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【完結】『悪役令嬢の辞表 〜10年間「誰にでもできる」と言われていた実務を全て捨てたら、国が傾いたようですが知りません〜』  作者:
第1章 決別と出会い

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第3話

 王都の東門にある乗合馬車の発着場は、朝から活気に満ちていた。


 巨大な荷物を抱えた行商人、巡礼に向かう修道女、そして私のような旅行者たち。

 様々な人々が行き交う雑踏の中に、私は立っていた。


 身につけているのは、昨日までの豪華なドレスではない。

 町娘が着るような麻のワンピースに、革のブーツ。そして頭には、日除けと顔隠しを兼ねた深めのフードを被っている。


 荷物は、魔法鞄マジックバッグ一つだけ。

 これも「いつか家出をする時のために」と、こっそり裏ルートで購入しておいた高級品だ。見た目は古ぼけた肩掛け鞄だが、中には家具一式が入るほどの容量がある。


「――帝国行き、出るぞー!」


 御者の太い声が響く。

 私は切符を握りしめ、列に並んだ。


 これから乗るのは、四頭立ての大型馬車だ。

 王都を出発し、国境の峠を越え、隣国グランツ帝国の交易都市まで丸一日かけて移動する。


(ふふ、遠足みたい)


 心が弾む。

 これまでは「移動」といえば、窓に鉄格子がはまったような堅苦しい王家の馬車で、分刻みのスケジュールの合間を縫って移動するだけだった。

 こんな風に、自分の足で地面を踏みしめ、自分の意志で行き先を決めるのは初めての経験だ。


 馬車に乗り込むと、私は窓際の席を確保した。

 隣に座ったのは、恰幅の良い中年の商人だった。向かいには老夫婦がいる。

 皆、それぞれに旅慣れた様子で、誰も私が元公爵令嬢だとは気づいていない。


「よし、出発だ!」


 鞭の音と共に、馬車がゆっくりと動き出す。

 車輪が石畳を転がるゴトゴトという振動すら、今の私には心地よい揺りかごのように感じられた。


 遠ざかる王都の街並み。

 高くそびえる王城の尖塔が、朝日に輝いている。


(さようなら、私の十年間)


 私は心の中で小さく手を振った。

 あそこには、私の青春のすべてがあった。そして、そのすべてが報われなかった場所でもあった。

 未練がないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に「清々しさ」が勝っていた。


 馬車は順調に進み、やがて王都の城壁を抜けて街道へと出た。

 広がるのは一面の草原と、遠くに見える山脈。

 私はフードを少しだけ上げて、流れてくる風を胸いっぱいに吸い込んだ。


「……あー、くそっ! また計算が合わない!」


 静かな旅の情緒を破ったのは、隣に座っていた商人だった。

 彼は膝の上に分厚い帳簿を広げ、頭を抱えている。


「おいおい、どうしたんだい旦那」

「いやね、今回仕入れた香辛料の関税計算なんだが……どう計算しても赤字になっちまうんだよ。帝国の関税率は一律5%のはずなんだが……」


 商人はブツブツと独り言を言いながら、何度も羽ペンを走らせている。


 私はなるべく関わらないように窓の外を見ていた。

 しかし、私の視界の端に、どうしてもその帳簿の数字が飛び込んでくるのだ。

 職業病とは恐ろしいもので、数字の羅列を見ると、脳が勝手に計算を始めてしまう。


(……あ、そこ違う)


 私はムズムズとした。

 喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 今の私はただの無職だ。余計な口出しをして、トラブルに巻き込まれるのは避けたい。


「ええと、仕入れ値が金貨100枚で、輸送費が20枚。関税が5%だから5枚……合計125枚か。売値が120枚だから……やっぱり赤字だ! くそっ、なんでだ!」


 商人がバンと帳簿を叩く。

 その拍子に、羽ペンが転がり落ちそうになった。


「あの」


 私は気づけば、羽ペンをキャッチして彼に差し出していた。

 そして、つい口が滑ってしまった。


「関税の計算、間違っていますよ」


「は? なんだ嬢ちゃん。俺はこれでも商売歴二十年だぞ。帝国の関税は昔から5%と決まってるんだ」

「それは先月までの話です。今月一日から『帝国通商条約・第十二条』の特例措置が適用されています」


 私はスラスラと、先週自分が決裁したばかりの条約内容を暗唱した。


「帝国内で消費される生活必需品、特に食料や香辛料に関しては、関税が5%から一時的に免除されています。その代わり、贅沢品である宝石類には10%の重税が課されることになりました」

