第16話
祖国サン・ローラン王国が、生ゴミと汚水と後悔の念に沈んでいた頃。
私は帝国の皇城内にある『衣装部屋』で、別の意味で頭を抱えていた。
「却下だ!!」
部屋中に、皇帝ディートリヒ陛下の怒声が響き渡る。
しかし、その声には殺気はなく、あるのは子供のような駄々っ子じみた響きだけだった。
「なぜですか、陛下! このデザインのどこが不満なのですか!」
食い下がっているのは、帝国随一のトップデザイナー、マダム・ルージュだ。
彼女は紫色の扇をバシバシと手のひらに叩きつけながら、一歩も引かない構えを見せている。
「どこが、だと? 全部だ! 特にこの背中! 腰まで開いているじゃないか!」
「それが流行です! アデーレ様の美しい肩甲骨と、雪のような背中のラインを隠すなんて、宝石を泥で塗り固めるようなものですわ!」
「泥で結構! アデーレの肌は、俺だけが見られればいいんだ! 全世界に晒してどうする!」
……はぁ。
私は鏡の前で、試着中のウェディングドレスの裾を持ち上げながら、深いため息をついた。
現在、私の結婚式に向けた衣装合わせの真っ最中だ。
マダムが徹夜で仕上げてくれたドレスは、純白のシルクを贅沢に使い、繊細な銀の刺繍が施されたマーメイドラインの逸品だ。
確かに背中は大胆に開いているし、デコルテも少し深めだが、決して下品ではない。むしろ洗練された大人の色気を感じさせる、素晴らしいデザインだ。
しかし、私の婚約者(兼、上司)である皇帝陛下には、それが気に入らないらしい。
「マダム、布を足せ。首まで隠すんだ」
「ハイネック!? 正気ですか!? 結婚式は夏ですよ? 花嫁を蒸し焼きにする気ですか!」
「なら式場を氷漬けにする魔法を使う!」
「横暴だわ! これだから美的センスのない男は困るのよ!」
ギャーギャーと言い争う二人。
その光景は、あまりにも平和で、そして幸せだった。
(……一ヶ月前までは、想像もできなかったわね)
祖国にいた頃の私は、ギルベルト殿下の衣装選びに付き合わされることはあっても、自分のドレスを選んでもらったことなど一度もなかった。
「どうせ何を着ても地味だろ」と一蹴され、適当な既製品をあてがわれていたのだ。
それが今はどうだ。
世界最強の皇帝と、世界最高のデザイナーが、私一人のために本気で喧嘩している。
「……あの、お二人とも」
私が控えめに声を上げると、二人はピタリと動きを止め、同時にこちらを向いた。
「「アデーレ(様)はどう思う!?」」
息ぴったりだ。
私は苦笑しながら、鏡の中の自分を見つめた。
「私は、このドレスが好きです。マダムのデザインは、私に自信をくれますから」
「ほらご覧なさい! 花嫁のご意向よ!」
マダムが勝ち誇った顔をする。
ディートリヒさんが「ぐぬぬ」と唸る。
「ですが、陛下の『独占したい』というお気持ちも、正直……嬉しくないわけではありません」
私が少し頬を染めて言うと、ディートリヒさんの表情が一瞬で緩んだ。
単純だ。でも、そこが可愛い。
「ですので、折衷案はいかがでしょう? 挙式の間は、透け感のあるレースのロングベールで背中を覆うのです。それなら肌は直接見えませんし、マダムのデザインも活かせます」
「……なるほど。レース越しに見える肌というのも、また一興か」
「悪くないわね。チラリズムというやつよ。……さすがアデーレ様、調停がお上手だわ」
二人は顔を見合わせ、納得したように頷いた。
こうして、私のウェディングドレス論争は、平和的な解決を迎えたのだった。
◇ ◇ ◇
衣装合わせの後、私たちは皇城の庭園でティータイムを楽しんでいた。
色とりどりの花が咲き乱れる温室。
テーブルには、帝国の一流パティシエが作ったケーキと、香り高い紅茶が並んでいる。
「……疲れただろう?」
ディートリヒさんが、私のカップに紅茶を注ぎながら言った。
彼の手つきは相変わらず優雅だ。
「いいえ。心地よい疲れです。……祖国での疲れとは、質が違いますから」
「そうか」
彼は満足げに微笑むと、私の手を握った。
「結婚式の招待状だが、各国の王族には発送済みだ。もちろん、サン・ローラン王国にもな」
「……来るでしょうか?」
「来ないだろうな。というより、来られないだろう。国王は病に伏せり、ギルベルトは廃嫡寸前、国境は封鎖状態だそうだ」
彼は淡々と、まるで明日の天気を話すように言った。
「彼らからの『祝電』の代わりに、国王からの『借款申し込み』の手紙なら届いているがね。『金貨一万枚を貸してくれ』だとさ」
「……断ってください。ドブにお金を捨てるようなものです」
「当然だ。俺の金は全て、君との新婚生活のために使う予定だからな」
彼は悪戯っぽく笑った。
「新婚旅行はどこがいい? 南の島か? それとも北のオーロラを見に行くか?」
「仕事はどうするんですか。貴方は皇帝で、私は補佐官ですよ?」
「構わん。有能な部下を育てたからな。一ヶ月くらい不在でも国は回る」
彼は私の指に、新しい指輪を嵌めた。
それは、帝国の皇后に代々伝わる、大粒のダイヤモンドの指輪だった。
かつてギルベルト殿下からもらった、安物の婚約指輪とは重みが違う。物理的にも、込められた想いの重さも。
「アデーレ。君を幸せにすると誓ったが、訂正させてくれ」
「はい?」
「俺が、君のおかげで世界一幸せな男になった。……ありがとう、俺のところに来てくれて」
真っ直ぐな言葉。
私は胸がいっぱいになり、彼の手に自分の手を重ねた。
「こちらこそ。……私を見つけてくれて、ありがとうございます」
花が香る庭園で、私たちは静かに口づけを交わした。
遠い空の向こうで、祖国がどうなっていようと知ったことではない。
私には今、守るべき仕事があり、愛すべき夫がいる。
それだけで、私の世界は完璧だった。
数ヶ月後に行われた結婚式は、帝国の歴史上、最も盛大で、最も美しいものとして語り継がれることになる。
そしてその隣国が、静かに歴史の表舞台から消えていったことも――また、別の歴史書に記されることになるのだが。
悪役令嬢と呼ばれた(呼ばせたかった)私の物語は、これにてハッピーエンド。
でも、皇帝妃としての「お仕事」は、まだまだ続きそうです。




