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さみしい夢よ さようなら

 佳苗の母はずいぶん前から病気で入院していた。容態は一進一退を繰り返していたが、最近は悪くなる方が多かった。

 あの海水浴の後、佳苗は拓馬と会わない日になるべく母を見舞った。病院は彼女の家から交通機関を乗り継いで一時間弱の所にあった。家、外、電車、外、バス、外、病院と移動するので、病院に入る頃には風邪を引くほどだった。

 佳苗は寝たばかりの母の横顔を見ながら、むき出しの両腕に鳥肌を立てつつ、果物ナイフと桃を手にした。壁も天井も、エアコンもベッドも、テーブルも小さな冷蔵庫も、相部屋の病室内は奇妙なほど白だった。窓ガラスと白いレースのカーテンを透して降り注ぐ日差しでさえ雪のように白く冷たかった。病室内の影は薄くぼんやりしていた。

 ナイフで桃の皮をむくと、熟れた果肉の甘くしつこい匂いが、消臭剤のようにわざとらしく室内を満たした。この匂いのせいで静かに眠っている人たちが目を覚ますのではないかと思われた。皮を剥ぎ、果肉を断ち、それをゆっくり咀嚼する音がいやに目立ち、微動だにしないこの部屋をガシャンと割ってしまいそうだった。

 母が起きるまで待とうと思ったら夕方になった。母の呼吸とともにわずかに上下する布団は穏やかな海のよう。海は今や鮮やかなオレンジ色になっていた。触れると浅瀬の水のようにほんのり温かい。佳苗はその中に顔をうずめ、母と日差しの匂いを胸いっぱい吸い込んだ。

「そろそろご飯ね。起こさないと」

 母が半分ほど食べたところで父も来た。母の前では元気に振る舞うが、父は最近疲れていた。仕事一筋だった男性にとって家事は相当な負担だった。それに父は母を心から慕い、頼りにしていた。まだ若く美しく素敵な母が徐々に損なわれていくのに何もできず、父は自分の無力が憎かった。

「最近家のほうはどう?」

「佳苗と二人きりだから寂しくてしょうがないよ」

「お父さんこないだ料理中に塩と砂糖を間違えて大変だったのよ。早くお母さんの料理が食べたいな」

「しょうがないわね。やっぱり私がいないと駄目なのね」

 この日は病室に他の訪問客がなく、佳苗たちの窓辺だけがほのかに明るく見えた。時おり母の笑い声が漏れた。娘が冗談を言い、父が必死に否定する声も。

 病院を出て真っ暗な駐車場に向かう途中、娘と父の間に会話はなかった。車に乗り、シートベルトを締めても、父はすぐ発車しなかった。ふぅとため息をつき、頃合いを見計らい、こう言った。

「今日も弁当でいいか?」

「うん」

 スーパーに着くころにはもう暗くなっていた。店は閑散とし、弛緩した雰囲気が漂っていた。佳苗はこの時間帯のスーパーが一番好きだ。小さいころ、家族三人で遠くまで遊びに行き、夜になり戻ってくると、母は決まってこのスーパーに寄った。

「今日は疲れちゃったからお弁当にしましょっか」

「いいよ!」

 こんな日は月に一日あるかないかだった。佳苗は好きな弁当とジュースを手に取った。翌日食べるお菓子も選ばせてもらえた。日常生活から外れ、急に途方もなく大きな自由を与えられたようでわくわくした。

 今はさすがにもうそんな新鮮な感覚は失われていた。佳苗は気を使い、半額になった好きでもない弁当と、さらに翌日に学校で食べる弁当の材料をカゴに入れた。彼女は少し前から自分で作るようになっていた。

 二人が自宅のマンションに帰り食事を始めたのは八時過ぎだった。父と娘は今や将来よりも、母が元気だった昔のことをよく話した。父は最近すっかり涙もろくなっていた。泣きながら母との馴れ初め、新婚旅行、佳苗の誕生を語った。

「母さんがもし治らなかったら、おれはどうして生きていけばいいんだ」

「おかしなこと考えないで」

 むしろ佳苗の方が将来について計画的な話をした。本当は首都の大学に行きたかったけど、母のことが心配で生活費もかかるから、家から通える県内の大学を選ぶ。そうすれば勉強の時間を減らし、もっと家事を手伝えるし、母のお見舞いにも行ける。聞いているうちにまた父の涙がこぼれた。

