第2話
チュン、チュン、チュン。
小鳥のさえずりが聞こえる。
柔らかい日差しがカーテンの隙間から差し込み、埃がキラキラと舞っているのが見えた。
(……ああ、眩しい)
私は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界に入ってきたのは、見慣れた王城の天蓋付きベッド――ではなく、王都の下町にある宿屋の、飾り気のない木の天井だった。
枕元の懐中時計に目をやる。
時刻は、朝の八時を回ったところだ。
「……八時」
その数字を見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
遅刻だ。
本来であれば、私は四時に起床し、五時には身支度を整えて王城の執務室に入り、六時から始まる各省庁との朝礼に向けた資料を作成していなければならない。
八時なんて時間は、すでに午前の業務の半分が終わっている時間帯だ。ギルベルト殿下が起きてくる前に、彼の今日の衣装を選び、朝食のメニューを厨房に指示し、彼が読むべき新聞記事の要約を作成しておく必要があるのに――。
(あ……違うわ)
跳ね起きようとした体を、ふわりとした布団の中に沈める。
心臓の早鐘が、ゆっくりと落ち着いていく。
「私、昨日辞めたんだった」
そうだ。
私はもう、王太子妃候補でもなければ、あのわがままな王子の補佐官でもない。
ただのアデーレだ。
その事実を再確認した瞬間、全身の力が抜けて、ベッドの上で大の字になった。
「ふふ、あはははは!」
乾いた笑いが込み上げてくる。
八時まで寝ていられるなんて、いつぶりだろう。
十歳の頃、ギルベルト殿下の婚約者として王城に召し上げられて以来、初めてかもしれない。
私はゆっくりと体を起こし、窓を開けた。
王都の朝の匂いがする。焼きたてのパンの香ばしい匂い、市場の活気ある声、馬車の車輪が石畳を叩く音。
執務室の窓から見えるのはいつも、冷たい城壁と、疲れ切った顔で巡回する衛兵だけだった。
「……世界って、こんなに鮮やかだったのね」
私は宿屋の食堂に降りて、遅めの朝食をとることにした。
メニューは、ライ麦パンとベーコンエッグ、それに温かい野菜スープ。
王城で出される豪華なフルコースに比べれば粗末なものだが、私にとっては最高のご馳走だった。
なぜなら、温かいからだ。
執務中は片手で食べられるサンドイッチか、冷めきった紅茶しか口にできなかった。
湯気が立つスープをスプーンですくい、口に運ぶ。野菜の甘みが体に染み渡る。
(美味しい……)
涙が出そうになるのを堪えて、私はパンをかじった。
さて、これからの予定だ。
私は手元のメモ帳を開いた。そこには、私が密かに書き溜めていた『やりたいことリスト』が並んでいる。
1.朝寝坊をする(達成)
2.温かいご飯を食べる(達成)
3.時間を気にせず本を読む
4.温泉に行く
5.恋をする(できれば)
とりあえず、当面の目標は4番の「温泉」だ。
この国を出て東に向かうと、隣国であるグランツ帝国の国境がある。帝国の山岳地帯には、万病に効くとされる有名な温泉地があるのだ。
幸い、手元資金はある。
実家からの仕送りと、王城での給与(といっても、仕事量に見合わない雀の涙ほどだったが)は、使う暇がなかったため全額貯金してある。当分遊んで暮らしてもお釣りが来るだろう。
「よし、行こう」
私は最後の一口を飲み込み、席を立った。
王城の方角を一瞥する。
高い尖塔が青空に突き刺さるように聳え立っている。
あの中では今頃、大変な騒ぎになっていることだろう。
もしかしたら、ギルベルト殿下はまだ寝ているかもしれない。
けれど、それはもう私の知ったことではないのだ。
私は軽やかな足取りで宿屋を出て、帝国へ向かう乗合馬車の停留所へと歩き出した。
◇ ◇ ◇
一方その頃、王城の執務室。
「……暑い」
第一王子ギルベルトは、不快感と共に目を覚ました。
執務室の隣にある仮眠室のソファだ。昨夜はミナと遅くまで語り合い、そのまま眠ってしまったらしい。
首筋に汗が流れる。
王城には最新式の魔導空調システムが導入されており、常に快適な室温に保たれているはずだ。なのに、今日の空気は澱んでいて、蒸し風呂のように暑い。
「おい、誰かいないのか! 空調はどうなっている!」
ギルベルトは苛立ちながら叫んだ。
しかし、返事はない。
いつもなら、彼が声を上げるより先にアデーレが現れ、「室温を二度下げました」と涼しい顔で報告してくるはずなのに。
「……チッ、あの女、どこに行ったんだ」
ギルベルトは舌打ちをして、執務室へと移動した。
そこで彼は、信じられない光景を目にすることになる。
「な、なんだこれは……!」
執務机の上が、白い山脈になっていた。
書類だ。
昨日、アデーレに「処理しておけ」と命じたはずの書類が、何一つ減ることなく、むしろ増殖して積み上がっている。
床にまで溢れ落ちた羊皮紙の海の中で、愛人のミナがべそをかいていた。
「うぅ……ギルベルト様ぁ……」
「ミナ!? どうしたんだ、何があった!」
