祖父母との夏の思い出
木下勇は夏休みによく母方の祖父母の家に預けられた。
祖父母は最初の年は急なことで困惑したが、翌年からは孫のもてなし方を理解し、余裕を持って迎えられるようになった。余裕が出ると、勇のいとこに当たる真紀や俊幸も呼ぼうと思った。彼らにとって孫たちは太陽のように温かく老後を照らしてくれる存在だった。
旅行でもなんでもそうだが、実行中より計画中のほうが心躍るものだ。孫を預かる日が決まると、祖父母は地元の布団店に連絡し、子供用の布団を借りた。デパートに行き、サプライズとしてちょっとした商品を購入した。子供が喜びそうな菓子類も。それから食材も買い込まなければ。普段は魚中心だが肉を多めに。中辛のカレールーも忘れずに。
孫たちは八月の上旬にやってきた。勇の母や真紀と俊幸の父は、車の荷物を家の部屋に運び込み、居間で祖父母と麦茶を飲みながら談笑すると、軽くなった車を運転し遠くに去っていった。初めて預けられる一番年下で小学一年生の俊幸は頼りなく、泣きそうになった。
「だいじょうぶよ、じいちゃんもばあちゃんもいるんだし」と祖母が言った。
「一週間たったら迎えに来るって言ってたでしょ。捨てられたわけじゃないのに大げさよ」と、四年生の真紀が言った。
いとこ同士は特に仲は良くなかった。正月やお盆休みに顔を合わせるぐらいで、しかも真紀と俊幸が姉弟だけで話をするので、勇に割って入る余地はなかった。勇は祖父母と三人だけの去年の夏休みとは違い、堅苦しかった。
姉弟は新しい環境に慣れようと家の探検を始めた。
畳の居間には木彫りの熊をのせたテレビが一台あり、テレビ台の中には古いビデオテープがぎっしり詰まっている。柱には日めくりのカレンダーが掛かっている。居間とつながる台所は窓からの光が届かず薄暗く、熟した果物の匂いがする。通路を挟んだ四畳半の仏間は仏壇と神棚ぐらいしかないが、親戚が持ってきてくれたお土産が座布団の両脇に二重に積まれ、やや窮屈な印象を受ける。窓を閉め切っているから、さっき焚いたばかりの線香、仏壇に供えられた花の甘い匂いでむせ返るほどだ。
通路を奥まで歩くと右手がトイレで左手が階段になる。階段を上がると夫婦の寝室と、子供たちの親が使っていた部屋がある。部屋には畳まれた三枚の布団と子供たちの荷物が置かれ、壁際に大きなタンスと本棚が並ぶ。本棚には古いマンガと教科書が入っている。
「なんだ何もないじゃん!」
「ゲームも持っていってダメって言われたし、退屈になりそうね」
姉弟は落胆し一階の居間に戻った。そこでは勇と祖父母がテレビを見ていた。午後のワイドショーで、どこかで起きた詐欺事件を詳細に伝えている。姉弟には勇がなぜこんな番組を見ていられるのか不思議だった。
「ねぇじいちゃん、ヒマだよう」と、俊幸が言った。
「じゃあかき氷でも作るか」
「えっ!? 家で作れるの」
「もちろんさ」
それは手動のかき氷機だった。祖父が氷を入れ、ハンドルをくるくる回すと、細かくなった白い氷がきらめきながら下の容器に積もっていった。
「ぼくにやらせて!」
俊幸は祖父の手を借りながらゆっくりかき氷を作った。その間に祖母がイチゴ、レモン、ブルーハワイのシロップをテーブルに並べた。
勇と真紀も加わり、五人分のかき氷が完成した。子供たちは好きなシロップをかけ、あっという間に食べ終わった。
「次はイチゴがいい!」
「私はレモン!」
早く食べたいということなので祖父が一人で作った。その間、真紀は勇に「ベロ出して」と言った。
「青くて宇宙人みたいよ」
「お姉ちゃんだってまっかっかだ」
二人は勇をじろりと見た。彼も自然に舌を出した。祖母は舌を見せ合う孫たちを見ながら笑った。
「あなたたち信号機みたいよ」
