大切な人よ
午前中、ぼくは母さんに別れを告げアパートを出て、トランクを引きながら寺に向かった。
ぼくはあの川沿いの遊歩道に寄った。あれから倍近く歳を取ってしまったが、ここを歩くと物憂げな日々が鮮明に思い出され、気持ちが若やいでくる。ぼくは強くなり感覚が麻痺し人の痛みを理解できなくなることを恐れたが、どうやら杞憂だったらしい。ぼくは日陰の涼しさ、日向の暖かさが分かる。今のぼくはもう、無理に日向を選んで歩かなくてもいい。
寺のある向こう岸に架かる橋が見えてきた。ぼくは昔、隣の小学校に転校した友達に会うため、この学区を分かつ橋を渡ったことが一度だけある。学校を休みがちで、他の同級生から「ずるい」と言われ疎まれていたけど、ぼくは拓馬がいない時によくその子に話しかけたものだった。ぼくにその気はなかったけど、彼は同情されていると思っていたらしい。久しぶりに会うと、彼はぼくにこう言った。
「転校したんだからもうかまってくれなくていいよ」
今年は雨が少なく、川が干上がり、水がほとんど流れていなかった。飛び降りたら、と悪い想像をしてしまうからか、橋が普段よりも高く感じられる。するとぼくの目に、手すりの前にできた縞模様の影の中にうずくまる少女の姿が留まった。日射病か、いや違う、泣いているようだ。
「きみ、どうしたの?」
「一生けんめい探したけど、見つからなかったの」
「何か大切なものを落としたんだね」
少女はこくりとうなずき、石に覆われた川底を指差した。
「だから、だから、お花をあげようと思ったんだけど、お花がかわいそうで。私はどうしたらいいの?」
「その気持ちを大きくなってもずっと忘れないこと、そして他の人にもその気持ちを伝えること、それが大切だと思うよ」
ぼくは寺の前にある小さなスーパーで線香と缶ビールを購入してから境内に入った。
この国は家よりも墓の方が多いのではと思われるが、最近は墓の数も減っているようだ。子供のころは墓石が林のように並び壮観だったが、今は子供や老人の歯のようにところどころ欠け、土がむき出しになっている。じいちゃんとばあちゃんも眠る木下家の墓は歯茎の中にぽつんと立ち、風が吹くとぐらぐら揺れ、近いうちに抜け落ちてしまいそうな様子だった。
どこか近くでセミが鳴き出した。その音は墓石の間で乱反射し、他のセミの共鳴を起こし、新聞紙についた火と共に空間を歪ませた。ぼくは線香を供え、そのほのかに甘い心落ち着く匂いをかぎながら合掌した。この歳になりぼくは死者に思いを寄せることを覚えた。目を閉じると自然と昔の情景が浮かび、じいちゃんやばあちゃんがぼくに微笑みかけてくる。じいちゃんの汗の匂い、ばあちゃんの唐揚げの味がする。浅い夢を見るように、ぼくはずっと目を閉じていたかった。
プシュッ、プシュッ。ぼくは缶ビールを二本開け、一本を墓石に注ぎながら、もう一本に口をつけた。それはじいちゃんがいつも飲んでいたビールで、昔と変わらぬ苦い匂いがした。元から少しくらくらしていたぼくはすぐに酔ってきた。ぼくは時どき石の椅子から腰を上げ、強い日差しに目を細めつつ、また酒を注いだ。泡立つビールは金色の筋になり黒い墓石を輝かせた。
つまみがなくても、ぼくは目を閉じ過ぎ去った日々の思い出を肴にしつつ、次の缶ビールの蓋を開けた。それがぼくにとって大切な人の何よりの供養になるはずだった。
先祖の霊は今年の夏もこの世に帰り、再びあの世へ去っていった。