「苦労ばかりさせて済まないな」

「いいのよ」

 少し前までは、父は何でもできる万能の存在と思っていたが、最近は人としての弱さばかりを見せられていた。佳苗の父への愛情はそれで薄れることはなかった。家族なのだから助け合わなければ。

「……で、どうする?」

「えっ?」

「なんだ話を聞いてなかったのかよ。花火大会には何を着ていこうかって」

 学校の午前中の補習が終わり、拓馬と佳苗は弁当を食べる場所を探そうと廊下を歩いているところだった。

「ふ、普通の格好じゃ駄目なの?」

「風情がないなぁ。みんな浴衣を着て行くんだぞ」

「でも私、浴衣なんてあったかしら」

「おれは一回も買ったことないから持ってない。浴衣ってどこで買うものだろう?」

「さ、さぁ」

「どうした? なんか元気ないな」

「なんでもない。でも私は家にあったような気がするから買わなくても良さそう」

「じゃあ一人でルパセにでも行くか」

 その日の夕方、佳苗は母の部屋のクローゼットを整理した。少し前まで母が着ていたはずの服が妙に懐かしかった。仕事で着るジャケットには化粧の匂いが染み込んでいた。家での普段着には台所の匂いが凝縮されていた。佳苗は思い出を一枚、また一枚とめくり、ついに遠い夏の日の記憶を探り当てた。それは上段の収納ケースの中に入っていた。丁寧に畳まれた浴衣を広げ、姿見に映すと、そこには若き日の母が立っていた。佳苗は記憶にある若い母と今の自分がそっくりであることに驚かされた。それで家族三人で仲良く夏祭りを見物した時の細々したことが、まるで昨日のことのように思い出された。単調に延々と続く祭り囃子。好きなキャラクターの綿菓子なのに意外と美味しくなく残してしまった後ろめたさ。水風船がぐしゃりと割れ濡れた母の浴衣の裾。平気よ、泣かないで、もう一つ買ってあげるからね。

 外の遠くから何か音楽が聞こえてきた。それは町内をゆっくりめぐり、次第に佳苗のマンションに近づいてきた。音楽が止むと、女性の機械的な声が、回収できる品物を読み上げていった。それが止み、また音楽になった。なぜこんな哀愁を帯びた物悲しい曲を選んだのだろう? 夏の夕方を不気味に暗くし、一気に秋まで時を進めてしまいそうだ。だがしばらく聞いていると、それは大人になりかけの佳苗の胸を打ち、じんとさせた。彼女は知らなかったが、曲は「青い山脈」だった。

 歌詞のすべてを聞き取れたわけではないが、その心は理解できた。佳苗は急に母と話がしたくなり、もう遅い時間だがお見舞いに行くことにした。

 記憶の母と病室に横たわる母は別人だった。眼前の母はやつれ、一回りも二回りも小さい。あれほど艶があり美しかった髪は潤いを失い、枕に絡まっている。しかし芯の部分にある母性、佳苗を産み落とし大きく育てた強さは今も失われていない。佳苗はまだ母に甘えられることを喜んだ。

「さっきお母さんのクローゼットの中から浴衣を見つけたの。あれ、ちょっと借りてもいいかな?」

「もちろんよ。お祭りにでも行くの?」

「うん。河川敷の花火大会に」

「あなたがまだ幼稚園生のころに行ったことがあるわね。帰りはあなた眠っちゃって。ずっとお父さんが遠くの駐車場までおんぶして運んでくれたのよ。それがもうこんなに大きくなったのね」

 眠っていたはずなのに佳苗はその時のことをよく覚えている。父と母から何度も聞かされ、自分で記憶を補完していったのかもしれない。

「友達と見に行くの?」

「うん」

「男の子?」

「……うん」

「良かったじゃない」

 佳苗は抑えようとしたが、母の笑みを見ていると自然と笑みがこぼれた。

「どこで知り合ったの、いつから付き合ってるの」

 佳苗の話を聞くと、母の顔に少しだけ赤みが差した。

「あなたが素敵な恋愛をしているだなんて、お母さんとっても嬉しいわ。がんばって病気を治すから、あなたも私のことを気にせず思いっきり遊んできなさい」

 しかし母の元気は長続きしなかった。翌日、病院から連絡を受け早めに退勤した父と共に病院に行くと、主治医から余命宣告を受けた。父は崩れ落ち、そのまま医者に土下座し、どうか命だけはと懇願した。今の今まで母が必ず治ると信じていた佳苗は頭が真っ白になり、何も考えられなかった。

