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心残りは“ただいま”

作者: ノイジョン

 「……ただいま」


 ドアノブから手を離すか離さないかのところで、力なく呟いた男――新谷六郎はすっかり疲れきっていた。

 どか、と玄関に座り込むと緩慢な動作で靴を脱ぎ始める。

 どうも身体中そこかしこが痛い。しかし、それも仕様のないことのように思う。なんせあんなところで眠ってしまっていたのだから。

 六郎は靴を脱ぎ終わると、今日一日をぼんやり振り返った。


 朝、五時起床。

 二ヶ月前に今の支社に転勤になって以来、毎日この時間だ。

 単身赴任にならなかったのはありがたいが、娘どころか女房も起きないうちから家を出るのは正直辛い。

 朝早く出て、夜遅く帰る。そんな日がここしばらく続いていた。

 ――そんな状態で迎えた今朝。

 けたたましく鳴り響くケータイのアラームを止め、眠た目のままのそのそとリビングへ入ると、珍しく佐智子が先に起きていてテーブルについていた。

「あれ……? おはよう。どうした? こんな時間から起きてるなんて珍しいな」

 六郎はグラスに水を注ぎながら目の前の妻に言った。

 しかし、彼女は真っ直ぐに見つめてくるだけで何も言ってはこない。

 不審に思った六郎の目に一枚の紙切れが映った。

 紙面の半分は白紙。もう片側にはびっしりと文字が書き込まれている。そして、そこには佐智子の署名と捺印が。

「お前! これ、まさか……」

「そう。離婚届」

 六郎は混乱し、頭を抱えた。

 なぜ。

 どうして。

「いったい何が気に入らないんだ!」

 おれは頑張ってる。仕事を頑張ってる。何のために? 決まってる。家族のためだ。

 毎日毎日必死で働いて、その結果がこれか。

 ふと、時計を見るとすでに五時半を廻っている。いかん。遅刻だ。

「……とにかく、今夜帰ってからちゃんと話し合おう。な」

 急いで背広に袖を通すと、そう言って家を出た。

 朝食をコンビニのおにぎりで済ませたこともあってか、なんとか電車の時間には間に合った。

 胃を突き上げられるようなこの気持ち悪さは、久々の全力疾走のせいだけではないだろう。

(――あいつ……なんで急にあんなこと)

 電車に揺られながら、会社に向かう道すがら、エレベーターの中、ずっとそのことばかりが頭の中を巡っていた。

 仕事中もずっと上の空。それでもなんとか仕事は済ませ、すぐさま帰ろう、そう思ったが、

 ――帰ったら、離婚について話し合わなければならない。

 それは避けて通るわけにはいかないし、なんとか説得しなければ、とも思うのだが……妻とふたり、離婚届けを挟んで話す、その光景を想像すると、

 ――どうにも億劫になった。

 帰ろうかどうしようか迷っていると、狙いすましたように同僚が声を掛けてきた。

「飲みに行こうぜ」

 と。

 六郎は、ついその誘いに乗ってしまった。今日だけはそうすべきでないとわかってはいながら、問題を先送りにした。

 同僚たちとの飲み会は殊のほか楽しかった。いや、無理に楽しもうとしていたのだ。だからだろうか。普段では考えられないくらい飲みすぎてしまい、みんなと別れる頃には完全に酔いつぶれていた。

