第1話
カツ、カツ、カツ。
王城の執務室に、無機質なペンの走る音だけが響いている。
手元の羊皮紙に記されているのは、来年度の国境警備隊への予算配分案だ。
北部の山岳地帯では魔獣の出現頻度が増加しており、装備の更新が急務となっている。前線の騎士団長からは「このままでは冬を越せない」という悲痛な嘆願書も届いていた。
しかし、財務大臣は「平時における軍事費の増大は認められない」と渋い顔をして、書類を突き返してきたのだ。
(……認められない、じゃなくて。貴方が私腹を肥やしている夜会や宴会の費用を削れば済む話でしょうに)
私は心の中で毒づきながら、それでも表情筋ひとつ動かさずに再計算を行う。
どこか別の予算を削らなければならない。王宮の庭園管理費か、外壁の修繕費か、あるいは――。
「ねえ、ギルベルト様ぁ。このお菓子、すっごく美味しいですぅ」
「そうか、それは良かった。君が喜んでくれるなら、王都中の菓子職人を集めた甲斐があるというものだ」
「きゃあ、ギルベルト様ったら太っ腹ぁ! そういう強引なところも素敵!」
……あるいは、この目の前で繰り広げられている茶番劇の費用を削るか、だ。
私はふぅ、と小さく息を吐いた。
ペン先からインクが滲みそうになるのを寸前で止め、書類の端に視線を落とす。
執務机に向かっているのは私、アデーレ・フォン・クライスト公爵令嬢。
そして、優雅な猫足のソファセットで膝を突き合わせているのは、この国の第一王子であり私の婚約者、ギルベルト殿下だ。
彼の腕の中には、ふわふわとした桃色の髪をした小柄な少女が収まっている。
男爵令嬢のミナ様だ。
最近、王城に頻繁に出入りしている彼女は、その愛くるしい笑顔と「天真爛漫」という言葉を盾にした無作法さで、ギルベルト殿下を骨抜きにしていた。
噂では「聖女の再来」などと呼ばれているらしいが、少なくとも私の目には、ただの常識知らずの子供にしか見えない。
(仕事、しないのかしら)
壁に掛けられた魔導時計の針は、午後二時を回っていた。
本来であれば、ギルベルト殿下は隣国の使節団を迎えるための式典リハーサルに参加しているはずの時間だ。
しかし彼は「急な腹痛がした」と仮病を使って公務をサボり、こうして執務室に愛人を連れ込んでお茶会を開いている。
そして、その尻拭いをしているのは誰か。
式典の欠席連絡を入れ、代理人を立てる手配をし、関係各所に謝罪状を書き、さらに彼が本来決裁すべき書類の山を崩しているのは誰か。
「……あの、ギルベルト殿下」
「なんだ、アデーレ。見てわからないのか? 私は今、ミナとの大切な時間を過ごしているんだ。無粋な邪魔をするな」
私が口を開いた瞬間、ギルベルト殿下は露骨に不機嫌な顔をした。
まるで、美しい絵画に泥を塗られたかのような表情だ。
ミナ様も、私の声を聞いただけで大袈裟に肩を震わせてみせる。
「申し訳ありません。ですが、こちらの『夏季水害対策費』の最終決裁だけは、本日中にいただかなければなりません。下流の村々ではすでに堤防の補強工事を待っているのです」
「ああ、それか。後でいいと言っただろう」
「三日前にも同じことをおっしゃいました。今日が期日です。ここにサインをいただくだけで結構ですので」
私が書類を持って立ち上がると、ミナ様が怯えたように殿下の胸に顔を埋めた。
「ひっ……ギルベルト様、アデーレ様が怖いですぅ……。なんだか、睨まれているみたいで」
「よしよし、可哀想に。アデーレ、貴様という女は! ミナが怯えているだろう! その鉄仮面のような無愛想な顔をどうにかできないのか!」
殿下の怒声が執務室に響く。
私は立ち止まり、静かに頭を下げた。
「私の顔つきについては生まれつきですのでご容赦ください。それよりサインを」
「ええい、うるさい! 書類、書類、書類! 貴様の頭の中には紙切れとインクしか詰まっていないのか!?」
ガシャン、と鋭い音がした。
殿下がテーブルの上のティーカップを乱暴に払いのけたのだ。
東方の国から取り寄せた高価な磁器が床に散らばり、熱い紅茶が絨毯に茶色い染みを作っていく。
「もう我慢ならん!」
ギルベルト殿下は立ち上がり、私を指差して高らかに宣言した。
「アデーレ・フォン・クライスト! 貴様との婚約を、本日ただいまをもって破棄する!」
その言葉は、執務室の空気を凍りつかせるには十分だった。
近衛騎士たちが息を呑む気配がする。
しかし、私の心の中に湧き上がったのは、驚きでも悲しみでもなかった。
ああ、やっぱり。
という、諦めに似た納得だけだ。
「……理由は、伺ってもよろしいでしょうか」
「理由だと? 自分の胸に聞いてみるがいい! その可愛げのない態度、地味な容姿、そして何より、私の心を癒やすどころか、こうして仕事を押し付けてくる傲慢さ! 王太子妃になる女に必要なのは、ミナのような慈愛と優しさだ。貴様のような事務処理人形ではない!」
事務処理人形。
なるほど、言い得て妙だ。
十歳の頃に婚約してから今日までの十年間、私は彼のために全てを捧げてきた。
勉強嫌いな彼のために家庭教師用の課題を代行し、魔法の実技試験では彼が活躍できるように裏で魔力制御をサポートし、彼が王太子となってからは、遊ぶ時間を作るために全ての公務と政務を代行してきた。
私の肌が白いのは、深窓の令嬢だからではない。朝から晩まで執務室に籠りっきりで、太陽の光を浴びていないからだ。
