大きくなったら何になりたい
「ひとつだけ、昔話をするね。そうしたら寝ようね。」
「うん。今日は何のお話?」
千絵里はいつも私のお話を聞いてから眠るんだ。聞きながら眠るんじゃなくて、聞いてから。今日は、最近図書館で読んだ“おしら様”のお話をすることにした。千絵里は私がお話をしている間、私から目をそらさないんだ。
「大きくなったら何になりたい?」
「何って?」
お話が終わって部屋の電気の消したら、千絵里が突然そんなことをいうもんだからビックリしちゃった。
「ほら、パパは星になれたんでしょ?すごいよね!なかなかなれるものじゃないもん!ミーちゃんは?ミーちゃんも星になりたい?それとも別のになりたい?」
「あぁ・・、そうね。パパ、凄いよね。」
私たちのパパは千絵里が生まれて1ヶ月後、私は4歳だったんだけど、その時に居なくなっちゃった。パパは外国にいっぱい行ってお仕事をしていたんだけど、千絵里に初めて会ったあとにオーストラリアまで行く飛行機と一緒に砂漠の上から急に消えちゃったんだって。ママは千絵里に「パパはすごいパパだから、星になれたんだよ」って笑って言い続けたから、千絵里はそれがすごいことなんだ、って信じてるんだ。
「千絵里は?千絵里は大きくなったら星になりたいの?」
私が聞かれたのに、私は答えてないくせに千絵里に聞きかえしちゃう。これ、私のズルいところだと思っているんだけど、でも千絵里が聞くことっていつも難しいから。
「チーはパパより凄くなるんだよ!」
「そうなの?星より凄いものって何?」
千絵里はにやけ顔を私の顔とくっつくくらい近づけて教えてくれた。
「ぶらっくほぉる」
「え?」
私は頭を一生懸命に使って千絵里が何を言いたいのか分かろうとした。分かろうとしたんだけどどうも難しい。ほらね、難しい。千絵里と話すと私はいっぱい頭を使う。
「ミーちゃん知らないの?ぶらっくほぉる。5年生なのに?」
千絵里の、こういう「ちーの勝ちだ!」って言いそうな顔と声の形が私は実は好きだったりする。
でも残念でした。
「ブラックホール、私知ってるよ。図書室の図鑑みたいな本で見たんだ。」
そう、私はブラックホールを知ってる。知ってるんだけど千絵里がなりたいっていうのが分かんない。
「なぁんだ。」
千絵里はつまんなそうな顔をしたけど、すぐに元の調子に戻った。
「なんでブラックホールなの?」
「ブラックホールってね、お隣の星を吸い込んで捕まえたらもう離さないんだって。ちー、いっぱい星を吸い込んで、その中からパパを見つけるんだ!見つけてミーちゃんから聞いたお話をパパにしてあげるの!」
千絵里はパパの声を知らない。パパの真剣な顔も、眠っている顔も、そして困った顔も知らない。知っているのは写真の中の優しい顔だけ。だからパパとお話がしてみたいんだ。私はパパの声も知っているし、困った顔もよく知っている。だってあの時、オーストラリアに行くとき、パパに困った顔をさせたのは私だから。
パパがいなくなった日のことは、4歳だったけど、ちゃんと覚えてる。
ママはよく「小さい子はすぐ忘れるから大丈夫」って言ってたけど、私は忘れなかった。たぶん、忘れないように頑張ってた。
千絵里はまだ生まれて1ヶ月で、ママに抱っこされて、目をパチパチさせてた。私はミルクのにおいがちょっと苦手で、でも千絵里の頭のにおいは好きだった。なんか、ママのにおいと混ざってて、あったかくて、落ち着く。
だけどその日は、そういうにおいも、全部いやだった。だって、パパがまたどこかに行っちゃうんだもん。
「パパぁ!つれてってよぉ!」
私の声は泣き声にまざってぐちゃぐちゃで、言いたいことが上手に言えなかった。
でも、パパはわかってたみたい。しゃがんで、私の顔をのぞき込んで、ちょっとだけ笑った。
「蜜柑、パパはね、お仕事なの。だから今回は一緒に行けないよ」
ママも少し困った顔をしていたけど、千絵里がぐずり始めてそれどころじゃなかったみたい。
パパはしゃがんで、いつもよりゆっくり、私の目を見て言ったんだ。
「ちーちゃんがまだ赤ちゃんでしょ?お姉ちゃんは蜜柑しかいないんだから、ママを助けてあげてほしいなぁ。パパは……すぐ、帰ってくるよ」
「うそだ!いっつも“すぐ帰る”って言って帰ってこないじゃん!」
パパはまたちょっと笑って、でも今度は困った顔だった。