駆け寄るギルベルトに、ミナは涙目でしがみついた。
「こ、怖いんですぅ。朝から色んなおじさんたちが来て、『決裁はまだか』とか『予算が下りないと工事が止まる』とか、すごい剣幕で怒鳴るんですぅ……」
「なんだと? 無礼な! 私が誰だと思っているんだ!」
ギルベルトは激昂したが、その怒りの矛先をどこに向ければいいのかわからなかった。
とりあえず、喉が渇いた。
「おい、茶だ! 冷たい茶を持ってこい!」
叫ぶと、怯えた様子の侍女が入ってきた。
しかし、差し出されたティーカップの中身を見て、ギルベルトは眉をひそめた。
色が濃すぎるし、香りもしない。
「なんだこれは。泥水か? いつもの茶葉はどうした」
「も、申し訳ございません殿下! いつもの茶葉はアデーレ様がご自身でブレンドされていたもので、配合のレシピが見当たらないのです……! それに、お湯の温度管理もアデーレ様が魔術で行っていたため、私どもでは……」
「ええい、言い訳など聞きたくない!」
ガシャン、とカップを床に叩きつける。
空調も、書類も、茶一杯すらも、まともに機能していない。
まるで城全体が呪いにかかったかのようだ。
(……いや、まさか)
ギルベルトの脳裏に、昨日のアデーレの言葉が過ぎる。
――『誰にでもできる簡単な仕事』ですから。
「そう、そうだ。あんな地味な女にできて、この私やミナにできないはずがない」
ギルベルトは自分に言い聞かせるように呟き、机の上の書類を一枚手に取った。
一番上にあったのは『西方街道整備計画書・修正案』だ。
「ミナ、これはどうした? まだサインしていないのか?」
「だ、だってぇ……」
ミナはもじもじと指先を合わせる。
「漢字が多くて読めないんですぅ。それに、『施工業者選定の適正化について』って書いてあるんですけど、どこの業者を選べばいいのかわからなくて……」
「そんなもの、適当に大手を選んでおけばいいだろう!」
「でもぉ、アデーレ様が残したメモには『A社は先月の工事で手抜きがあったため除外、B社は納期遅延の常習犯、C社は財務大臣の親戚企業なので癒着の恐れあり』って書いてあって……全部ダメみたいなんですぅ」
「……は?」
ギルベルトは書類をひったくった。
確かに、欄外にアデーレの几帳面な字でびっしりと注釈が書き込まれている。
過去五年分の施工実績、コスト比較、法的リスクの有無。
それらの情報を総合して、結論として『今回は新規参入のD社を推す。ただし担保として資材の先納入を条件とする』と記されていた。
(……これを、あいつは毎日やっていたのか?)
ギルベルトの手が震えた。
ただサインをするだけだと思っていた。
アデーレが持ってくる書類には、常に「ここにサインを」という付箋が貼られていたからだ。
だが、そのサインに至るまでに、どれだけの検証と裏付け調査が行われていたのか、彼は考えたこともなかった。
ドンドンドン!
その時、執務室の扉が激しく叩かれた。
「ギルベルト殿下! 騎士団長のバルトロメオです! 緊急の報告があります!」
返事をする間もなく、扉が開け放たれる。
入ってきたのは、この国最強と謳われる巨漢の騎士団長だった。彼は真っ赤な顔をして、一枚の紙を握りしめている。
「殿下! 今朝、騎士団の給与振込が停止しているとの連絡が入りました! 部下たちが騒いでおります! 一体どういうことですか!」
「な、なんだと? 給与だと?」
「財務省に問い合わせたところ、『王太子殿下の最終承認印がないため、金庫が開かない』と言われました! 昨日のうちに処理されているはずではなかったのですか!」
ギルベルトは視線を泳がせた。
昨日。アデーレが「今日が期日です」と言っていた書類の山。
その中の一枚が、それだったのか。
「い、いや、それは……今、やろうとしていたところで……」
「今!? 銀行の振込処理は朝九時までですよ! あと十分しかありません!」
騎士団長が机をバンと叩く。
ミナが「ひいっ」と悲鳴を上げるが、団長は彼女を一瞥もしない。
「ミナ様とお遊戯をしている時間があるなら、仕事をしてください殿下! 部下の生活がかかっているんです!」
王族に対してあるまじき暴言。
しかし、ギルベルトは言い返すことができなかった。
なぜなら、どの書類が「給与台帳」なのか、彼には見分けがつかなかったからだ。
アデーレがいなければ、彼は自分が今日何をすべきか、何から手をつけるべきか、優先順位すらつけられないのだと思い知らされた。
「……アデーレ」
無意識に、その名前が口をついて出た。
いつもなら、影のように控えていた彼女が、さっと必要な書類を差し出してくれたはずだ。
「こちらです、殿下」と、淡々とした声で。
だが、今ここにいるのは、泣いているだけの役立たずの愛人と、怒り狂う騎士団長だけ。
「くそっ、くそっ、くそぉぉぉッ!」
ギルベルトは頭を抱えた。
王城の機能不全。
それは、アデーレが去ってからわずか二十四時間足らずで、誰の目にも明らかな形で露呈し始めていた。
そしてこれは、まだ序章に過ぎなかった。