「えっ、免除……? 0%ってことか?」

「はい。ですから、あなたの計算式から関税の5枚を引く必要があります。そうすると、原価は120枚。売値と同じになりますが、帝国政府から輸送補助金として馬車一台につき金貨3枚が支給されますので……」


 私は空中に指で計算式を描いてみせた。


「トータルで金貨3枚の黒字になりますね」


 馬車の中が、しんと静まり返った。

 商人はポカンと口を開けて私を見ている。向かいの老夫婦も目を丸くしている。


「じょ、嬢ちゃん……あんた何者だ? なんでそんな最新の条約を知ってるんだ?」

「えっと……」


 しまった。

 私は慌ててフードを目深に被り直した。


「た、ただの無職です。昔、役所で少し働いていたことがあって、その時の癖で」

「役所? いやいや、こんな細かい条文、下っ端の役人が知ってるわけねぇだろ。もしかして、王城の官僚様か?」


 商人の目が怪しむように細められる。

 まずい。身バレは避けたい。


「い、いえ! ただの雑用係でしたから! 書類の整理をしていただけです!」

「ふうん……ま、いいか。おかげで助かったよ! 3枚の黒字か、それなら商売になる!」


 商人は豪快に笑うと、懐から干し肉を取り出して私に勧めてくれた。

 

「ほら、礼だ。食いな。しかし嬢ちゃんみたいな賢い子が『無職』とは、この国も世知辛いねぇ」

「……本当に、そうですね」


 私は苦笑しながら干し肉を受け取った。

 塩気が強くて、少し硬い。

 でも、王城で食べた最高級のステーキよりも、なぜか美味しく感じられた。


(役に立つって、嬉しいな)


 ギルベルト殿下に書類を渡しても、「文字が多い」と文句を言われるだけだった。

 でも今は、私の知識が誰かの笑顔に繋がっている。

 その単純な事実が、私の冷え切っていた心を少しずつ溶かしていくような気がした。


   ◇ ◇ ◇


 その頃、王城の騎士団執務室。

 そこは、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。


「捜せ! 王都中をくまなく捜せ! アデーレを見つけ出すんだ!」


 第一王子ギルベルトの怒声が響き渡る。

 しかし、集められた騎士たちは困惑した顔を見合わせるばかりで、誰も動こうとしない。


「おい、何をしている! 私の命令が聞こえないのか!」

「いえ、聞こえてはおりますが……」


 騎士団長のバルトロメオが、ため息交じりに一歩前に出た。


「殿下。『捜せ』とおっしゃいますが、正式な『捜索願』もしくは『逮捕状』は出ておられるのですか?」

「は? そんなもの、私が口頭で命じているのだから不要だろう!」

「いえ、法治国家において、王族といえども私的な理由で軍隊を動かすことはできません。アデーレ嬢は犯罪を犯したわけでもなく、正式な手続きを経て辞職されています。彼女を連れ戻す法的根拠がないのです」


 正論だった。

 昨日までなら、ギルベルトが多少無理な命令を出しても、裏でアデーレが書類を偽造……もとい、超法規的措置の申請書を作成して、合法的に処理してくれていた。

 だからギルベルトは知らなかったのだ。

 この国には法律があり、軍隊を動かすには膨大な手続きが必要だということを。


「だ、だが! 彼女は私の婚約者で……」

「婚約破棄されたと伺っておりますが」

「ぐぬっ……! と、とにかく! 彼女が持ち出した重要書類があるかもしれない! 国家機密漏洩の疑いで捜索する!」


 ギルベルトは苦し紛れに嘘をついた。


「では、その『重要書類』とは具体的に何ですか? 捜索令状に記載する必要がありますので、正式名称と管理番号を教えてください」

「えっ……」


 ギルベルトは言葉に詰まった。

 書類の名前など知らない。管理番号など見たこともない。

 