私、それが嫌だった。困らせたいわけじゃないのに、困った顔させたくなかったのに。
「蜜柑、ごめんな。……すぐ、ほんとに、すぐ帰ってくるから。ママと、ちーちゃんのこと、お願いしていい?」
お願いなんて、されたくなかった。
でも私は、何も言えなくなって、ただうなずいた。
________________________________________
その次の日の朝、テレビでアナウンサーが「行方不明」って言ってるのを、私はちゃんと聞いた。
だけどすぐにママがリモコンを押して、テレビが静かになった。
「蜜柑。パパはね、星になったのよ」
ママはそう言って、笑った。
でも、その笑顔は、ちょっとだけ震えてて、唇がぎゅっとしてた。
目は笑ってなかったけど、私のために笑ってくれてるの、わかった。
私、そのとき、星になるってどういうことか、ほんとはわかってた。
でもね、ママのその顔を見たら、「うん」って言うしかなかったんだ。
ママがつよがってくれたから、私も、がんばって納得することにした。
ほんとは、星になったって、ぜんぜん納得できなかったけど、でも私は――
「うん。パパ、すごいね。星になれたんだね」
そう言った。
ほんとは、悲しくて、こわくて、くやしくて、でも――
私はもう、お姉ちゃんだから。
________________________________________
それから、私はパパのことを「星になった」って呼ぶようになった。
嘘だって、ほんとは少し思ってたけど、でも、ママのために、本当のことにした。
千絵里にとっても、これは本当のことになっていた。
千絵里が「ブラックホールになる!」って言ってた次の日、図書室で星の本を読んだって言ってきた。
「ねぇミーちゃん、知ってた?星って、ずっとあるんじゃないんだよ?」
最初、何の話かと思った。 でも千絵里の目が、ちょっとだけ不安そうで――私は、すぐに分かった。
「星ってね、生まれて、大きくなって、……それで、死んじゃうんだって」
千絵里はそう言って、膝を抱えた。 ランドセルの上にあごを乗せて、下を向いたまま、小さい声で続けた。
「パパ……パパの星も、いつか、なくなっちゃうの?」
私は、すぐに答えられなかった。 だって、私も昨日まで、そんなこと、考えたことなかった。
「……うん。でもね、星って、すぐには消えないよ。何億年も、ずーっと輝いてるから。きっとパパの星も、まだそこにあるよ」
そう言ったけど、声がちょっとだけ震えてたの、自分でもわかった。 千絵里はそれを聞いて、少しだけほっとした顔をした。
「よかった……。ちー、ちゃんと見つけないといけないから。パパが消えちゃう前に、見つけないと……」
私は、胸がぎゅっとなった。 まだ小さいのに、そんなことまで考えるなんて。
少し安心した顔になって、千絵里はノートを広げてるふりだけして、横に積んだ図鑑とネットプリントを何枚もめくってた。宿題をいっしょにやるはずだったのに。
「超新星爆発とか、白色矮星とか、ブラックホールになるパターンもあるんだって」
横文字ばっかりで、私にはちんぷんかんぷん。 でも千絵里は目がキラキラしてて、説明するたびに鼻の穴までふくらんでた。
「ちょっと待って、なんでそんなに知ってるの?」
私が思わずそう言ったら、千絵里は得意げに胸を張った。
「図書館の人に聞いたら、星の本いっぱい出してくれて、あと学校の理科室にもあるって教えてくれた!あ、あとね、インターネットで調べたらNASAのページに載ってたよ。全部、印刷してマーカー引いた!」
「……NASA!?」
びっくりして思わず言ってしまった。 小学生の図工作品みたいなリサーチじゃなかった。千絵里は、本気だった。
「ちーね、パパの星がどうなるか、ちゃんと知っておきたいの。もし超新星爆発だったら、どれくらいで爆発しちゃうのかとか、計算できるかもしれないでしょ?」
千絵里は、まっすぐ私の目を見た。 その目が、あんまり真剣すぎて、私はなんて返したらいいか分からなかった。
「ミーちゃん…パパの星、ホントにまだ消えてないよね……?」
星になったパパに、ずっと会いたくて、探してて、でもその星に“終わり”があると知ったときの千絵里の顔――私は、忘れられないと思った。
「消えてないよ。パパはすごい星だもん」