結局三人は三杯食べ、すべての味を試した。するとまた手持ち無沙汰になった。
「よしよし。じゃあ本屋に連れてってやろう」
祖父は三人を乗せて車を十五分ほど運転し、数年前に「ルパセ」という大きなショッピングセンターができてから急に店が増え始めた通りにある、市内で最も大きな書店を訪れた。
冷房が効いている店内に入ると靴がキュッと鳴る。一階建てで天井が高く、一定間隔で設置されたシーリングファンが時の流れのようにゆっくり回っている。ファンの下にはジャンル別の本棚が整然と並ぶ。
「好きな本を一冊ずつ買ってあげるから選んできなさい」
勇はこの書店にほとんど来たことがなく、また読書習慣もないので、自分が読みたい本がどこにあるか、そもそもどんな本を読みたいかさえ分からなかった。しばらく店内を当てもなくうろつき、ついに入口から見て左奥にある子供向けのコーナーを見つけた。彼は幼稚園で先生から読んでもらった絵本を手に取り、懐かしさに浸った。
ふと胸騒ぎがし、現実世界に引き戻された。嫌な冷や汗が背筋を伝わり落ちる。気のせいか、いや、そうではない。あれが確かに、凄まじい勢いで押し寄せてきたのだ。
トイレは子供のコーナーと反対の方向にあった。今の勇には書店の広さが恨めしかった。天井からぶら下がる赤い女と青い男の看板を目印に早足で本の密林を抜け、男子トイレの中に入り一目散に大便所のドアを目指すも、それは二枚とも閉ざされ鍵の部分に赤い丸が表示されていた。
勇の心の中で何かがぷつんと切れた。彼の絶望の喘ぎは、持ち主の手を離れた風船のように、高く高く上がっていった。
カラカラカラ、カランカラン。
「勇、じいちゃんもうすぐだから待ってろ」
間に合った。後で分かったことだが、もう片方に入っていたのは俊幸だった。みんなかき氷を食べ過ぎたのだ。
男たち三人は長距離を完走したランナーのような晴れ晴れとした顔でトイレを出た。俊幸も勇も「死ぬかと思った」と言った。祖父は洗ったばかりでまだ湿っている手で二人の頭を乱暴になでた。勇と俊幸は祖父から離れ子供のコーナーに向かいながら、先ほどのピンチを振り返り、二人の間の距離を詰めていった。
真紀は小学生対象の推理小説を、勇はイラストが豊富な冒険物語を選んだが、俊幸だけはどうしても欲しい本が見つからなかった。
「ねえじいちゃん、すごろくにしてもいい?」
「かまわんよ」
帰りの車は紙袋とエアコンのカビの匂いがした。
意外と遅くなり、家ではもう祖母が夕飯の支度を始めていた。祖父は庭の植物や野菜に水をやった。真紀と勇は買ってもらったばかりの本を読み、俊幸はテレビでアニメを見た。祖父は家に戻り、「よいしょ」と言いながら冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「早すぎるんじゃないの」
「今日ぐらいはいいだろう」
居間にプシュッと音が響き、夜の訪れを告げる。家にエアコンはなく、ホコリをかぶった扇風機が利かん坊のように延々と首を振り、劣化したプラスチックの匂いを部屋中に行き渡らせる。開け放たれた窓からは水をまいたせいで湿り気を帯びた生ぬるい風が吹き込む。外で数匹のヒグラシが「カナカナカナ」と鳴き、鏡と鏡を合わせたように反響し、無限に広がっていく。縁側では蚊取り線香から煙がゆらゆらと立ち昇る。暑いが、耐えきれないほどではない。
祖父はテーブルの下からガサゴソと何かを取り出し、バリッと開けた。人工的な磯の香りが広がる。本やテレビを見ていた子供たちも思わずそちらに目を向ける。赤い袋、エビのイラスト。祖父は「見られちゃったか」と照れたふりをし、「少しだけだぞ」と言い、それを三人に均等に配った。
「ちょっとご飯の前なんだからやめてちょうだい」と、祖母が嫌な顔をした。
