第14章
祖国での波乱万丈な舞踏会を終え、私たちはグランツ帝国へと帰還した。
国境を越え、帝都グラン・ロディスが見えてきた頃。
私は馬車の窓から聞こえてくる異様な喧騒に、耳を疑った。
「――万歳! 皇帝陛下万歳!!」
「アデーレ様万歳!! 我らが女神に祝福を!!」
「結婚おめでとうございますぅぅッ!!」
地鳴りのような歓声。
城門へと続く大通りは、色とりどりの紙吹雪と、帝国の国旗を振る市民たちで埋め尽くされていた。
老若男女、誰もが満面の笑みを浮かべ、私たちの馬車に向かって手を振っている。
中には「アデーレ様、ありがとう!」「給付金の手続きが早くなったよ!」と書かれたプラカードを掲げている者までいる。
「……あの、ディートリヒさん」
私は引きつった笑顔で、向かいの席の皇帝陛下を見た。
「これは、一体どういうことでしょうか?」
「どうもこうも、凱旋パレードだ」
彼は涼しい顔で答えた。
「俺たちが舞踏会で『婚約発表』をしてから、早馬を飛ばしたんだ。帝都の新聞社にな。『皇帝陛下、長年の独身生活に終止符! お相手は帝国の行政改革を成し遂げた伝説の才女!』とな」
「仕事が早すぎます! まだ正式な書類にサインもしていないのに!」
「既成事実は大事だろう? これでもう、君は逃げられない」
彼はニヤリと笑い、窓を開けて市民たちに手を振った。
わぁぁっ! と歓声が一段と大きくなる。
「見ろ、アディ。彼らの笑顔を。あれは君が作ったものだ」
「私が?」
「ああ。君が財務省のシステムを改善し、物流の滞りを解消したおかげで、今月だけで物価が二割下がった。給与の未払いも解消され、年金も予定通り支給された。……彼らにとって、君はまさに『女神』なんだよ」
胸が熱くなった。
祖国では、どれだけ働いても「当たり前」だと思われていた。
徹夜で予算を組み、餓死者が出ないように調整しても、誰からも感謝されなかった。
けれど、ここでは違う。
私の仕事が、ちゃんと誰かの生活を豊かにし、笑顔を作っている。
「……責任重大ですね」
「ああ。だからこそ、君が必要なんだ」
ディートリヒさんは私の手を引き寄せ、手の甲にキスをした。
窓の外から「ヒューッ!」「お熱い!」という冷やかしの声が飛んでくる。
「も、もう! 見られていますよ!」
「見せつけているんだ。さあ、君も手を振ってやれ。未来の皇后陛下として」
私は観念して、おずおずと手を振り返した。
その瞬間、世界が揺れるような歓呼の声が私を包み込んだ。
◇ ◇ ◇
皇城に到着すると、そこには私の「新しい執務室」が用意されていた。
以前の『特別行政改革室』ではない。
皇帝の執務室のすぐ隣――というか、壁一枚を隔てて繋がっている、かつては皇后が使っていたとされる『奥の間』だ。
「ここを君のオフィスにする。内装も君好みに変えておいた」
広々とした室内には、最新式の魔導通信機、疲れにくい最高級の椅子、そして壁一面の本棚には、帝国全土の資料が綺麗に分類されて収まっていた。
さらに、部屋の隅には仮眠用のふかふかベッドと、いつでも温かいお茶が飲める給湯魔導具まで完備されている。
「……完璧です。住めますね、ここ」
「住んでもいいが、夜は俺の寝室に来てもらうぞ」
彼はさらりと爆弾発言を落としつつ、私のデスクに一通の書類を置いた。
「さて、早速だが仕事だ。……と言いたいところだが」
「はい、何でしょう? 予算案ですか? 人事考課ですか?」
私が腕まくりをしようとすると、彼は首を横に振った。
「違う。君にはまず、これを見てもらいたい」
彼が差し出したのは、帝国のものではなく、羊皮紙の色が少し黄ばんだ報告書だった。
表紙には、見慣れた紋章――サン・ローラン王国の国章が刻印されている。
「これは……祖国の?」
「ああ。我が国の諜報員が送ってきた、最新の情勢レポートだ。……君が去ってから二週間。予想以上に早い崩壊が始まっているようだ」
私は息を呑み、報告書を開いた。
そこに記されていたのは、目を覆いたくなるような惨状だった。
