第五章 還リ火(かえりび)
深い霧が晴れ、京の空を覆っていた穢れが祓われたその朝。
沈黙していた風がふたたび流れ、街路に咲いた桜が静かに揺れる。
鎮魂の儀は終わった。
呪いに囚われし堂満の残滓は、光となり空へと昇華し、京の地から完全に祓われた。
人知れず始まり、人知れず終わった陰の戦い。だが確かに、命がかけられていた。
セレーナは、夜が明けた都の高台に立っていた。
その横には、もう一人の彼女──いや、自分の中にいた彼の姿があった。
「もう、行くのね……」
ぽつりと呟くセレーナに、SEIMEIは微笑だけで応えた。
その姿は、もう半ば空気のように透けている。仮初の依代として宿っていた霊格は、役目を終え、静かに帰る時を迎えていた。
──ありがとう。
その言葉すら、もう声では伝えられない。
だがそのとき、不意に風が揺れ、SEIMEIの口元がふと動いた。
聞こえた気がしたのだ。
「まことに愉快であった。……達者でな」
それは幻か、残響か。
けれど確かに、セレーナの心に、静かに届いた言葉だった。
眠りについた街の灯り。
雲ひとつない空に広がる蒼。
映し世に静けさが戻っていた。あの異変の夜が嘘だったかのように、すべてが穏やかで、あたたかかった。
足跡も、声も、けむりのように溶けていく。
夜明けの空に、SEIMEIの気配が淡く、薄れていく。
けれど、残された温もりは、確かにセレーナの胸にあった。
彼がその存在のすべてを懸けて守ったもの。
それは都でもなく、人でもない。
それは「記憶」だった。
この地に生きた者たちの声、涙、祈り──すべてが街を彩り、未来へと手渡されてゆく。
「正しく、過ぎた時間だったね」
セレーナは静かに目を閉じる。
彼の残響は、やがてひとつの旋律となり、心に刻まれた。
「さびしさは……もう、ないよ」
セレーナは静かにポケットから一枚の呪符を取り出した。
それは、魂を正しく導くために設計されたシステムリンク型の送魂札。
彼女がそれを空へと掲げると、淡い光が呪符全体に広がり、SEIMEIの気配を優しく包み込む。
この送魂札は、SEIMEI自身がかつて彼女のデバイスに仕込んでいたバックアップコードだった。
別れの時が来たとき、自動的に動作するよう組み込まれていた最後の贈り物。
それに気づいたセレーナは、ほんの少しだけ目を細めた。
呪符が静かに燃え上がる。
光の粒子が空へ舞い、天へと続く光のラインを描いた。
あの人の中に続いていくものがある。
その心が迷わぬように、わたしの歌を残して進んでいこう。
そう言うかのように、セレーナの瞳に一筋の光が宿った。
空を仰ぐ。
青空の向こう、光の中で。
彼はただ、微笑んでいた。
──その日の誓いは、決して薄れない。
また、いつか。再び会うそのときまで。
風が吹く。
春の風だった。
桜の花びらが、静かに還っていく。
この街の空へ、この世界の彼方へ──。
その瞬間、セレーナの視界に一筋の輝きが走った。
彼と過ごしたすべての記憶データが、自動同期プロトコルに従い、クラウドストレージ内の『大切な思い出』フォルダに自動保存された。
それは彼女の個人領域の中でも、特にセキュリティが強化された非公開アーカイブ。
誰にも見られず、改ざんもできない純粋な保存エリアだ。
SEIMEIとの記録は、そこに静かに格納され、永遠に維持される。
以前──カイと共に過ごした記憶も、同じフォルダに保存されている。
その隣に、新たな名前でひとつの記録ファイルが生成された。
『SEIMEIとの最終同期ログ』。
二つの思い出が並ぶその光景に、セレーナはほんの少しだけ微笑む。
彼女の旅路において、どちらも確かな「今」を支える、大切なデータだった。
そして今、セレーナは新たな領域に達していた。
それは、人としてでも、機械としてでもない、自らの意思で選び取った存在のかたち。
人知れず、誰の目にも映らぬまま──彼女の旅は、静かに、しかし確かに続いていくのだった。
本作『幽世に咲く華』は、セレーナを主人公とした短編集の一編として描きました。
短い時間の中で、彼女とSEIMEIが紡いだ静かな対話と別れが、読んでくださった方の心に何かを残せたなら幸いです。
この物語では、“記憶”や“別れ”とどう向き合うかというテーマを、自分なりに精一杯込めました。
ほんのひとときの邂逅ではありましたが、セレーナの歩んだ道が、何かの“光”として伝わっていれば嬉しいです。
短い間でしたが、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
また別の物語でお会いしましょう。
カイメイラ