「すまんすまん」
おやつの時間でもないのに大人のスナック菓子を分けてもらう。酒がなくても子供たちには格別の味わいだった。
台所で揚げ物が始まると、祖父がテレビの音量を上げ、夏の夜の静寂が破られる。見たいアニメが終わりつまらなくなった俊幸は、誰にともなく「ねぇ、すごろくやろうよ」と提案した。
「夕飯を食べ終わったらな」と、祖父が答えた。真紀と勇は自分の本に没頭している。
「ええー、今すぐがいい!」
「それじゃあばあちゃんがかわいそうだ。五人全員で遊ぼう」
夕飯はカレー、唐揚げ、サラダと、大人の酒のつまみだった。祖母も孫たちが来てくれたことが嬉しく、今日は珍しくビールを飲むという。まずは全員で「いただきます」を、次に夫婦で「かんぱい」をする。テレビを消したので、子供たちが勢いよくカレーをかっこむ音が目立つ。
「そんなに急いで食べなくてもいいのに」
「おかわりはたくさんあるからね」
あんなにたくさん揚げたのに、唐揚げが一瞬にして聞えた。老夫婦二人だけの量を作ることに慣れていた祖母は驚き、「明日もお肉を買いにいかないと」と言った。
食べ終わり、祖母が皿を洗っている間に、男三人で風呂に入った。
「勇、背中を流してくれ」
そんなことが面白いのか、俊幸も勇の隣に並び、同じボディタオルを二人で持って祖父の背中をごしごしこすった。垢が落ち真っ赤になってもやめようとしなかった。
「もういいから自分の体を洗いなさい」
お湯は子供にとってはかなり熱かった。勇と俊幸がじっと耐えていると、体を流し終えた祖父が入り、お湯がざぶんと溢れ出した。
「あちち!」
「肩まで浸かって、あと十秒ゆっくり数えて」
「いにさしごろしはくじゅう!」
祖父が最後に上がると、脱衣所の床が水浸しになっていた。孫を迎えるとはこういうことだ。祖父は「やれやれ」と言いながら、使い終わったバスタオルでそれを拭いた。
真紀と祖母も体を洗い終え、五人で再び居間に集合し、すごろくを始めた。
完全に運任せのこの遊戯は、老若男女の差なく遊ぶ者全員を平等にする。子供相手だから適当に手を抜いてと思っても必ず真剣勝負になる。
「なに、落とし穴に落ちて一回休みだと?」
「新幹線に乗って五つ進むですって。運がいいわね」
「テストで零点をとってお小遣いを五百円減らされる? そんなの虐待よ」
「かき氷を食べすぎてお腹を壊して二回休み。ぼくらのことだね」
「すぐそこがゴールなのにちょうどいい目が出ない。みんなに追いつかれちゃうよ!」
一回で終わるわけがなく二回三回と続く。早く自分の番にならないかともどかしいが、他人の仮初めの運命も気になる。窓を開けているのに、居間は世界から隔絶され、彼らの声しか聞こえない。時計の針を見るといつの間にか十一時を過ぎている。
「もっかいもっかい!」
「また明日にしましょう。ばあちゃんは疲れちゃった」
「じいちゃんも。さぁ、早く寝よう」
ところが翌朝最も早く起きるのは祖父母だった。彼らは六時過ぎには目覚め、いつもどおりの自分たちの生活を送った。顔を洗い、水を飲み、新聞を読み、朝食の準備をする。ところが子供たちは八時を過ぎても起きる気配がない。
「夏休みだからっていつまでも寝てるのは良くないわ。そろそろ起こしましょう」
「べつにいいだろう。せっかくの休みなんだし」
九時前にはようやく子供たちが居間に勢揃いした。ご飯、焼き魚、味噌汁、漬物、納豆か生卵という前の世代にとって標準的な朝食は、彼らには逆に新鮮だった。
「うちの朝ごはんはいつもパンなんだ」
「うちもそう」
「お味はどう?」
「おいしいけど、朝からしょっぱいものを食べるのって不思議ね」
「昔の農家は夏も外で働き汗をかくからな」
