影と光
五時間目は体育で、六時間目は算数だった。
プールのおかげで体が冷えて涼しい児童たちは、暗い教室の中で窓から降り注ぐ強い陽射しに目を細め、倦怠感に襲われ、うとうとし始めた。担任の先生はワイシャツの脇を汗でびっしょり濡らし、チョークで黒板に寄りかかりながらしばらく動きを止めていた。時の流れはここでも緩慢だった。
勇と拓馬は同じ小学校と中学校に通った。勇は内気だが、拓馬の周りに自然と人が集まるので、その中の何人かとは友達と呼べる関係になれた。クラス一の人気者の拓馬の親友という高い地位についた。
ある日、拓馬が珍しく風邪で休むと、クラスの目立たない男子のグループが、わざと勇に聞こえる声でこう言った。
「今日の彼は元気ないね」
「大原くんがいる時はあんなに調子に乗っているのに」
勇は傷ついた。元気があるのは拓馬がいるから、ないのはいないから。ただそれだけなのに。
その後、勇はエアコン付きの進学校に、拓馬は地元の普通高校に上がった。勇は電車で、拓馬は自転車で通った。あんなに親しかった二人の接点はそこで無くなってしまった。
勇は初めて五月病というものを経験した。学校をサボりたいが、家に帰るわけにもいかないので、涙をこらえ歯を食いしばり通学した。勉強に身が入らず、中間試験の数学Aで赤点を取った。
六月になり梅雨入りしても彼にはまだ友達がいなかった。明るい連中が自然に群れをなし、根暗な連中が同じ匂いを嗅ぎ取り恐る恐る互いに接近した結果、彼がただ一人取り残された。彼は心が荒れているので常に外に反発し、人を寄せ付けない雰囲気を放っていた。自分は自由意志で孤立したのだという歪んだ誇りだけを頼りに生きていた。
毎日飽きもせず雨が降り続いた。校舎の中はじめっとし、壁や窓に結露が発生した。勇は教室に入っても一人だけ心の傘を差していた。その中に隠れていれば外界から隔絶され、自分だけのスペースを確保できるかのように。
そんな傘は嵐の前では気休めにしかならなかった。昼休み。同級生たちは仲のいいグループ単位で食事をした。教室内ではいつも誰かが大声で話をし、あちこちでどっと歓声が上がった。それを聞いていると勇は落ち着かず、食欲が一気に失せた。たまらず弁当箱を持ち廊下に出るが、 校庭、使われていない教室、体育館の裏、屋上などの手頃な場所には必ず先客があった。
残された場所は一つだけだった。彼は洋式の個室トイレに入り、その蓋に腰掛けた。両側の個室は絶えず人が出入りした。彼は他人の排泄の音とその臭いをかぎながら、音を立てないよう慎重に弁当を食べた。ご飯は涙の味がした。冷えた唐揚げはなかなか喉を通らなかった。こらえ切れず、食べた物をそっくり吐き出した。
その一方で拓馬は新しい学校で青春を謳歌していた。入学早々、素敵な彼女ができたのだった。
彼女は佳苗という名前だった。同じ町の出身だが、隣の小中学校に通っていたので、二人は高校で初めて知り合った。彼らは廊下ですれ違った時に交わした視線で、互いに「この人だ」と意識した。それだけで佳苗は昼休みに拓馬が自分のクラスまで来て食事に誘ってくれるはずだと信じた。
「食事まだだった?」
「ええ」
「一緒に外で食べよう」
拓馬が選んだのは校庭の桜の下だった。この年は暖冬で、春が早く、桜は入学式前にすっかり散っていた。
春らしい気持ちのいい天気だった。湿り気を帯びたそよ風、若葉の清々しい匂い、高くどこまでも広がる青い空。胸いっぱいに吸う空気は甘い水のよう。若者に恋をするなというのも無理な季節だ。
「外でお弁当なんて久しぶり」
「そうだな。おれも小学校の遠足以来だ」
若い二人はうきうきしてきた。弁当は天井の下で窮屈に食べるよりも美味しく感じられた。
「きみの弁当、なかなか豪快だな」
「うちはお父さんが作ってくれるの」
「いいお父さんなんだな」
「ええ」
幸せな彼らには周りも幸せに見えた。食事を終えた生徒たちは校舎から外に出て、思い思いの時間を過ごしていた。手をつなぎ図書館につながる通路を渡る男女。この陽気で馬鹿になったのか芝生の上で相撲を取る男子。そんな彼らを肴に話に花を咲かせる女子。テニスコートで必死に練習する部員。
「今日は楽しかった。また誘ってね」
四月のうちに、彼らは付き合っていると噂された。本人たちにはまだその確たる自覚と実感がなかったが、周りの評価により、交際が既成事実化した。
雨の日も風の日も彼らはどこかで一緒に弁当を食べた。彼らはそうすることで日々、学校への理解を深めた。青春を満喫中の彼らは小中学校よりもこの高校に強い愛着を抱いた。
帰るのもいつも一緒だった。どちらも部活に入っていないので自由な時間が多かった。自転車さえあれば、町の中ならばどこへでも自由に行けた。
