第15話
サン・ローラン王国、王城。
かつては大陸でも有数の美しさを誇った「白亜の城」は今、腐臭と怒号に包まれていた。
「……くそっ、臭い! どうなっているんだ!」
第一王子ギルベルトは、鼻をハンカチで押さえながら廊下を歩いていた。
窓の外には、回収されずに放置された生ゴミの山が見える。カラスが群がり、ハエが飛び交っている。
原因は単純だ。
王都の清掃ギルドへの支払いが滞り、彼らがストライキを起こしたからだ。
さらに悪いことに、城内の魔導水道も止まっていた。
トイレは流れず、風呂にも入れない。
香水を振りまいて誤魔化しているが、それも限界だった。汗と香水と生ゴミの臭いが混じり合い、優雅な宮廷生活は見る影もない。
「おい! 清掃ギルドへの支払いはまだか!」
「で、殿下! 財務官が『ハンコがないから金庫が開かない』と言って逃亡しました!」
「逃亡だと!? 連れ戻せ!」
ギルベルトが怒鳴るが、衛兵たちも動かない。彼らへの給与も三ヶ月遅配しているからだ。
誰も、王子の命令を聞こうとしない。
(なぜだ……なぜこんなことになった?)
一ヶ月前までは、全てが順調だったはずだ。
朝起きれば清潔な服が用意され、執務室は適温に保たれ、書類にはサインをするだけでよかった。
国は勝手に回り、民は勝手に働き、自分はただ玉座に座って微笑んでいればよかったはずなのだ。
それが、アデーレという「地味な女」が一人消えただけで、この有様だ。
「ギルベルト! ここにいたか!」
ドスドスと床を鳴らして現れたのは、国王である父だった。
その顔は憤怒で赤黒く染まっている。
「ち、父上……」
「貴様! 帝国の新聞を見たか! 『サン・ローラン王国、衛生管理能力の欠如により伝染病のリスク増大』だと!? 恥を知れ!」
国王は丸めた新聞紙をギルベルトに投げつけた。
「さらに、アデーレ嬢からの請求書だ! 『未払い残業代および有給休暇買取請求』……金貨五千枚!? なんだこのふざけた金額は!」
「そ、それは彼女が勝手に……」
「調べさせたが、正当な請求だったぞ! 彼女は過去十年間、一人で五人分の仕事をしていた! それをタダ働きさせていたツケが回ってきたのだ!」
国王は頭を抱えた。
「金庫にはもう金がない。お前がミナとかいう小娘に買い与えたドレスや宝石の代金で、予備費まで使い果たしたからな!」
「ミナは関係ありません! 彼女は私の運命の相手で……」
「その運命の相手とやらを、どうにかしろ!」
国王が指差した先。
廊下の曲がり角から、金切り声が聞こえてきた。
「嫌ぁぁぁッ! お風呂に入れないなんて無理ぃぃッ!」
ミナだった。
かつては愛らしいピンク色のドレスを着ていた彼女だが、今は薄汚れた寝間着のような姿で、髪もボサボサだ。
彼女はギルベルトを見つけると、鬼のような形相で駆け寄ってきた。
「ねえギルベルト様! どうにかしてよ! 体がベタベタして気持ち悪いし、ご飯も冷たいパンばっかり! こんなの耐えられない!」
「ミ、ミナ……少し我慢してくれ。今、業者が……」
「我慢? 私が? なんで? 王太子妃になれば贅沢できるって言ったじゃない! これじゃあ平民以下の生活よ!」
彼女はギルベルトの胸倉を掴んで揺さぶった。
その目には、かつてギルベルトを魅了した「慈愛」や「純真さ」は欠片もなかった。あるのは、剥き出しの欲望と不満だけ。
「……離せ」
「あぁ?」
「離せと言っているんだ!」
ギルベルトは彼女の手を振り払った。
プツリ、と何かが切れた。
「お前のせいだ……お前が『仕事なんてしなくていいもーん』とか言って、重要書類に花のスタンプを押したせいで、貿易協定が破棄されたんだぞ!」
「はぁ? だって漢字が読めないんだもん! ギルベルト様が『可愛いからそのままでいい』って言ったんじゃない!」
「限度があるだろう! それに、アデーレなら……アデーレなら、こんなミスはしなかった!」
禁断の名前を口にしてしまった。
ミナの顔が引きつる。
「……へぇ。結局、あのおばさんの方が良かったって言うの?」
「ああそうだ! 彼女は地味で可愛げがなかったが、仕事は完璧だった! 文句も言わず、俺の尻拭いをして、国を支えていた! お前みたいにギャあギャあ喚くだけの役立たずとは違うんだ!」
言ってしまった。
言ってはいけない本音を。
ミナは信じられないものを見る目で彼を見つめ、そして――。
バチンッ!!