「大丈夫ですか」

 そう言って心配してくれたのは、いったい誰だったろうか。それすらもわからないぐらい酔いが回っていた。

 どこをどうやって帰ったのか――まあ、タクシーでも拾ったのだろう。或いは、誰かがつかまえてくれたのか。

 とにかく、どうにかして家の近くまで帰ってきた。帰ってきていた。はっきり意識を取り戻したのは駅前の大通り。六郎はあろうことか路上に大の字になって寝ていた。

 なぜタクシーで家の前まで行かなかったのか。いつの間に眠ってしまったのか。何一つ判然としない。

 時計を見ると、深夜二時を過ぎていた。

 身体中に走る痛みに耐えながら、なんとか家に辿り着いた。

 真っ暗だ。

 明かりがついていない。当たり前だ、何時だと思っている、と自嘲の笑みをこぼす。

 玄関のドアを引くと、ガン、と重い音が響いた。

 カギが掛かっている。

 どんなに遅くなっても、いままではカギなど掛けられることはなかった。

 再び、気が重くなった。しかし、今更逃げるわけにはいかない。

 六郎はカギを開けて中に入った。

「……ただいま」

 六郎はドアノブから手を離すか離さないかのところで、ぼそり、と呟いた。

 玄関の明かりはつけたが、電球が切れ掛かっているのか薄暗い。

 上がり框に、どか、と座り込むと靴を脱いだ。

 脱ぎ終わって、しばらくぼんやりしていると、そろそろと後ろから近づいてくる気配に気づいた。

 妻、佐智子である。

 六郎は振り返り、佐智子の姿を確認すると、

「やあ、ただいま。悪かったな遅くなって」

 言いながら、力なく微笑んだ。

 見れば、佐智子は蒼くなって立ち尽くしている。

 目を大きく見開き、口をあんぐりと開けたその表情は、まるで――

 まるで、幽霊でも見たかのような――

「お、遅く、なってって……なん、で――」

 口許を押さえながら搾り出すように声を発する。

「いや、飲みに誘われてな。少し飲みす――」

「あなた、死んだんじゃない」

 言われた言葉の意味がわからなかった。

「……え」

 わかるはずもない。だって、自分はここにいる。間違いなくここにいる。

「……おい、何言って――」

 こうやって、妻と会話している。なのに――

「あなたは死んだのよ!」

 そう言われて、はっとなった。

 突然、頭の中に再生される映像。

 酔っていた。駅前で、信号で止まっていたタクシー。それを、もう家に着いたのだと勘違いした六郎は、

「降ります」

 と言って、金を払った。

 まだ駅前だと気づいた時には、タクシーは走り去った後だった。

 六郎は、ちくしょう、と毒づくが、今更どうしようもない。それに、駅から家までなら大した距離でもない。

 まだぼんやりしていたが、いつまでもこんなところに立っていても仕方がない。

 ふらつく足で奇怪なステップを踏みながらも六郎は大通りに出た。もちろん、その方が近道だったからに他ならない。

 だが、大通りを横切って道路の向こう側へと渡ろうとして――クラクションが鳴った。音の方向に顔を向けると、すでにトラックが目の前に……

 そして。

 そして――

「しん、だ……?」

 酔いのせいか、寝ぼけていたのか、信号を確認しなかった――かも知れない。

 しかし。

「……嘘だ。だって、だって――」

 死んでしまったのなら、ここにいる自分はいったいなんなのだ。ここに確かに存在しているこれはいったい。

「それはこっちの科白よ……! なんで? 突然事故に遭って、お葬式も終わって、初七日も済んで、やっと落ち着いてきたっていうのに――」

 佐智子も混乱している。気持ちを落ち着けようとしているのか、必死にこめかみを押さえている。

「――ふう……とにかく、上がって」

 そう言って奥へと入っていく佐智子の背中がひどく遠いものに思われた。


 リビングと隣り合っている和室には仏壇がある。そこにひとつの写真が増えていた。

 六郎の遺影である。

 色を失った自身の笑顔は、自分がこの世界から外れてしまったことを物語っていた。

「……おれ、死んだんだな」

 六郎は今にも泣きそうだったが、不思議と涙は出なかった。死人だからなのか、それとも他に要因があるのかは知る由もない。

「………」

 佐智子は何も言わない。かける言葉が見つからないのだ。それに、まだ頭の整理がついていないのも確かだった。

「……佐奈は?」

「眠っているわ」

「……そう。そうだよな。こんな時間だもんな」

「……会っていく?」

「ああ、顔ぐらいは……見たいな」

 辛くなるだけだと知りながらも会わずにいられなかった。