**【サン・ローラン王国 現状報告書】**
*1.行政機能の麻痺*
アデーレ嬢の退職に伴い、決裁権限を持つ者が不在となったため、各省庁の業務が停止。
特に財務省では、複雑怪奇な予算配分を理解していたのが彼女一人だったため、誰一人として金庫の開け方(暗証魔術の解除式)すら分からない状態が続いている。
*2.インフラの崩壊*
王都の魔導水道システムにおいて、定期メンテナンスの指示が出されなかったため、魔力切れによる断水が発生。
下水処理も停止し、王都全体に悪臭が漂い始めている。
*3.ギルベルト王太子の暴走*
事態を重く見た国王が王太子を叱責するも、本人は「アデーレが嫌がらせで呪いをかけたせいだ」と主張。
新たな補佐官として愛人のミナ男爵令嬢を任命したが、彼女が「可愛いハンコ」を公文書に押しまくった結果、重要書類が無効となり、さらなる混乱を招いている。
「……馬鹿なの?」
私は思わず呟いていた。
想像以上だ。
特に3番目。公文書に可愛いハンコ? お遊戯じゃないのよ。
「金庫の暗証魔術に関しては、引き継ぎ書に書いておきました。『マニュアルの12ページ参照』と」
「彼らはマニュアルを読む習慣がないのだろう」
「水道のメンテナンスも、カレンダーに赤丸をつけておきました」
「カレンダーを見る余裕もないほど、パニックになっているということだ」
ディートリヒさんは肩をすくめた。
「彼らは気づいたんだよ。自分たちが乗っていた豪華客船が、実は君という一人の機関士によって動かされていたハリボテだったことに」
私は報告書を閉じた。
同情心は湧かない。むしろ、胸のつかえが取れたような清々しさすら感じる。
「……それで、陛下。この報告書を私に見せた意図は?」
「確認だ。君がまだ、彼らに未練があるかどうか」
彼は真剣な瞳で私を見つめた。
「もし君が望むなら、手を貸してやってもいい。人道的支援という名目で、技術者を派遣することもできる。……どうする?」
試されている。
私は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、断水した王都で困っている市民たちの顔……ではなく、パニックになって喚き散らすギルベルト殿下と、泥だらけのドレスで泣き叫ぶミナ様の顔だ。
市民には罪はない。
けれど、ここで私が手を出せば、彼らは永遠に学ばないだろう。
「困ったらアデーレが何とかしてくれる」という甘えを、断ち切らなければならない。
「……必要ありません」
私は目を開け、きっぱりと告げた。
「これは彼らが選んだ道です。自らの無能さと向き合い、痛みを伴って学習する良い機会でしょう。それに……」
私はニッコリと微笑んだ。
「私は今、帝国の行政補佐官です。他国の尻拭いをしている暇があるなら、この国の下水道をさらに快適にする計画書を作りたいのですが?」
その答えを聞いた瞬間、ディートリヒさんの顔がパァッと明るくなった。
「合格だ! その言葉が聞きたかった!」
彼は私を抱き上げ、くるくると回った。
「きゃっ、目が回ります!」
「嬉しいんだ。君が完全に俺のものになったと確信できてな。よし、今日はもう仕事は終わりだ!」
「えっ、まだ昼ですよ!?」
「祝杯を挙げるんだ。それに、君にはこれから『結婚式の衣装合わせ』という重大な任務が待っている」
彼は私を下ろすと、悪戯っぽくウィンクした。
「マダム・ルージュが張り切っているぞ。『今度は純白のウェディングドレスで、世界中の度肝を抜いてやる』とな。……覚悟しておけよ、アディ」
私は天を仰いだ。
あのデザイナーさんの暴走再び。また数時間、着せ替え人形にされる未来が確定した。
でも。
不思議と嫌な気分ではなかった。
「……仕方ありませんね。付き合ってあげます」
「上から目線だな。だが、そこがいい」
私たちは笑い合った。
窓の外には、どこまでも広がる帝国の青空。
その向こうにある、灰色の雲に覆われた祖国のことなど、もう私の視界には入っていなかった。
こうして、帝国の繁栄と、祖国の没落は、対照的に加速していくことになる。