 佳苗はしばらく補習を休んだ。母がこの世を去るのならば勉強にも大学進学にも意味はない。ただベッドに横たわり、傷ついた動物のように、傷が癒えるのをじっと待った。

 ブーブー。

 鞄の中で携帯電話が鳴ったようだ。どうせジャンクメールだろう。

 ブーブー。

 うるさいな、放っておいてよ。

 ブーブー。

 彼女は跳ね起き、乱暴に携帯電話を広げ、メールを削除しようとした。ところがそれは拓馬からだった。

「学校休んでるけどどうした?」

「夏風邪でも引いた?」

「会って話がしたいんだけど」

 佳苗は遠くまで移動したくなく、自宅近くの大きな公園に来るよう拓馬に告げた。彼女は帽子をかぶり外に出た。

 日差しは強いが珍しくカラッとした日で、午後の公園には多くの子供と保護者が集まっていた。桜、イチョウ、クヌギ、ケヤキなどが遊具と砂場に心地よい日陰を作り、子供たちをやさしく守っている。保護者たちはキノコの屋根がついたベンチに座り、ベビーカーを揺らし赤ちゃんを寝かせながら小声で話をしている。

 佳苗は小さい頃ここが好きだった。日が長い夏であれば、仕事から帰ったばかりの母が夕飯の支度に取り掛かる前に、公園に行こうと誘ったものだった。彼女はブランコが好きで、母から背中を押してもらうとどこまでも高く、遠くに行けそうだった。あの真っ赤な夕日、息が止まるほど強い風、全身がふわりと浮かびあがる感覚、母の手の力強さ。

「泣いてるのか?」

 拓馬は不思議そうに佳苗の顔を見た。彼は学校の鞄から、途中のコンビニで買ったアイスと木のスプーンを取り出した。

「これでも食って元気だせよ。レモン味、好きだろ?」

 二人は水辺のベンチに座り、池の飛び石で通せんぼなどをして遊んでいる子供たちを眺めながら、少し溶けてきたシャーベットを食べた。拓馬は佳苗がいない間に学校であったことなど当たり障りないことを話し、彼女が自分から口を開くのを待った。

「実は、お母さんの具合が良くないの」

「入院してるのか?」

「余命六カ月だって」

「……」

 拓馬は溶けたシャーベットをジュースのように飲み干した。子供たちは池の向こうに渡り、公園を出ていった。

「お母さん、若いんだろ」

「四十二歳」

「そっか。でもまだ分からないぞ」

「?」

「テレビとかでよくやってるじゃん。医者から余命宣告受けたけど、そこから回復して、今も元気にやっていますみたいな。佳苗のお母さんなんだからいい人なんだろう? だったら大丈夫さ、神様だってそんな意地悪じゃない」

「そうかしら」

「そうさ。そんな簡単に死んでたまるか。医者が間違ってるんだよきっと。だからそんなにくよくよするなって。今はしっかり補習に出て、お母さんを安心させることが重要だ」

「そのことなんだけど、実はもう、首都の大学に行くのはやめにしようと思って」

「どうして?」

 佳苗は父に言った理由を繰り返した。

「それじゃあ仕方がないな。だったらおれも首都に行くのはやめにする」

「でもあなたは私と違って家庭的に恵まれているんだし、こんな田舎じゃなくて首都で自分の力を試してみたら?」

「佳苗のいないところなんて行っても意味がないよ。おれも地元に残ろう」

「……そう」

「うれしくないのか?」

「そんなことないけど」

「となると、おれももう補習に出なくてもいいな。急にヒマになってきたぞ。どこか遊びに行こうか?」

「私はお母さんに付き添っていたいの」

「そうだったな。おれもお見舞いに行ってもいいか?」

「だいじょうぶ、気を使わないで」

 二人は次の土曜日の花火大会まで会わなかった。佳苗は毎日病院に通い、拓馬は高校の同級生と近場で遊んだ。

「おっ、ついに佳苗ちゃんと別れたのか?」

「んなわけねーじゃん。一緒に花火大会に行くことになってる」

「羨ましいな。花火が終わった後はラブホにでもしけこむんだろ」

「ふふん、まぁそんなところだ」

 今年の八月の第三土曜日はちょうど終戦記念日だった。朝から快晴で、セミが至る所で元気に鳴いていた。窓を開けると外の熱気が家の中にもわっと押し寄せた。今日も暑くなりそうだ。拓馬は部屋を掃除し、布団を干しながら空を見上げた。低空飛行するヘリコプターが近づき、その大きな機械音でセミの声を圧し、また悠然と去っていった。どこかで風鈴がチリンと鳴った。

