第10話
帝国の皇城での勤務、三日目。
私の職場である『特別行政改革室』(ディートリヒさんが私のために急造した部署だ)は、朝から怒号に包まれていた。
「おい! 責任者を出せ! 俺の騎士団の予算を凍結したのはどこのどいつだ!」
ドガンッ! と執務室の扉が蹴破られる。
現れたのは、熊のような大男だった。
身長は二メートルを超え、全身を分厚い筋肉の鎧が覆っている。顔には古傷が走り、眼光は魔獣のように鋭い。
帝国第三騎士団長、バルガス将軍だ。
『破壊の鉄槌』の異名を持つ、帝国きっての猛将である。
室内にいた文官たちが、悲鳴を上げて机の下に隠れる。
しかし、私は優雅に紅茶のカップをソーサーに置いた。
「……ドアの修理費、第三騎士団の経費から引いておきますね」
「あぁ!? てめぇか、この小娘! 俺の決裁書に『却下』の判を押しやがったのは!」
バルガス将軍が、私のデスクに拳を叩きつける。
書類が舞い、インク壺が揺れる。
私は眉ひとつ動かさず、彼を見上げた。
「ええ、私です。アデーレ・フォン・クライスト。皇帝陛下より全権を委任されている行政補佐官です」
「女ぁ? 補佐官だぁ? ふざけるな! 戦場を知らない女子供が、俺たちの補給に口を出すんじゃねぇ!」
将軍の怒声で、窓ガラスがビリビリと震える。
彼の言い分はこうだ。
来月予定されている北方遠征のために、最新鋭の魔導剣を五千本発注した。しかし、私がその予算を全額カットしたため、遠征の準備が止まっている――と。
「俺たちは命懸けで国を守ってるんだ! 武器がなくてどうやって戦えってんだ! この守銭奴が!」
「守銭奴ではありません。『管理者』です」
私は一枚の書類を取り出した。
それは、彼が提出した発注書だ。
「バルガス将軍。貴方が発注しようとした『魔導剣・炎熱モデル』ですが、一本あたりの単価が市場価格の三倍になっています。これはどういうことですか?」
「あ? 知るか! 性能がいいから高いんだろ!」
「いいえ。性能は標準モデルと変わりません。違うのは、柄の部分に純金の装飾が施されていることと、納入業者が貴方の義理の弟が経営する『バルガス商会』であることだけです」
ピタリ、と将軍の動きが止まった。
「……な、なんだと?」
「調査しました。貴方は過去五回、この商会から相場より高い価格で装備品を購入しています。その差額、金貨にして約二千枚。……これ、どこに消えたんですか?」
私は眼鏡の位置を直しながら(伊達眼鏡だ。仕事ができる女っぽさを出すために昨日買った)、冷ややかに告げた。
「中抜き、横領、背任行為。軍法会議にかければ、即刻クビですね」
「き、貴様……! 言わせておけば!」
将軍の顔が朱に染まる。
彼は腰の剣に手をかけた。
「俺を誰だと思っている! 戦場で数多の敵を葬ってきた将軍だぞ! てめぇのような口先だけの女、斬り捨ててやる!」
「ひぃぃぃ! アデーレ様、逃げて!」
文官たちが叫ぶ。
殺気が肌を刺す。
しかし、私は椅子から立たなかった。
「斬ればいいでしょう。ですが、その剣を抜いた瞬間、貴方の部下五千人は来月の遠征で凍え死ぬことになりますよ」
「……なに?」
「私が予算を凍結したのは、貴方の私腹を肥やすための『魔導剣』だけです。その代わりに、私が承認した予算を見てください」
私は別の書類を彼に突きつけた。
「承認項目:『防寒具の新調』『携帯食料の品質改善』『簡易結界テントの導入』。……以上、総額は貴方の魔導剣予算と同額です」
将軍が目を白黒させる。
「は……? 防寒具だと?」
「北方の冬を舐めないでください。過去のデータによると、遠征における死傷者の四割は、戦闘ではなく『凍傷』と『栄養失調』によるものです。金ピカの剣を振り回すより、温かいスープと丈夫なコートを与える方が、兵士の生存率は格段に上がります」
私は一息ついた。
「貴方は『戦場を知らない』と言いましたが、私は『数字で見る戦場』を知っています。兵站を軽視する指揮官は、部下を殺す無能です。……違いますか?」
室内が静まり返った。
将軍は震える手で書類を掴み、食い入るように見つめた。
