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9/11

命が粗末にされる季節

 大原家のお盆休みまで残すところ数日となった。子供たちは旅行を楽しみにしていたが、それぞれ悩みを抱えていた。

 夏休みも後半に入り、元気はそろそろ宿題が気になり始めた。問題集はほとんど手つかずの状態で、自由研究はテーマが見つからず、読書感想文に使う本は一ページも読んでいなかった。彼はなんとかなるだろうと高をくくっていた。去年は最後に家族に手伝ってもらい滑り込みセーフだったではないか。せっかくこの夏で一番のビッグイベントを控えているのに、その後のことを今から心配したくなかった。

 美咲は宿題をほぼ済ませ、後は旅行の絵日記を書くだけでよかった。ところが彼女には心配事があった。長く家を空けるが金魚は大丈夫だろうか?

 彼女は自分で責任を持って育てると決めていたので、誰にも相談しなかった。餌の箱には餌を与える頻度と量が書いてあるだけで、「一週間放っておいても死なないか」といった具体的な疑問への答えはなかった。しかし常識的に考えれば大丈夫なわけがなかった。自分だって一週間もご飯を食べなければ死んでしまうだろう。

 旅行前日、美咲は苦渋の決断を下した。彼女はこっそり玄関の金魚鉢を持ち出し、川に架かる橋の上でしばらく立ち尽くした。金魚は川で生きていけるだろうか、旅行という自分の楽しみのために金魚を危険にさらすのは無責任ではないか、でも狭い金魚鉢で暮らすよりも快適かもしれない、少なくとも家に放置し死なせるよりはマシではないか。

 美咲は思い切って鉢を逆さまにした。水と金魚は高い橋から水量の少ない川に勢いよく叩きつけられ、大きな水しぶきをあげた。彼女は胸のつかえが下りてせいせいした。

 数日後、一家は祖父母の家での滞在を終え、ハワイランドでリラックスしていた。この歴史あるリゾート施設は最盛期とあり、全国各地からの家族客で混雑していた。

 屋外の子供広場は頭上の大樽から大量の水が落ちてくるのが特徴で、元気は飽きもせずその下で滝行のふりをした。美咲は設置されている水鉄砲を使い兄や他の子に水をかけた。二人は空気で膨らむ巨大アスレチックで遊び、何度もウォータースライダーを滑った。父と母は日陰に設置されたビーチチェアに身を横たえ、大喜びする子供を見ながら話をした。

「思い切って連れてきてよかったな」

「そうね」

 父と母は子供たちを説得し、子供広場からスパに移った。露天風呂、ジャグジー、炭酸泉、岩盤浴、サウナなどと、スーパー銭湯を豪華にしたようなものだが、南国風の建物の中で水着姿になると開放的な気分に浸れる。疲れ知らずの子供たちはスパに長居したくなく、しきりに父と母の手を引き、「中に行こうよ」と急かした。

 屋内は流れるプールが特に見事だった。施設の四方をぐるりと一周するタイプで、ジャングル、火山、川、深海などのエリアに分かれていた。彼らはめいめい好きな浮き輪を使い、たまに水をかけ合いながら水上を漂った。壁には水槽が埋め込まれており、川のエリアでは淡水魚が、深海のエリアでは海水魚が泳いでいた。元気は小さなサメが、美咲はカクレクマノミがお気に入りだった。

 ビュッフェタイプのディナーも素晴らしかった。子供たちはチョコレートファウンテンに果物やマシュマロを絡めた。父と母はシェフに目の前でアワビを焼いてもらった。甘い物に飽きた子供たちはオムレツやハンバーグを食べ、父はトロピカルなカクテルに合いそうな肉料理を選び、母はケーキやムースなどのスイーツを味わった。たくさん泳いだのでいくらでも食べられた。

「いやぁ、楽しかったな」と、父が満足そうに言った。

「私もっと遊びたい」

「おれも!」

「でも明日には帰らないとね」と、母が残念そうに言った。

 早くも家のことを心配している両親とは対照的に、子供たちはこれからに期待していた。今夜の食事はまだ続くし、食後はフラダンスのショーがあるし、明日も午前中はプールに入れる。本当に終わりが来るその瞬間まで楽しい時間を一心不乱に満喫すればいいのだった。

 ホテルのチェックアウトを済ませた後、元気も美咲もエントランスホールで粘り、なかなか出ようとしなかった。兄は真冬のように重苦しい顔をし、妹は台風のように涙や鼻水をまき散らした。女性スタッフから「また来てね」と笑顔で手を振られても、首を横に振り「嫌だ」と答えた。

