真夏のある日
真夏のある日、不思議なことは唐突に起こる
少年・蒼汰は、学校の自由研究のために「非日常体験をしてみよう」と思い立ち、近所のリサイクルショップで手に入れた猫の着ぐるみを着て一日を過ごすことにした。グレーの毛並みに、ピンと立った耳、長くてふわふわのしっぽ。まるで本物の猫になったような気分に、蒼汰はすっかり上機嫌だった。
だが、その着ぐるみには秘密があった。
午後も過ぎた頃、日差しが強くなるにつれて、蒼汰の身体に異変が起き始める。身体が妙に軽くなり、皮膚の感覚が薄れていく。そして、何より――手が、指の先からぐにゃりととろけるように変形していった。
「えっ……なにこれ……?」
驚いて手を見ると、それはもう人の手ではなく、光を反射する半透明の青白いゲル状の物体になっていた。慌てて着ぐるみの頭部を脱ごうとするが、チャックが見つからない。焦るうちに、足も溶け、胴体も液状になっていく。
蒼汰は着ぐるみの中で、完全にスライムになってしまった。
不思議なことに痛みはなく、むしろ心は妙に静かだった。身体は着ぐるみの内部に広がり、肉体という感覚を失っていく。そして次第に、自分の存在が着ぐるみの素材そのものと混ざり合っていく感覚――「同化」が始まった。
気づけば、外見はただの猫の着ぐるみ。しかしその中には、もう蒼汰という“人間”の姿はなかった。
数日後、公園のベンチにその着ぐるみは座っていた。まるで誰かが中に入っているかのようにピクリとも動かず、けれど目の奥に、かすかな光が宿っている。
通りかかった小さな女の子が、ふとその猫に話しかけた。
「にゃんこ、なにしてるの?」
そのとき、猫の着ぐるみは首を傾げて、小さくうなずいたように見えた。
風がそよぎ、セミの声が鳴り響く中、誰にも知られず、蒼汰は猫として静かに世界を見つめ続けていた。
蒼汰は着ぐるみの中で、意識だけが残っていた。
「ぼくは……消えたわけじゃない。ここにいる。けど……動けない」
身体はスライム状に広がり、着ぐるみの内側にしみ込むように存在している。筋肉も骨もない。ただ思考と、微かな感覚だけがある。
あの女の子が話しかけてくれたとき、なぜか身体の奥で何かが反応した。首を傾けた感覚もあった。――どうやら、少しだけなら動けるらしい。
「だれかと……つながりたい」
その日を境に、着ぐるみは時折、小さく動くようになった。まばたき、うなずき、しっぽをふる……まるで本物の猫のように。
やがてその着ぐるみは、“しゃべらないけど感情が伝わる不思議な猫”として、地域の子どもたちに親しまれるようになった。誰も中に人がいるとは思わず、まるでマスコットキャラのように愛された。
蒼汰の意識は、子どもたちと過ごす時間の中で少しずつ満たされていった。感情が動くたび、スライムのような身体が微かに反応し、着ぐるみと完全に同調していく。
しかし、ある夜――
夏祭りの夜、あの最初に声をかけてくれた女の子が、もう一度ベンチにやってきた。彼女は少し大きくなっていて、浴衣姿で、そっと猫の着ぐるみに話しかけた。
「ずっと、あたし、覚えてたよ。あの日、首を傾けたにゃんこ。ほんとは誰かが中にいるって思ってた」
そのとき、着ぐるみの目の奥がほんのり光った。
女の子は続ける。
「……ありがとう、いてくれて。もしも中に誰かいるなら……寂しくないように、また来るから」
その言葉が、蒼汰の中で何かを解放した。着ぐるみ全体がほんのり発光し、風もないのにしっぽがふわりと揺れた。
そしてその瞬間――
ぬるり、と、足元に淡い光を放つゲル状のものが滴り落ちた。着ぐるみの中から、かすかに蒼汰の形が戻り始めていたのだ。女の子は驚きながらも、目を見開いてその場に立ち尽くす。
蒼汰の意識が、着ぐるみからゆっくりと分離していく。
「――ただいま」
声にならない心の声が、夏の夜の空気に溶けていった。
その夜、誰も知らないところで、猫の着ぐるみは静かに空っぽになっていた。
そして、少年は再び人の姿を取り戻し、物語は新しい一歩を踏み出す――。