慰めじゃなくて、ホントにそう思った。 それから、いつか千絵里はパパの星をほんとに探してくれると思った。その時は、私にも会わせてほしいと祈って、千絵里と宿題を終わらせた。
その日、千絵里は学校から帰ってくるなり、自分の部屋にこもった。 めずらしく、ただいまも言わなかった。 私はなんとなく気になって、しばらくしてから、そっとドアをノックした。
「ちー?……入っていい?」
返事はなかった。 でもドアは開いてて、千絵里は机に向かって、ノートに何か書いていた。 私はそーっと入って、後ろから覗きこんだ。 そこには、黒いボールペンで何度も書き直された文字があった。
「ブラックホールになるには、星が死ぬこと」
「星の死には超新星爆発が必要」
「それは自分の寿命が終わるということ」
読んだ瞬間、背中がぞっとした。
「……ちー?」
呼びかけた声が、自分でも聞いたことないくらい小さかった。 千絵里は、ゆっくり振り向いた。 目は泣いてなかったけど、泣くよりずっと静かで、怖かった。
「ミーちゃん……ちーね、パパに会うためには、ちーは爆発しないといけないの」
時間が止まった気がした。
「……なに、言ってるの?」
やっとの思いで言えたけど、声が震えてた。
「だって、パパは星でしょ?ちーがブラックホールになったら、吸い込んで会えるんだと思ってた。でも……ブラックホールになるってことは、星の最後。ちーも、終わらないといけないんだって」
私は、ぐらぐらした。 この子は、本気で言ってる。 遊びでも、空想でもない。 “どうやってブラックホールになるか”を、本気で探して、たどり着いた答えだったんだ。
「ちょ、ちょっと待って……ちー、それは……そんなの……!」
言葉が、でてこなかった。 怖かった。 千絵里が、そんな風に考えてたなんて。 あの明るい顔で、星の話してたのに――
その裏で、こんなこと考えてたなんて。 千絵里は私の手を握って、にこっとした。
「大丈夫だよ、今すぐじゃないから。ちー、ちゃんと準備して、星の最後まで行くんだ」
その笑顔が、今まで見たどんな星よりも遠くて一番怖かった。
千絵里のノートを見た夜、私は眠れなかった。
電気を消して、布団にくるまって、目を閉じても、千絵里の言葉がぐるぐると頭の中を回っていた。
「ちー、ちゃんと準備して、星の最後まで行くんだ」
言いながら、千絵里は笑ってた。
その笑顔が、あんなに明るいのに、どうしてあんなに怖かったんだろう。
星って、光ってるはずなのに、どうしてあんなに遠く感じたんだろう。
________________________________________
私は、星になったパパを、ずっと信じてきた。
……って思ってたけど、ほんとはちょっと違った。
信じたふり、だった。
パパが「星になった」って、ママが笑って言ったとき、私はうなずいた。
ママのために。ちーのために。私ががんばらなきゃって思って。
でも――
本当は、パパがいなくなったのが、こわかった。
ほんとうは、消えたって言われたことが、こわくて、悲しくて、悔しかった。
だけどその「こわい」とか「かなしい」とかを、ちゃんと言葉にできなくて。
「星になった」っていうきれいな言葉の中に、ぜんぶしまいこんだ。
そのほうが、楽だった。
________________________________________
あのときのママの顔、まだはっきり覚えてる。
テレビから「消息不明」って言葉が出た瞬間、すぐにリモコンで音を消して、私の方を向いて笑った。
「蜜柑。パパはね、星になったのよ」
言葉は笑ってたのに、目は全然笑ってなかった。
ぎゅっと結んだ唇。
笑ってるのに泣きそうなその顔に、私は「うん」って言うしかなかった。
「うん、パパ、すごいね。星になったんだね」
あの時の自分を、今の私は……許せるかな。
許さなきゃいけないって分かってるけど、胸がちくちくする。
________________________________________
千絵里は、ちがう。
千絵里は、自分の言葉で、世界とつながろうとしてる。
自分の目で、星を見てる。
図書館に行って、先生に聞いて、NASAのページを印刷して、マーカーを引いて、
「ブラックホールになったらパパに会える」って、心から信じて、ちゃんと動いてる。
私はどうだった?