 帰りの車中、子供たちは憑き物が落ちたように静まり返り、やがて寝息を立てるようになった。夫婦はまた「連れてきてよかった」と言った。

 一家は夕方に帰宅した。一週間近く離れていたが家は何も変わっていなかった。玄関のドアを開くと自宅特有の匂いがし、ほっとした。一番最後に家に入った美咲は、「あ……」とつぶやいた。靴箱の上には空っぽになった金魚鉢が置かれていた。

「洗って物置にしまいなさい」

 母が大量の洗濯物を洗い、ベランダに干す間、美咲は外の水道で金魚鉢を丁寧に擦りながら、ハワイランドの水槽に飼われていた魚のことを考えていた。

 夕飯はかなり手抜きで、昨夜のビュッフェを思い出すと隔世の感があった。元気はしきりに「

楽しかった」と言った。美咲は押し黙り、料理に箸をつけようとさえしなかった。

「いつまでもくよくよしてないで少しは食べたらどうだ?」と父が見かねて言った。

「あの、クロちゃんとハナちゃんのことなんだけど」

「金魚のことか。そう言えば見かけないな」

「ずっと家の中に置いておくと死んじゃうかもしれないから、川に放してきたの。今ごろ元気にしているかなぁ」

「さぁどうだろう」

「え?」

「金魚ってけっこうデリケートだから、いきなり慣れない環境に放り出されると弱って死んじゃうかもな。水温も水質もぜんぜん違うし、そもそも金魚って野生の生き物じゃないし。色も目立つから鳥に狙われやすいそうだ。仮に生き延びたとしても、生態系を崩して、他の生き物に悪影響が……」

「ちょっとあなた」

 美咲は肩を震わせ泣いていた。父はもう十分と思い口を閉じた。

「ハワイランドは楽しかったなぁ」と、元気が念を押すように言った。

 その夜、美咲は一睡もしなかった。寝ればクロちゃんとハナちゃんが化けて出ると思った。彼女はつぶった目から涙を流しながら金魚たちに謝罪した。彼女は自分のことが許せなかった。自己の快楽のために生き物を犠牲にしたのだから、昆虫で遊ぶ兄と同じく残酷な人間ではないかと苦悩した。

 夏休みは残り一週間となった。元気はハワイランドに遊びに行ったことが誇らしくてならず、友達の家でテレビゲームをプレイしながら自慢した。

「ところで宿題は終わった?」と、その友達は冷や水を浴びせるように聞いた。

「いや、ぜんぜん」

「間に合うの?」

「たぶんね」

「今年の宿題はけっこう時間がかかるよ。難しくて、量も多いから」

 翌日、元気は別の数人の友達と外で遊んだ。活発で勉強嫌いな彼らだが、宿題はもうほとんど終わっているらしい。

「やばくない? 今からじゃあ、きっと間に合わないよ」

 雲行きが怪しくなってきた。しかも悪いことに、父は夏休み最後の土日に急に出張が入った。

「え? じゃあおれの勉強は?」

「お前の勉強だな」

 去年の夏休みの最終日、母は「来年はぜったい手伝わないからね」と言っていた。毎年同じことを言うので元気は本気にしていなかった。しかし今年の母は違った。

「あなたもう四年生でしょう? 一年生の妹が計画的に終わらせているのに恥ずかしくないの? どうしてあなただけできないの?」

「だって、もっと遊びたかったし」

「遊びたいならやるべきことを先にやらないと。目の前の楽しいことばっかり考えて嫌なことは後回しにする、いったい誰に似たのかしら」

 元気は土曜日も泣きながら説得を試みたが、母はやはり頑なな態度を崩さなかった。元気はこうして貴重な時間が刻一刻と失われていくのを惜しんだ。

「くそっ、なんでだよ?」

 こんな乱れた気持ちで宿題にまともに取り組めるわけがなかった。彼は完全に詰んだかに見えたが……。

 そうだ、何日か仮病を使って休めばいいんだ。それでも終わらなかった分はじいちゃんの家に忘れてきましたとか言い訳すればいい。自由研究は去年とおんなじやつを書き写せばいいや。どうせ担任の先生が変わったから分からないだろう。おや、そうするとまだ時間があるな。お母さんが出かけているうちに動画でも見るか。

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