そう言うと、祖父は麦わら帽子をかぶり、本格的に暑くならないうちにと庭の草むしりに出ていった。
「ねえばあちゃん、今日はなにするの?」と、俊幸が聞いた。
「特に予定はないけど」
「どっか遊びに行こうよ」
「先に勉強を終わらせてからね」
子供たちはそのことをすっかり忘れていた。歯磨きをすると、三人とも居間で勉強を始めた。するともう十一時になった。
「買い物がてら、ルパセでお昼ごはんを食べようか」と祖父が提案すると、子供たちは口を揃えて「賛成」と言った。
この町に住みルパセを一度も訪れたことのない人はいないだろう。空港のように広い駐車場には朝から多くの車が停まり、入口付近はほぼ満車になる。一階にはスーパー、フードコート、飲食店、各種専門店が入居し、たこ焼きやドーナツなどの美味しそうな匂いで食欲をそそる。二階には衣料品や玩具の売り場、それに大きなゲームコーナーがあり、メダルゲームの音のせいで自然と声が大きくなる。一階の熱が二階に逃げ、さらにゲーム機が発する熱が加わり、夏は暑く冬は暖かい。
五人は混む前に一階のフードコートで食事した。自由に選んでいいと言われたので、真紀はパスタ、勇はクレープ、俊幸は焼きそばにした。勇はもう自然と真紀と俊幸の間に座れるようになった。
「そんなに急いで食べなくてもいいのに」
「だって早くゲームで遊びたいんだもん!」
子供たちは祖父母が食べ終えるのを待たず、一人五百円ずつもらい二階に上がっていった。残された祖父母は静かにうどんと蕎麦をすすった。
「すっかり仲良くなって」
「子供はいいなあ」
五百円はあっという間になくなり、一階のスーパーで買い物をして帰ることになった。祖母は果物売り場で子供たちに、「スイカは食べたくない?」と聞いた。三人ともあまり興味を示さなかった。
「スイカ割りをやりたくないのね。そうか、じゃあ買わなくていいか」
「やるやる!」
「買って!」
夏なので目立つ場所で花火が売られていた。子供たちは大きな打ち上げ花火が入っているものを買いたがったが、祖父は手持ち花火が多く入っている方を選んだ。
「こっちのほうが長く楽しめるからな」
家に帰り、軒先でスイカ割りを始めた。一日のうちで最も暑い三時頃で、砂利の駐車場がぼやけて見える。セミが馬鹿の一つ覚えのようにミンミンと鳴き、そのやかましさで不快指数を高める。風がそよとも吹かず風鈴が鳴らない。祖父母は縁側に座り、五回勝負と決めたせいでなかなか終わらない子供たちのじゃんけんを見守る。
真紀、俊幸、勇の順で割ることになった。真紀は手ぬぐいで目隠しをし、祖父がどこかから見つけてきた木の棒を軸に、みんなの掛け声に合わせ十回転した。するとスイカを割るどころか立ってさえいられなくなった。
「がんばれがんばれ」
「お姉ちゃんもっと右!」
「真紀ちゃんそっちじゃない、もっと右だって!」
真紀は俊幸と勇の指示に従い、勢いよく棒を振り落としたが、それは地面に当たり手をしびれさせるだけだった。
「ちょっとぜんぜん違うじゃない」と、真紀が目隠しを取って言った。
「大成功!」と二人の少年は共に喜んだ。
次は俊幸の番だ。彼は姉が騙された仕返しすると分かっているし、勇もさっき自分と一緒に姉を騙したから当てにできないと思い、祖父母を頼った。
「じいちゃんばあちゃん、どっちに行けばいい?」
二人は途中までは正しく指示したが、俊幸がスイカに近づくと「後は自分で頑張って」と言った。勇はわざと「うわっ、まずい……」とつぶやいた。
「そこか!」
棒はスイカからだいぶ離れた場所に振り下ろされた。俊幸は「あともうちょっとだったのに!」と悔しがった。
勇も失敗した。三人で交代しながら割ろうとするがいつまでも割れなかった。そうする間に祖父は手頃な棒を二本見つけてきた。