お姉ちゃんって言われることに、ただしがみついてただけじゃなかった?
「うん」って言って、安心したふりして、安心しちゃってたんじゃなかった?
パパの声も、あのときの困った顔も、ちゃんと覚えてるのに、
私はそれを、千絵里に話してあげようとすら、してこなかった。
________________________________________
布団の中で、声を出さないように泣いた。
目をつぶると、パパの最後の「すぐ帰ってくるよ」って声が聞こえる気がした。
あのとき、私はうそだと思った。でも、言わなかった。
言えなかった。
私は、星を見てなかった。
空を見上げることすら、こわくて、してこなかった。
でも千絵里は、見てる。ちゃんと、夜空を見てる。
パパに会いたいって、願ってる。
じゃあ私は……?
私にできることって、なんだろう。
________________________________________
次の朝、私は少し早く目が覚めた。
目のまわりが重かったけど、顔を洗って鏡を見たら、泣いたことはバレなかった。
千絵里の部屋の前で、立ち止まった。
ドアは閉まってたけど、外からでもわかる。
あの子は今、また星のことを考えてる。
私はそっと手を握りしめて、心の中でつぶやいた。
「私もパパに会いたいよ。」
そう思えたのは、たぶん初めてだった。
千絵里の誕生日。
ママが仕事から早く帰ってきて、ケーキを買ってきた。
ろうそくが7本、ちゃんと立ってて、火を吹き消すときの千絵里の顔は、いつものちーだった。
「プレゼント、渡すね」
ママがそう言って、リボンのかかった四角い箱を千絵里の前に出した。
私はてっきり、望遠鏡かと思ってた。だって、最近の千絵里はずっと宇宙のことばっかりだったから。
パパの星を探すために、ブラックホールになるって言って、毎日ノートに書きこんで、星の本も何冊も読んでて、千絵里の頭の中は星でいっぱいだったはずなのに。
だから、開けたとき――私は目を疑った。
「バレーボール!?」
千絵里は、嬉しそうにぎゅっとボールを抱きしめて、すぐその場で何回も手でついてみせた。
「これこれ!体育の時間で使ってたのと同じやつ!ママ、ありがとう!」
ママも少し驚いた顔をしてた。
「……ほんとに、これでよかったの?この前、星の図鑑の新しいの欲しいって言ってなかった?」
「うん。でも今はこれがいいの。ちー、バレーやりたかったんだ!」
ママは笑ってたけど、私は――全然笑えなかった。
________________________________________
なんで?
あんなに星のことに夢中だったのに?
あんなに本気で、パパに会いたいって言ってたのに?
急に“バレーやりたい”とか言い出して、ブラックホールになるんだって決意は、もう飽きちゃったの?
あんなに私を怖がらせて、あんなに泣かせておいて、今はボールでぴょんぴょんって、何なの。
心配したの、私だけだったの?信じてたの、私だけだったの?
