諦めと満足
ぼくは駅前で拓馬と別れ、アパートに戻ろうとした。
住宅街に入る前に空が暗くなった。遠くで雷がゴロゴロ鳴り、一粒目の雨がぽつりと落ちた。雨は一気に勢いを増し土砂降りになった。大粒の雨が道路に打ち付け無数の水しぶきを上げた。ぼくは全身がずぶ濡れになってもお構いなしだった。雨のなか実家を歩くと懐かしい感覚がした。
雨は降り始めと同じく急にぴたりと止んだ。みるみるうちに雲がかき消え晴れ間がのぞき、夕焼け空にはアニメに出てきそうな嘘くさい虹が架かった。雨は道路や建物の表面の熱をすっかり奪うには足りなかったらしく、むっとする湿気を放ち、一帯を蒸し風呂のようにした。
雨が止むと全身が不快になった。前髪が目の前に垂れ下がり視界を遮った。服が、特に下着が肌に張り付き窮屈になった。シューズの中はぐちゃぐちゃで、歩くたびに「じゅう」と汚い汁があふれ出した。
ぼくが帰ると案の定、母さんが大騒ぎをした。
「びしょ濡れじゃない! そこで服を脱いで、すぐにシャワーを浴びなさい」
体を洗い浴室から出ると、ぼくの濡れた服を入れた二槽式の洗濯機の片側が回っていた。
「今から干せば明日には乾くから」
今日はこの家に泊まる最終日で、明日には首都に戻る予定だった。ぼくは帰る前に母さんとゆっくり話をしてみようと思った。
夕飯は母さんが作ってくれた。普段は手を抜くそうだが、おかずが多かった。ぼくと飲もうと本物のビールも買ってくれていた。
「乾杯。お疲れ様」
「母さんこそ」
さっきの雨のせいでいやに蒸すので、母さんは居間のエアコンをつけていた。それも洗濯機に勝るとも劣らないほどの年代物で、かなりカビ臭かった。母さんは窓を大きく開き、「しばらくすれば臭わなくなるから」と言い訳した。
「工場の仕事はいつから始まるの?」
「あなたと同じく明後日からよ」
「調子はどう?」
「どうしたの? 私のことを気にするなんて」
「だってじいちゃんが亡くなって、親戚を除けば家族は母さんだけになったんだし」
「そうねえ。でもそんなに心配しなくてもいいのよ、母さん一人でやっていけるから。それよりも……」
母さんは「どっこらせ」と言いながら立ち上がり、窓を閉めた。
「あなたはひょっとして私たちのせいで結婚を考えられないのかと思って」
「何でも人のせいにするつもりはないよ。それはぼくの問題だから」
エアコンがガタガタ鳴り、カクンと動きを止めた。焦げ臭い。
「騙し騙し使ってきたけどもう駄目ね」
「市営住宅でも申請したら? ここより安くて、まだ住めるほうだよ」
「私は大丈夫。本当に生活が苦しい人のために残しておかないと。それにアパートのほうが気楽でいいのよ。近所の人と関わらなくて済むから」
ぼくは自分が環境によって内気な人間になったと思っていたが、どうやら母さんの遺伝らしい。昔は会社の営業で、取引先に笑顔を振りまいていたから、そのことに気づかなかった。
「私は今の暮らしに満足しているの。仕事は五時には終わるし、三食しっかり食べられているし、テレビやスマホで気晴らしできるし。これ以上望みようがないわ」
「それなのに同じように暮らしているぼくのことは心配するんだ」
「あなたはまだ若いでしょう。うちは問題のある家庭だったけど、あなたまで失敗するとは限らない。幸せを手にしようとした経験がある諦めと、それがない諦めとではぜんぜん違うのよ」
「だからもういいよ」
久しぶりに酒を飲むのか、母さんは缶ビールを一本飲んだだけで酔ってきたようだ。
「一緒にお酒を飲むのは初めてね」
「そうだね」
「自分勝手って思われるかもしれないけど、あなたを不幸にさせてしまったけど、でも私はあなたを産んだことを後悔していない。あなたは私にとって唯一の生きた証よ」
ぼくは母さんのコップにビールを注いだ。母さんは声もなく泣いた。人は歳を取ると涙もろくなるというが、ぼくはまだその年齢に達していないか、あるいは逆で、ぼくの涙はとっくの昔に枯れてしまったのかもしれない。
じいちゃんの葬式でも泣かなかったし。