「三人で仲良く割ったらどうだ?」
いっせーのーせーで! ドスッ。のっせーで! グシャッ。
少し狭いが、五人は縁側に並んで座り、形の崩れたスイカを食べた。子供たちは種を取りやすくするためスプーンを求めたが、祖父にこう教えられた。
「種なんて吐き出せばいい」
プッ、プッ、プッ。
祖父の口から飛び出た黒い種が放物線を描き、庭の土の上にぽつぽつと落ちた。
「じいちゃん上手!」
「でも庭からスイカが生えてきたらどうしよう」
「そしたら来年また食べに来るといい」
子供たちも祖父にならい種を吐こうとした。間違って噛んだり飲み込んだりした。うまく飛ばず顎に張り付いた。赤い身ごと吐き出した。膝から下が汁だらけになり、アリが寄ってきた。
「まぁたいへん。このぐらいにしておきましょう」と祖母が言った。
スイカで腹が膨れ休憩時間になった。二階は暑すぎるので、子供たちは居間で、祖父母は仏間で昼寝をした。孫たちも祖父母も疲れたのかすぐに眠りに落ちた、勇以外は。
彼は昔から昼寝に成功したことがほとんどなかった。いつも周りの子がすやすやと寝息をたてるのを聞きながら自分の考え事にふけった。
彼は両隣に枕を並べるいとこを交互に見ながら、自分たちはなぜ夏休みに祖父母の家に預けられたのかと疑問に思った。自分の親だけでなく、あのやさしそうなおじさんでさえ、我が子がいらなくなったのだろうか。
頭が冴えてきた彼はもう悠長に目をつぶっていられず、起き上がり自分一人で外に出た。
午後の暑さが和らぎ始める四時過ぎ。祖父母の家のある住宅街の人々は重い腰を上げ、活動を開始した。ある中年女性は近所の肉屋に行く途中に知り合いの高齢女性に声をかけられ立ち往生している。近所の子供たちはボールを持って公園に向かう。学生服を着た人は重そうな鞄を背負い公園の外の坂をとぼとぼと下っていく。公園の隣の消防署では隊員が暑苦しい格好で装備品の点検をしている。誰もちっぽけな勇に気を留めない。
勇は不安になり、来た道を戻ろうと思ったが、風景が逆さまになるのでやがて方向感覚を失ってしまった。闇雲に住宅街を抜け、しばらく田んぼと畑以外に何もない道を歩くと、遠くに線路が見えてきた。
道に迷っているうちに時間が過ぎ夕方になった。西日が山の奥に沈み、雲のない空を真っ赤に染め、日差しを背負う地上の形あるすべてを真っ黒にした。線路沿いには電信柱が広い間隔を空けて並び、無数のムクドリがのった電線が大きく弛み、いくつものアーチを描いている。駅にゆっくり電車が停まり、少ない乗客を吐き出し、またのろのろと出ていく。電車が向かう先、たった一駅離れた別の駅の近くには彼の家がある。それなのにどうしてこうも遠く、手が届かないのか。
悲嘆に暮れた彼は泣き出してしまった。大粒の波がきらきらこぼれ落ち、しぶきを上げ、地面を濡らした。
勇は駅前の交番の警官に連れられ祖父母の家に戻った。祖父母どころか二人のいとこさえも、彼に何があったのか根掘り葉掘り聞こうとしなかった。彼は、今はここが自分の居場所なのだ、それでいいではないかと思った。
泣き止むと人が、特に祖父が恋しくなった。勇はテレビをつけ晩酌を始めたばかりの祖父に近寄り、「宿題で分からないところがあるんだけど」と持ちかけた。
「小学三年生でもうこんなことを習うのか。今の子供は勉強ばかりで大変だな。じいちゃんが小さいころは……」
祖父の話は勇の耳に入らなかった。重要なのは祖父が彼に話をしてくれることだった。彼は「うん、うん」とうなずきながら、徐々に祖父に身を寄せていった。ビールが臭いのも暑苦しいのも構わず。祖父はいつか彼の肩に手を置き、ぽんぽん叩きながら遠い日の話を続けた。