なんだか、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
________________________________________
「ちー……ブラックホールのこと、もういいの?」
思わず、問い詰めるみたいな口調になってしまった。
千絵里はバレーボールを持ったまま、少し考えるような顔をしてから、あっさり言った。
「うん、今はバレーやりたいの。ブラックホールは……また今度!」
その「また今度」が、なんだかすごく軽く聞こえて、私はちくりとした。
私がずっと、夜に泣いて、星を見て、あれからずっと考えてたのに。
千絵里はもう、そんなのどうでもいいの?
誕生日のケーキの甘さだけが、やけに口に残った。
千絵里は、ほんとにバレーに夢中になった。
毎週土曜日は、地域のミニバレーのチームに通いはじめた。
夕方になると、膝にサポーターをつけて、ポニーテールをぶんぶん揺らしながら玄関を飛び出していく。
「あー、遅れる!ミーちゃん、水筒!」
私はリビングのソファから立ち上がって、水筒を渡す。
「はいはい、いってらっしゃい」
「ありがと!ミーちゃん、帰ったらパスしてね!」
そう言って笑った顔は、最近ではいちばんキラキラしてた。
________________________________________
なんか、変なの。
あんなにブラックホールになるって本気だった千絵里が、
今じゃ毎日、スパイクの打ち方とか、ジャンプの高さとか、そんな話ばっかり。
前は「星の一生には段階があるんだよ」とか言ってたくせに、今は「ローテーションの順番がね」なんて言ってる。
パパを探す話、最近はもう全然してない。
まるで、“星の話”なんてなかったみたいに。
________________________________________
「ちーちゃん、バレー、楽しい?」
ある日、練習から帰ってきた千絵里にそう聞いてみた。
千絵里は汗だくで、水筒をごくごく飲みながら、あっさり答えた。
「うん、めちゃ楽しい!試合もあるんだよ、今度!」
その笑顔に、私はちょっとだけムッとした。
「じゃあもう、パパの星は探さないの?」
千絵里は、一瞬だけ考えるような顔をしたけど、またすぐ笑って言った。
「ううん、探すよ。でも、今はバレーもやりたいの。ちー、いろいろやりたいの」
その言葉に、私は何も言えなかった。
________________________________________
千絵里は、変わったんだと思った。
でもたぶん、それは“前のちーがいなくなった”ってことじゃなくて、
“ちーの中に、別の何かが増えた”ってことなのかもしれない。
千絵里は、いろんなものを吸い込んで、少しずつ大きくなってる。
まるで――ほんとに、ブラックホールみたいに。
だけどそれは、星を終わらせるんじゃなくて、何かを“抱えて、生きる”千絵里の力になってる。
そんな気がした。
ママが久しぶりに、泊まりの仕事に行った夜。
千絵里と二人で晩ごはんを食べて、テレビを見て、歯をみがいて、布団に入ったあと、電気を消したら、千絵里がぽつんとつぶやいた。
「ねえミーちゃん、今日ね、ちー、試合でレシーブうまくいったの!」
私は横になったまま、うんうんって返事をした。
「すごいじゃん。コーチに褒められた?」
「うん!“体の使い方うまくなったね”って言われたの!ちー、背もちょっと伸びた気がするんだ!」
嬉しそうな声だった。真っ暗な部屋の中で、声だけが明るく浮かんでいた。
そのとき、ふと、前から引っかかってたことを聞いてみたくなった。
「……ねえ、ちーちゃん、」
「なに?」
「もう、ブラックホールにならなくていいの?」
ちょっと間があった。
そして、千絵里は笑ったみたいな声で言った。
「なに言ってんの、ミーちゃん。ちー、今もブラックホールになるためにがんばってるんだよ?」
「え……?」