私の表情が乏しいのは、感情を殺して膨大な利害調整を行ってきたからだ。貴族院の古狸たちを相手に、少しでも隙を見せれば食い殺される環境で、笑顔など浮かべていられるはずもない。
それら全てを、「可愛げがない」の一言で切り捨てるのか。
十年間、積み上げてきた私の人生を。
「……私が抜けた後、この業務は誰が行うのですか?」
私は努めて冷静に問いかけた。
未練ではない。純粋な疑問だった。
この国の行政機構の四割は、実質的に私の決裁で動いているのだから。
「はっ、何を心配しているかと思えば」
殿下は鼻で笑った。
「貴様は自分が特別だとでも思っているのか? たかが書類仕事だ。サインをして、ハンコを押す。そんな単純作業、誰にでもできる! そうだな、これからはミナに手伝ってもらえば十分だ」
「えっ、わ、わたしですかぁ? できるかなぁ」
「大丈夫だよミナ。アデーレにできて、君にできないはずがない。なんて言っても君は、私の選んだ運命の女性なのだから」
二人は見つめ合い、愛の世界に没入している。
誰にでもできる。
単純作業。
アデーレにできて、ミナにできないはずがない。
その言葉を聞いた瞬間。
私の頭の中で、張り詰めていた「何か」が、プツリと音を立てて切れた。
それは、私の理性を繋ぎ止めていた最後の糸だったかもしれないし、彼に対する情の残りかすだったかもしれない。
(――あ、もういいや)
それは、憑き物が落ちたような感覚だった。
怒りよりも先に、強烈な「安堵」が押し寄せてくる。
もう、朝四時に起きて他国の情勢をチェックしなくていい。
もう、深夜二時まで予算書と睨めっこしなくていい。
もう、この愚かな男の尻拭いをしなくていいのだ。
「……承知いたしました」
私は持っていた万年筆を、カタリと机に置いた。
それは、私の十年に及ぶ滅私奉公が終わった音だった。
愛用の万年筆だが、もう必要ない。
「ギルベルト殿下のおっしゃる通り、私は無能で可愛げのない女です。これ以上、殿下の輝かしい治世の汚点になるわけにはまいりません」
「ふん、ようやく自分の立場を理解したか。慰謝料くらいは払ってやるから、さっさと実家に帰るがいい」
「つきましては、本日ただいまをもちまして、王太子妃候補としての地位、ならびに王太子補佐官としての全業務を辞任させていただきます」
私は懐から、一枚の封筒を取り出した。
いつか来るかもしれないこの日のために、常に持ち歩いていたものだ。
胸ポケットの中で温まっていたそれが、今は冷たく感じる。いや、清々しく感じる。
表題には、簡潔にこう書かれている。
『辞表』と。
「な、なんだそれは」
「辞表です。殿下の許可もいただきましたので、これにて失礼いたします」
「ま、待て! 引き継ぎはどうする! この書類の山は!」
私が部屋を出ようとすると、殿下が慌てたように叫んだ。
机の上には、未決裁の書類が高さにして五十センチほど積まれている。これでも、私が午前中に半分片付けた残りだ。
この中には、明日の式典の進行台本も、隣国との通商条約の草案も、騎士団の給与台帳も含まれている。一つでも遅れれば国益に関わるものばかりだ。
私はにっこりと、今までで一番美しい淑女の笑みを浮かべて答えた。
「ご安心ください殿下。殿下のおっしゃる通り『誰にでもできる簡単な仕事』ですから、優秀なミナ様ならすぐに終わりますわ」
「えっ、そ、そうなの? ギルベルト様ぁ……これ、字がいっぱいで読めないよぉ」
不安そうに上目遣いをするミナ様に、ギルベルト殿下は引きつった笑顔を向ける。
「あ、ああ、勿論だとも! こんな紙切れ、ミナの愛の力があれば一瞬で……!」
「素晴らしい信頼関係ですこと。では、私はお邪魔虫ですので退散いたします」
私は優雅にカーテシー(膝を折る挨拶)をした。
貴族として、臣下として、完璧な礼儀作法で。
そして踵を返すと、一度も振り返ることなく執務室の扉へと向かう。
背後で「おい待て!」「これ、数字が合わないんだけど!?」といった声が聞こえた気がしたが、もはや知ったことではない。
ガチャリ、と重厚な扉を開ける。
廊下に出た瞬間、窓から差し込む西日がやけに眩しく見えた。
冷房の魔道具が効きすぎた執務室とは違う、生温かい風が頬を撫でる。
埃っぽい、けれど生きている空気だ。
「……終わった」
私は大きく伸びをした。
関節がパキパキと小気味よい音を立てる。
肩の荷が下りる、という言葉があるが、まさか物理的に体が軽くなるとは思わなかった。心なしか、視界も明るくなった気がする。
すれ違う近衛騎士たちが、一人で伸びをしている公爵令嬢を見てぎょっとした顔をしている。
彼らはまだ知らないのだ。明日から、彼らの給与支払いが止まることを。装備の更新が白紙になることを。
けれど、気にする必要はない。
今の私は、ただの無職のアデーレなのだから。
「さて」
私は誰に聞かせるでもなく、独り言を呟いた。
その声は、自分でも驚くほど弾んでいた。
「まずは家に帰って、泥のように眠りましょうか。それとも、ずっと行きたかった帝国の温泉地へ旅行に行こうかしら」
十年分の有給休暇。
使い道は山ほどある。
こうして、私の「悪役令嬢」としての人生は幕を閉じた。
そして翌日から、この国が未曾有の大混乱に陥る「終わりの始まり」が幕を開けることになるのだが――それはまた、別のお話。