 夕方近くになると、浴室で水浴びをし心身ともにリフレッシュし、真新しい匂いのする灰色の浴衣に袖を通した。電車で開催地の河川敷に近い駅に行き、駅前の広場で佳苗を待った。

 広場は同じ年頃の浴衣の男女でいっぱいだったが、拓馬は駅から出てくる佳苗が一目で分かった。紺地に赤と白が鮮やかな牡丹の柄が入り、ややレトロな印象だが、髪を高く結び白いうなじが出ると、日本女性らしい美を感じられる。

「どうかしら?」と、佳苗は物憂げに拓馬に聞いた。

「よく似合ってるよ」

 二人は人の流れに乗り、慣れない下駄をカランコロンと響かせながら歩いた。市では最も有名な大会なので見物客が多く、遠い所に臨時駐車場が設けられ、警備員が交通整備をしている。コンビニはその広い駐車場を利用し、屋根だけのテントを設営し唐揚げや飲み物を売っている。土手には屋台がずらりと並び、赤や黄の原色で地上を彩っている。

「腹減ったな。なにか食ってこう」

「私はいい。お腹空かないの」

「体調悪いのか?」

「慣れない帯を締めたからちょっと」

「それにしても人が多いな。どこで見物しよう?」

 河川敷は見物客で混雑し、割って入る余地もなかった。人々は大会の協賛企業の名前が入った団扇を使い、人体が発する熱と匂いを送り合い、空気を淀ませている。拓馬たちは二人きりになれる場所が欲しかった。

「そうだ、あそこなら」

 彼らは駅前のアーケード街に戻り、古い百貨店の屋上に移動した。硬貨を入れて動くタイプの遊具が並ぶそこは穴場で、数組の地元客がシートを敷き酒盛りをしていた。拓馬と佳苗は手すりに寄りかかるようにして花火を見物できた。

「ここに来るの久しぶり」

「おれも小さいころはよく来たな。ルパセができてからはすっかりご無沙汰してたけど」

「お客さん少ないみたいね」

「潰れるって噂もあるな」

「花火が終わったら何か買っていきましょう」

 一発目の花火が上がり、黒い夜空に銀色の針をまき散らした。続けてカラフルな菊の花が咲いた。空は光と煙で次第に白くぼやけてきた。風がデパートの屋上に火薬の匂いを運んだ。遊具の飛行機のペンキが剥がれた部分が花火と同じ色に輝いた。佳苗の日に焼けない肌は夜空の光を柔和に反射した。拓馬は花火よりも佳苗の顔ばかりを見た。その輝く目は夜空に何かを探し求めているようだった。

「本当に綺麗ね」

「そうだな」

 前半が終わり、休憩時間になった。地元客は思い出したように飲み食いを再開した。屋上の遊具は再び無機質になった。拓馬も佳苗もトイレに行かず、空をぼんやり眺めていた。

「ここからがいよいよ本番だ」

 後半は打ち上げの頻度が上がった。形も単調な菊や牡丹だけでなく、星やハートが加わり、夜空をロマンチックな色で染めた。万華鏡のように光が絶えず変化し、見る者に時の流れを忘れさせた。だから終わりは唐突に訪れた。大会を締めくくるスターマインがもう始まってしまったのだ。いくつもの花火は生き急ぐように、飛んで火に入る夏の虫のように、壮大な絵を休むことなく次々と描いていった。煙と火薬の匂いが増した。ついにすべてを打ち尽くし、鳴りを潜めた。美しい花火は一瞬の輝きで人々の心に無限の印象を残した。

 花火の爆音による耳鳴りを癒やすように、佳苗の耳に「青い山脈」の味わい深い歌声が流れた。実際に聞いている時よりも歌詞が鮮明に聞こえた。


 古い上衣よ さようなら

 さみしい夢よ さようなら

 青い山脈 バラ色雲へ

 あこがれの

 旅の乙女に 鳥も啼く

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