私は、思わず起き上がりそうになったけど、がまんして、ふとんの中で体をぎゅっと丸めた。
「だってね、ブラックホールになるには、星がめっちゃ大きくないといけないんだよ?太陽の何倍もなきゃダメなの。小さい星は爆発してもブラックホールになれないの」
千絵里の声が真剣だった。
「だから、ちー、大きくなりたかったの。もっと背も、体も、ぜんぶ。テレビで見たバレーの選手たち、みんな大きくて、強そうだったから」
私は何も言えなかった。ただ黙って聞いてた。
「でもね、ブラックホールになるには、大きいだけじゃだめなんだよ。密度が高くないと。ぎゅーって、すごい密度にならないと、星はつぶれてブラックホールにはなれないの」
「……密度?」
「うん。だからちー、いろんなことしたいの。勉強もしたいし、いろんなとこ行って、たくさんのことを“吸い込む”んだよ。それでぎゅーって、自分の中を強くしてくの」
私は、じっと千絵里の言葉を飲みこんでいた。
そうか――
あのとき、千絵里が言った「ちゃんと準備して、星の最後まで行くんだ」って、そういう意味だったんだ。
千絵里は、“死ぬ”って意味で星の最後を見てたんじゃない。
“ちゃんと生きて、大きくなって、密度のある星になる”って意味だったんだ。
私は勝手に怖がって、勝手に決めつけてた。千絵里は、ちゃんと今も、ブラックホールを目指してたんだ。
その形が、ただ“生きてる”ってだけのことだったんだ。
「ちーちゃん、すごいね」
私は、そう言った。
ほんとにそう思った。
「ふふーん、でしょ?」
暗い中、チーが得意げに鼻を鳴らす音が聞こえた。
その音が、私は、ちょっと泣きたくなるくらい、好きだった。
千絵里が五十五歳になった年、ママは星になった。 冬の朝、眠るようにして、静かにいなくなった。 ほんとに、静かに。 知らせを聞いて、私はまず空を見た。 泣きそうな雲が、まだ空いっぱいにかかってたけど、その向こうには、ちゃんと星があるんだって、なんとなく思った。
千絵里は、今―― JAXAの主任研究委員になった。 地球外重力圏の天体観測プロジェクトに関わっていて、 あの頃、NASAのページを印刷してマーカーを引いていた子が、 今は世界中の研究者と並んで、星の未来を見つめてる。
「あの時、ブラックホールになりたいって言ったでしょ」
千絵里が笑ってそう言ったのは、就任の報告のときだった。
「結局、なれなかったけどね」
そう続けた彼女の笑顔は、やっぱりあの頃と変わらない。 でも私は思うんだ。 千絵里はもう、ちゃんとブラックホールになってる。 いろんなことを吸い込んで、大きくなって、 いろんな人の想いを引き寄せて、離さないでいる。 星になったパパも、ママも、 千絵里の中でちゃんと光ってる。 千絵里は、それを飲み込んだんじゃなくて、 全部の光を連れて、今も進んでる。
「ねえ、ミーちゃん。大きくなったら何になる?」
あの夜の問いかけが、風のように蘇る。
「……ちーちゃんはさ、結局何になったんだろうね?」
私はそうつぶやいて、空を見上げた。 そこには、いくつもの星があった。 そのどれかがパパで、どれかがママで、 そしてたぶん―― いま、この空のどこかにある“まだ名もない星”が、 これからの千絵里なんだと思った。
千絵里は、火葬場のあと、小さな声で言った。
「ねえ、ミーちゃん。ママも、ちゃんと星になったのかな」
私は、うん、と頷いた。
「ママはさ、星になる準備、ずっとしてたと思うよ。ずっと、私たちのために輝いてくれてたじゃん。もう充分、密度ある星だったと思う」
千絵里はそれを聞いて、くすっと笑った。
「そっか。ママも、ブラックホールにはならなかったね」
「うん。たぶん、恒星のまま、ずっと光り続けてくれると思う」
「じゃあさ、また見つけに行こっか。ママの星も。……パパのも」
その声は、ママの優しい声色に、パパの深い息遣いにそっくりだった。 私は、胸の奥がふっとあたたかくなって、懐かしさで目を細めた。
星は、最初からちゃんとここにあった。