そこには、兵士一人ひとりのカロリー計算から、消耗品の交換サイクルまで、綿密に計算された補給計画が記されていた。
カチャン。
将軍の手から、剣の柄を握る力が抜けた。
「……俺は、今まで部下に……」
「まだ間に合います。この計画書にサインしてください。そうすれば、義弟の商会との癒着は見なかったことにしてあげます」
「ほ、本当か?」
「ええ。ただし条件があります。今後、軍の調達はすべて私の部署を通すこと。そして――」
私はニッコリと、悪役令嬢らしい極上の笑みを浮かべた。
「壊したドア、直しておいてくださいね?」
◇ ◇ ◇
数分後。
あの猛将バルガスが、借りてきた猫のように小さくなって部屋を出て行った。
手には修理道具(金槌と釘)を持って。
「す、すげぇ……」
「あの『破壊の鉄槌』を、言葉だけでねじ伏せたぞ……」
「アデーレ様、一生ついていきます!!」
文官たちから拍手喝采が巻き起こる。
私は「大袈裟です」と手を振って、冷めた紅茶を口にした。
「……見事な手腕だ」
不意に、背後から気配を感じた。
振り返ると、いつの間にか執務室の隅にある隠し扉が開いており、そこからディートリヒさんが顔を出していた。
「ディ、ディートリヒさん!? いつからそこに?」
「最初からだ。バルガスが怒鳴り込んできたと聞いて、助太刀しようと思ったのだが……不要だったな」
彼は楽しそうに笑いながら近づいてくる。
その手には、湯気の立つ新しい紅茶のポットが握られていた。
「冷めただろう? 淹れ直してやったぞ」
「えっ、皇帝陛下に給仕をさせるわけには!」
「構わん。君は我が国の軍事費の無駄を削り、兵士たちの命を救った英雄だ。これくらいの褒美は当然だろう」
彼は慣れた手つきでカップに紅茶を注ぐと、ふわりと香るその香りを楽しみながら言った。
「バルガスは粗暴だが、部下想いの男だ。君が『兵士のため』と言った瞬間、彼の負けは決まっていた。……よく人を見ているな」
「ただのデータ分析です。過去の報告書を見れば、彼が負傷した部下を背負って帰還した記録がありましたから。根は悪い人じゃないと判断しました」
「……ふふ。やはり君は、俺が求めていた『光』だ」
彼は突然、私の手を取った。
そして、その手の甲に唇を寄せる。
「きゃっ……!?」
「君の手は、剣ダコもなければ魔力の光も帯びていない、白く華奢な手だ。だが、この手が生み出す書類一枚が、何千もの剣よりも強く国を守っている」
彼の熱い視線が、私を射抜く。
「アデーレ。俺はこの手を、誰にも渡したくない。……一生、俺の隣でペンを握っていてくれないか?」
「そ、それは……就身雇用の契約ですか?」
「プロポーズと受け取ってもらっても構わないが?」
「け、結構です! 今は仕事が恋人ですので!」
私は真っ赤になって手を引っ込めた。
心臓がうるさい。
この人は、どうしてこうも息をするように甘い言葉を吐けるのだろう。
「ふふ、照れている顔も可愛いな。……さて、仕事に戻ろうか。実は隣国から『皇太子妃選びの舞踏会』の招待状が届いていてな」
彼が何気なく言った言葉に、私の動きが止まった。
「……え?」
「隣国――君の祖国だよ、アデーレ。ギルベルト王太子が、新しい婚約者を披露するために各国の大使を招くそうだ」
ズキン、と胸の奥が痛んだ。
ギルベルト殿下。
私が全てを捧げ、そして捨てられた相手。
「俺は出席するつもりだ。もちろん、我が国の『全権行政補佐官』である君を伴ってな」
ディートリヒさんの瞳が、剣呑な光を帯びて細められた。
「見せてやろうじゃないか。彼が捨てた『石ころ』が、実は国を傾けるほどの『ダイヤモンド』だったということを」
それは、帝国による祖国への宣戦布告であり、
私にとっての、過去との完全なる決別の合図でもあった。
私の手の中で、万年筆がカチリと音を立てた。
「……承知いたしました、陛下。最高に美しく着飾って、彼らの度肝を抜いて差し上げましょう」
私は不敵に笑った。
悪役令嬢の辞表は提出済みだ。
次は、悪役令嬢の「逆襲」の始まりである。