よく訪れたのは「ルパセ通り」だ。この町のこの世代であれば、誰もがこの通りに家族との心温まる思い出を持っていることだろう。彼らはファミレスに入り、ドリンクバーとデザートを頼むと、大きなテーブルに学校の教科書とノートを広げた。店内にはそんな高校生や大学生が少なくなかった。
「さぁ、一気に集中して片付けちゃいましょう」
佳苗は大学進学を志していた。
「大学はどこに行くつもりなんだ?」
「まだ分からないけど、できれば首都の大学に」
「県内じゃ駄目なのか?」
「レベルの高い大学はみんな首都にあるから」
佳苗の足を引っ張り県内の大学で諦めさせるか、それとも自分も真面目に勉強し一緒に首都に行くか。拓馬の選択は後者だった。
愛する人と共に向上する日々は彼らにかつてない充足感をもたらした。時間は驚くほどあっという間に過ぎ、梅雨入りしたかと思えば梅雨明け宣言が出され、夏休みになった。
彼らは毎日学校に通った。教室では希望者向けの補習があり、図書室もエアコンが効き自習しやすかった。休み時間や食事中に将来について話すことは何よりの娯楽だった。
「でもせっかくの夏休みだから思い出を作りたいわね」
そこで拓馬は二つの提案をした。一つ目は電車を使い海に行くこと、二つ目は市内の花火大会に行くこと。
「せっかくだから海では一泊してゆっくりしよう」
佳苗はそれが何を意味するかを知っていたが、同意した。後は適当に理由を作り親を説得すればよかった。
ある補習のない平日の午前中、彼らはできるだけおしゃれして最寄り駅に到着した。どちらも少し緊張していた。大人を頼らず自力で公共機関を乗り継ぎ隣県の海水浴場に行くことはちょっとした冒険だった。
「うまくたどり着けるといいね」
「事前にパソコンでしっかり調べておいたから大丈夫さ」
電車の乗り換えにやや手間取ったが、予定通り昼には目的地に到着した。彼らは海の家で更衣室を借り、水着に着替えた。
発育途中の男女の体はどちらも健康的で、自然美を帯びていた。拓馬は肩幅が広く、背筋が発達し、滑らかなカーブを描いている。佳苗は小柄な割に胸が大きく、まだまだ潜在力を秘めているように見える。彼らは交際相手の魅力的なスタイルに目を細め、なるべくいつものように接しようとするが、周りを見るとすぐその必要がないことに気づいた。
「手をつなぎましょう」
「う、うん」
異性の手をつなぎ、一緒に焼けるように暑い砂浜を走り、意外と冷たい海水に足を踏み入れると、何でもできそうな気がしてきた。彼らは今まで抑えてきた気持ちを存分に発散させた。水を掛け合い、ビーチボールを投げ合い、誰の目もはばかることなくキスをした。青い空の下で藍色の海が大きくうねりを上げていた。
遊び疲れると遅めの昼食を取った。彼らは拓馬が家の物置から持ってきたポップアップテントの中に寝転び、相手の足に自分の足を絡ませながら焼きトウモロコシをかじった。拓馬は佳苗の胸元にこぼれ落ちた粒を唇でそっとつまみとった。佳苗は甘いジュースを拓馬に口移しで飲ませた。この日陰にいると快適で、時間も忘れるほどだった。
「さて、ホテルに行く前にもう少し泳ごうか」
彼らの宿泊先は歩いてすぐの海沿いにあった。外から見ただけでも立派なホテルで、海に臨む露天風呂までついている。
「ちょっと大丈夫なのこんな高そうなところ? それに高校生だけで泊めてもらえるの?」
「うちの父ちゃんに話したらやけに協力的で。一生に一度の思い出づくりなんだから楽しんでこいって予約を入れてくれたんだ」
そのおかげでチェックインはスムーズに済んだ。二人はエレベーターに乗り、部屋のフロアに上がった。
「素敵なお部屋!」
小綺麗な洋室だった。重厚な革張りのソファー、無料のお茶とコーヒーと現地の銘菓が置かれたローテーブル、落ち着いた温もりのあるランプが、室内のシックな雰囲気を演出する。大きなダブルベッドには二つの枕とふかふかのバスローブがきれいに並べられている。大窓の外では源泉かけ流しの露天風呂がちょろちょろと音を立て、低いすりガラスの外に広がる橙色の海には真っ赤な日が沈もうとしている。
「さっそく温泉に入ろうか」
拓馬が腰にタオルを巻き、先にウッドデッキに出て、寝湯の片側に身を横たえる。いい湯加減だがさっきの海水浴でだいぶ焼けたらしく、体のあちこちがぴりぴりする。それがようやく落ち着いたころ、大窓が滑る音がし、佳苗が入ってきた。何も着けず、赤裸々に。
彼は彼女の大胆さに驚かされた。彼女は温泉に入らず外を向き、両手で髪を後ろに縛りながら夕日と海からの風を全身に浴びた。没しつつあるのに尚も旺盛な太陽がガラス越しに佳苗の全身を白い輪郭で縁取る。日に焼けた肩が赤く輝く。すらりとした長い足の間だけ輪郭がぼやけ、神々しい虹色の光が陽炎のように揺らめいている。甘酸っぱい蜜柑の皮を剥いたような、青春が匂い立つ華やかな美だった。