別れ
「な……ぜ……ごほっ」
少年は、その先の言葉を口にすることができずに血泡を吐き出した。
ギアンテが彼の胸から剣を引き抜くと、胸からも口からも血が溢れてくる。心臓と肺、おそらくはそのどちらも損傷したのだろう。
「ギアンテ! 何を……!!」
イェレミアス王子は慌てて椅子から立ち上がり、床に倒れ込むヤルノに駆け寄ろうとして転び、這ったまま擦り寄って彼の体を抱き寄せた。
「ヤルノ! ヤルノ!! 大丈夫ですか! 落ち着いて呼吸をしてください!!」
出来る筈がない。もはや自分の吐き出す血によって溺れそうなのだ。ヤルノは虚ろな目で友の顔を見て、助けを求めようと宙を掻く。
「ギアンテ、お母様? なぜ、何故こんなことを」
強く睨みつける目ではない。目の前で何が起きているのか分からず、恐怖におびえる目であった。
目の前で実際に起こっているのに、それが「なんなのか」、全く理解できない。それは大変な恐怖である。なぜなら何一つわかることがないのだから、次の瞬間には自分が同じように殺されるかもしれない。
目の前にいるのは、心の底から信頼している王妃インシュラと、騎士ギアンテ。しかし姿形はそうなのだが、何か化け物が変化しているのではないかとすら思えてくる。
それゆえ、最愛の友を目の前で失ったというのに、イェレミアス王子は恐慌状態に陥ってしまって、涙を流すことすらなかった。
「背筋をしゃんとしなさい、イェレミアス。これは、必要な事なのです」
「お母様……?」
ようやく、間違いなく目の前にいるのが母なのだと理解した。
「王になるという事は、それほどの血が流れる事なのです。今回だけではありません。ヤルノの故郷、イルス村ももう存在しません。どこから情報が洩れるのか分からない。あの村の者はすでにみな、始末してあります」
その時、イェレミアスの腕の中のヤルノが、力なく震える手を差し出し、イェレミアスの頬に触れた。
「ヤルノ……」
最後の力を振り絞ったのか、手は、カクンと力が抜けて彼の胸の上に落ちた。
「それだけではありません。王別の儀でも、ヤルノは彼を始末しようとするコルアーレの手先と戦い、二十人近い追っ手を殺害して試験を通過したのです。世間で言われているように、つつがなく儀式が行われたわけではありません」
ヤルノが動かなくなると、ようやくイェレミアスの瞳からはぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
「だからって……だからって、僕の、たった一人の友達を」
「まだそんな甘いことを」
王妃インシュラは彼の元に近づき、ヤルノの死体を抱いたままの彼の頬を軽くはたいた。イェレミアスは何をされたのかが分からず、はたかれた自分の頬に手を当て、ゆっくりと母を見上げた。彼が母に暴力を受けるのは、生まれて初めての事である。
「あなたは王となって、この国を変えてゆくのです。これからはもっと、多くの血が流れることとなるでしょう。いずれは自分の手を直接血で汚すこともあるでしょう」
虚ろな目で腕の中のヤルノを見つめ、答えを返せないでいるイェレミアス。母の言葉には、答えない。
「私や、あなたの代わりに血を流したギアンテが、痛む心のない冷血動物だとでも思っているんですか」
ギアンテは、インシュラの言葉には反応せず、ただ、目を伏せて刀身についた血痕をハンカチで拭った。このハンカチは、数日前、ヤルノの涙をぬぐったハンカチと同じものでもある。
誰もが、今にも心が壊れてしまいそうな中、かろうじて立っているのだ。
「帰る村なんてもう、無くなっていたのに……僕は無神経にも……」
イェレミアスはヤルノの死体を強く抱きしめた。
「今はまだ無理でも、いずれは心の整理をつけて立ち上がらねばなりません。それだけの血がすでに流れているのです。彼の事を思うのなら、それが生き残ったあなたの義務です」
そう言ってインシュラは、ギアンテを引き連れてイェレミアスの部屋を出て行った。彼に必要なのは『時間』だと、そう判断したのだろう。友の死を乗り越えて、いずれは王とならねばならない身だ。
「妃殿下!」
張りつめていた緊張の糸が切れたのか、イェレミアスの部屋の扉を閉めてすぐあと、インシュラの体が大きく揺らぎ、ギアンテがそれを支えた。
「すみません、大丈夫です。ギアンテ」
見れば、真っ青な顔をしている。
無理もあるまい。強い決意は持っていたものの、目の前で人の死を見ることなど生まれて初めての経験である。それが憎からず思っていた少年であれば、なおさら心に響いたのであろう。
事実、母様、母様と慕ってくるヤルノに対して、インシュラは息子、とまではいかないまでもそれに近いような親しみを持っていた。それが目の前で殺されたのだ。自分の指示で。
「もう大丈夫です。あなたにばかり汚れ仕事を押し付けておきながら……面目ない」
「いえ……お気を確かに」
二人とも、自らの心を押し殺して何とか立っているのだ。それほどまでにヤルノ少年の存在は彼女たちの中で大きくなっていたのである。
だが、生まれて初めての、ただ一人の友人の命を、何の心の準備もなしに奪われた王子に比べれば、その心の傷は、まだ少なかったのかもしれない。そんな王子が存在すれば、だが。
薄暗い部屋の中、未だイェレミアスはヤルノの動かなくなった体を抱きしめていた。
部屋の中に、小さな声が響く。
「意外に『そのとき』が早く来てしまいましたね。イェレミアス」
うすら寒い笑顔が、その相貌には張り付いていた。