乾いた音が廊下に響いた。
ギルベルトの頬に、赤い手形が浮かび上がる。
「……最低。もういいわ、実家に帰らせてもらうから!」
「ま、待てミナ!」
「触らないで! 泥舟の王子様なんて、こっちから願い下げよ! 慰謝料請求するからね!」
彼女はドレスの裾を翻し、去っていった。
残されたのは、呆然とするギルベルトと、彼を軽蔑の目で見下ろす国王だけ。
「……愚か者め」
国王は吐き捨てるように言った。
「ダイヤモンドを捨てて、ガラス玉を拾った男の末路だな。……アデーレ嬢への支払いは、お前の私財を全て没収して充てる。廃嫡の手続きも進めるから、そのつもりでいろ」
国王も去っていった。
広い廊下に、ギルベルトは一人取り残された。
◇ ◇ ◇
夜。
ギルベルトは、かつてアデーレと共に過ごした執務室にいた。
魔導灯の明かりは消えかかっており、薄暗い。
机の上には、未処理の書類が山脈のように積み上がっている。
その高さは、アデーレがいた頃の三倍にもなっていた。
「……読めない」
ギルベルトは一枚の羊皮紙を手に取り、震える声で呟いた。
『国境警備隊・兵站補給要請書』。
専門用語と数字の羅列。どこに承認印を押せばいいのか、何を確認すればいいのか、さっぱり分からない。
以前は、アデーレが付箋を貼ってくれていた。
『ここは承認』『ここは却下(理由:予算超過)』と、美しい文字で指示があった。
彼はそれに従ってハンコを押すだけで、「名君」と称えられていたのだ。
「……全部、あいつがやっていたのか」
今更ながら、思い知らされる。
この国の平和も、彼の名声も、そして快適な生活も。
全てはアデーレという土台の上に成り立っていた砂上の楼閣だったのだ。
彼女は言っていた。
『私が抜けた後、この業務は誰が行うのですか?』と。
あの時、自分は鼻で笑った。『誰にでもできる』と。
「……できるわけ、ないだろう……」
ギルベルトは机に突っ伏した。
涙が溢れてくる。
後悔という名の毒が、全身に回っていく。
なぜ気づかなかったのか。
彼女が夜遅くまで残業していた背中を。
彼女が淹れてくれた紅茶の温かさを。
彼女が時折見せていた、控えめだが美しい微笑みを。
帝国の舞踏会で見た彼女は、息を呑むほど美しかった。
あんな表情、自分の前では一度も見せたことがなかった。
いや、見ようとしていなかっただけだ。
「アデーレ……」
虚空に向かって、その名前を呼ぶ。
返事はない。
あるのは、積み上がった書類の山と、窓の外から漂う生ゴミの臭いだけ。
「帰ってきてくれ……頼む、帰ってきてくれ……」
彼は子供のように泣いた。
しかし、その声が帝国に届くことはない。
彼が捨てた「石ころ」は、今や帝国の「至宝」となり、二度と手の届かない場所で輝いているのだから。
サン・ローラン王国の崩壊は、もはや時間の問題だった。
そしてその引き金を引いたのは、他ならぬギルベルト自身だったという事実は、彼が死ぬまで――いや、国が滅びた後も歴史書に残る汚点として、永遠に語り継がれることになるのだった。