 子供部屋は真っ暗だったが、廊下から漏れ出す光が微かに佐奈の顔を照らしていた。

「少し……大きくなったか」

 考えてみれば、娘の顔を見たのは何日ぶりだろう。と、六郎は思う。

 それほど、顔を合わすことがなくなっていた。

「――この子、あなたが死んだって知った日、泣き止まなくて大変だったんだから……」

 佐智子が声をひそめて言った。

 そっと手を伸ばす。六郎の手が佐奈の頬に触れる。

 ――あたたかい。

 その感触がひどく懐かしく感じられ、切ない気持ちになる。

 もっと遊んでやればよかった。もっと撫でて、もっと手を繋いで、もっと――そばにいてやればよかった。

 胸が苦しい。なのに……なのに――涙が出ない。

 苦しさが胸に溜まって、それが解き放たれずに残り続ける。

「――ごめん……佐奈ぁ、ごめんな」

 上擦った六郎の声は、泣き声に酷似していた。


「――すまない」

 二人はリビングに戻っていた。

 テーブルを挟んで向かい合わせに座っている。

「……いいわよ、謝らないで。それに――謝るのはこっちのほう」

 妻の口から出た思わぬ言葉に六郎は顔を上げた。

「……え」

 佐智子はうつむいて、六郎を見ようとしない。いや、まっすぐに見ることができないのだ。

「あの日、私が離婚なんて言い出したから……」

 声が震えていた。泣いているのか、と思ったが、佐智子はうつむいていて、その表情は六郎にはわからない。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。――本気じゃなかったの。ただ、あなたに……もう少し、私たちのこと考えてほしくて……」

 寂しい想いをさせていた。最近は、休日も疲れて寝てばかり、ろくに会話もしていなかった。

「……お前のせいじゃないよ。お前のせいじゃない。おれは忘れていたんだ。仕事を頑張ることだけが家族のためだと思い込んでいた」

「あなた……」

「……すまなかった」

 深々と頭を下げる。

 その瞬間、夫婦に戻れた気がした。家族に戻れた気がした。この世のものでなくなって、やっと――

 よかった。帰ってこられて、本当に――よかった。

「佐智子……ただいま」


 そう言って、あの人は消えた。

 それは、ドラマや映画のように光に包まれたり、少しずつ透明になっていったりすることはなく、まばたきしたらそこにもういなかった、というものだった。

 あれから、佐奈は毎朝仏壇に手を合わせるようになった。理由を訊ねると、

「パパとお話ししてるんだよ」

 という。

 なんとなく私は、本当に佐奈はあの人と話をしているのではないかと思っている。

 だって、あの子が手を合わせた後のあの人の顔は、いつもより嬉しそうに微笑んでいるから。


“心残りは“ただいま”” 了

 幽霊ってどんな感じなんだろう、って思う。

 人が死んで、肉体が滅んだら、当然、ものを考える脳も、心を司っているかもしれない心臓もなにもないわけだ。

 いやいや、人の精神はそういったものに依存しないのだ。と、言う方もいるかもしれない。しかし、それにしたって、物質としてこの世界に存在していないものが、どうやって世界に干渉するというのか。例えば、写真に写ったり、音声を残したり。

 そういうことは考え続けていると果てがない。いや、それは僕の頭が悪いせいかもしれないけど。

 さっき自分で言ったことを丸ごと否定するようだけど、僕個人としては、一般的にいわれる幽霊というのは、生きていた人とは別物なのではないかと思う。つまり、どういうことか。Aという人がいるとする。彼が死んでこの世を去ると、Aさん自身は消えてなくなる。しかし、なんらかの残滓、残像のようなものが残るのではないだろうか。それらが写真に写ったり、波長の合う人には見えたりする。そんな気がする。彼ら幽霊たちは、オリジナルが消えるその瞬間に一番強く抱いていた感情をより濃く受け継ぐのではないだろうか。怒りや憎しみ、恨み、悲しみなどが強く残ると、悪霊と呼ばれるようなものになるのかな、とか。

 この話の主人公―新谷六郎が、最後に残した想いはきっと、話し合うために家に帰らなきゃということと、もう一度仲の良い家族に戻りたいということだったのではないでしょうか。

 こうやって文章にしていくと、結局、幽霊ってオリジナルの一部を強調した本人、ということになるような……(笑)

 結果として、大した違いはないですね(笑)

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