なら、入国審査には厳しいチェックが必要だ。特に今は、隣国(私の祖国)との関係が微妙な時期だから尚更だ。
「次の方、パスポートを」
帝国の兵士が事務的に手を差し出す。
私は懐から、一通の書類を取り出した。
それは、私が公務の合間を縫って偽造……ではなく、正当な権限を行使して作成しておいた『最優先通行手形』だ。
王太子補佐官の印章(本物)が押されているため、法的には一切の不備がない。
「はい、こちらです」
「ん? これは……王家の特別発行書か?」
兵士は書類をまじまじと見て、それから私を二度見した。
フードで顔は見えないはずだが、その書類の効力は絶大だ。
「……失礼いたしました。どうぞ、お通りください」
兵士は敬礼をしてゲートを開けた。
ノーチェックだ。
後ろで商人が「えっ、あの嬢ちゃん何者!?」と叫んでいるのが聞こえるが、私は聞こえないフリをして馬車に戻った。
ガタゴトと、再び馬車が動き出す。
ゲートをくぐった瞬間、空気が変わった気がした。
ここから先は、グランツ帝国。
完全実力主義を掲げ、有能な皇帝ディートリヒが統治する軍事大国。
そして、私がこれからの人生を過ごす新しい舞台だ。
「……さて」
私は窓の外に広がる、見たこともない異国の風景を見つめた。
荒々しくも美しい岩山と、その向こうに広がる広大な森林。
「まずは温泉ね。そして美味しいご飯。仕事探しは、その後でいいわ」
私は大きく伸びをした。
こうして、私の無職一日目は、平和に、そして誰にも邪魔されることなく終わろうとしていた。
まさかその数日後、この帝国で皇帝陛下本人と遭遇し、再び書類の山に埋もれることになるとは、今の私はまだ知る由もなかったのである。