夕飯が終わり、風呂に入る前に花火で遊ぶことになった。外の駐車場でもいいが、風情があるということで、五分ほど歩いたところにある川原に移動した。
土手の雑草の中に潜む虫の声が夜の川原にこだましていた。彼らは星あかりを頼りに手すり付きの石段を見つけ、そこから下りていった。夜の川面は満天の星空、周囲の家の光を反射し、流れが日中よりも急に見える。みんなサンダルで来たので歩きにくく、まだ太陽の熱を帯びている小石が足の下に転がり込む。
先頭を歩く祖父は適当なところを選び、蚊取り線香を焚いた。月の光を浴び、白い煙が一筋、夜闇にくっきり浮かび上がる。勇には昨日あったこと、さらにはさっき道に迷ったことさえ遠い日の記憶のように思われた。
「さて始めるか。好きな花火を取ってくれ」
赤、青、黄、緑の火花が、ホースの先端から出る水のように勢いよく川原に降り注ぎ、石を同じ色に染めた。十分きれいだが、一番幼い俊幸はさらなる喜びを求め、色違いの三本を一束にし、同時に火をつけた。祖父は思わず、「あぁ、それはいかん」と声を上げた。
三本は混ざり合うことで自分の色を殺した。三本まとめても燃え尽きるのにかかる時間は一本と同じだった。
「もったいないことしたわね」と真紀が言った。
俊幸はしょげ返り、無駄にしたぶん控えようと、真紀と勇が遊ぶのをただ眺めていた。それに気づいた勇は彼に手筒花火をそっと手渡した。
「これ面白いんだ。やってみな」
筒から溢れ出る大量の火花で俊幸の顔がぱっと明るくなった。真紀は俊幸を見て喜ぶ勇に好意を持った。祖父は平らな場所を探し打ち上げ花火をセットした。
子供たちの期待を一身に背負い上がったそれは、二色の小さく貧弱な花を咲かせ、あっけなく消えた。夜空には煙と光の残像だけが残った。花火大会で見るようなものを想像していた俊幸は、「なぁんだ、つまんないの」とぼやいた。
「さて、いよいよお待ちかねの線香花火ね」
祖母は束になったそれをほどき、全員に一本ずつ配った。祖父はライターを使い、祖母、真紀、勇、俊幸の順に火をつけてやった。
数秒後、服が風に揺れるようなパタパタという音と共に玉が焼け、四方八方に短い雲のような火を放ったかと思うと、すぐにまた静かになった。
「これで終わり?」と俊幸が祖父に聞いた。
「しっ! 見ててごらん」
わずかに揺れ動く明るい玉が火花を散らし始めた。散る方向、大きさ、形がいずれも無作為で、決して重複せず、稲光や雪の結晶といった自然現象のようだ。しばらく一定のペースだったが、急にパチパチパチと激しく密に散らしたかと思うと、勢いを保てず次第に下火になり、光が橙から黄に変わり、再び一つの玉に収束していった。俊幸はもう一度花を咲かせるかと期待したが、玉はいきなり首がもげるようにぽとりと落ち、足元の石をじゅっと焼いた。
子供たちは言葉を失い、川原の草むらで鳴く虫の声に耳を傾けた。祖母は再び線香花火を一本ずつ配った。
「まだあったの?」
「ええ。あと何回も遊べるわ。もうやりたくないの?」
「そんなことないよ」
「じゃあ火をつけるぞ」
子供も大人も飽きることなく花火を見つめた。俊幸は火花が少しでも長く散ることを願い、懸命に「がんばれ、がんばれ」と励ました。玉は彼の声援に応えず、あっさり力尽き、潔くぽとりと落ちた。
「もう一回!」
最後の一本はよく持った。ピークを過ぎ、下り坂に入っても懸命に粘り、棒の先端に必死にしがみつき、落ちる前にもう一度だけ輝きを放ってから、ついに惜しむように落ちていった。
「これで終わりね」と祖母は言い、遊び終わった花火をバケツに入れた。
「もっと遊びたかった」と子供三人が口を揃えて言った。
「夏はまたきっと来る、来年も再来年も。だからそんな残念そうな顔をしないでくれ」