「あ、あれだ! 予算とか、条約とか、そういうやつだ!」

「『そういうやつ』では裁判所の許可は下りません」


 バルトロメオ団長は冷ややかに言い放った。


「殿下。我々は王家の剣ではありますが、殿下の使い走りではありません。アデーレ嬢を捜索したいのであれば、まずはご自身で法務局に行き、所定の手続きを行ってください。書類の書き方は、そこの受付にマニュアルがありますので」


「私が!? この私が、受付に並んで書類を書けと言うのか!?」

「他に誰がやるのです? アデーレ嬢はもう、いないのですよ」


 その言葉は、鋭利な刃物となってギルベルトの胸に突き刺さった。


 アデーレはもう、いない。

 その事実は、時間が経つごとに重くのしかかってくる。


 昼食の時間になっても、食事が出てこなかった(料理長への指示書が未提出だったため)。

 トイレに行こうとしたら、個室の水が流れなかった(水道局への魔力供給契約更新が昨日で切れていたため)。

 愛人のミナが「新しいドレスが欲しい」とねだったが、王室御用達の商人は「アデーレ様からの発注書がないと動けません」と首を横に振った。


 生活のすべてが、アデーレという基盤の上に成り立っていたのだ。

 その基盤を自ら破壊したことに、ギルベルトはまだ気づいていない――いや、認めたくなかった。


「くそっ……書いてやる! 書けばいいんだろう!」


 ギルベルトは羽ペンをひったくり、羊皮紙に向かった。

 しかし、インクが切れている。

 替えのインクがどこにあるのかも、彼は知らなかった。


「うおおおおぉぉッ!!」


 情けない絶叫が、王城の廊下に虚しく響き渡る。

 

   ◇ ◇ ◇


 夕暮れ時。

 馬車は峠を越え、グランツ帝国の国境検問所に到着した。


 厳重な警備が行われているゲートの前で、馬車が停止する。

 本来なら、入国審査には厳しいチェックが必要だ。特に今は、隣国(私の祖国)との関係が微妙な時期だから尚更だ。


「次の方、パスポートを」


 帝国の兵士が事務的に手を差し出す。

 私は懐から、一通の書類を取り出した。

 それは、私が公務の合間を縫って偽造……ではなく、正当な権限を行使して作成しておいた『最優先通行手形』だ。

 王太子補佐官の印章(本物)が押されているため、法的には一切の不備がない。


「はい、こちらです」

「ん? これは……王家の特別発行書か?」


 兵士は書類をまじまじと見て、それから私を二度見した。

 フードで顔は見えないはずだが、その書類の効力は絶大だ。


「……失礼いたしました。どうぞ、お通りください」


 兵士は敬礼をしてゲートを開けた。

 ノーチェックだ。

 後ろで商人が「えっ、あの嬢ちゃん何者!?」と叫んでいるのが聞こえるが、私は聞こえないフリをして馬車に戻った。


 ガタゴトと、再び馬車が動き出す。

 ゲートをくぐった瞬間、空気が変わった気がした。


 ここから先は、グランツ帝国。

 完全実力主義を掲げ、有能な皇帝ディートリヒが統治する軍事大国。

 そして、私がこれからの人生を過ごす新しい舞台だ。


「……さて」


 私は窓の外に広がる、見たこともない異国の風景を見つめた。

 荒々しくも美しい岩山と、その向こうに広がる広大な森林。


「まずは温泉ね。そして美味しいご飯。仕事探しは、その後でいいわ」


 私は大きく伸びをした。

 こうして、私の無職一日目は、平和に、そして誰にも邪魔されることなく終わろうとしていた。


 まさかその数日後、この帝国で皇帝陛下本人と遭遇し、再び書類の山に埋もれることになるとは、今の私はまだ知る由もなかったのである。


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