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帰還不能点

「さあ立て。お前の処遇についてはとりあえず王宮に連れて帰ってから考える」

「ひっ、お慈悲を……」


 名も知らぬ雑兵が騎士団の総長を引きずって連れてゆく。最早歴戦の猛者の威厳というものなどありはしなかった。


「王子、涙を」


 そう言って女騎士ギアンテはハンカチを差し出した。春先の昼下がり、森の中を吹き抜ける風は涼やかで。


 ヤルノの涙は熱を持ち過ぎた場の空気を冷やしているようであった。


「ありがとう、ギアンテ」


 ヤルノがハンカチを返すころには辺りには他の騎士はいなくなっていた。柔らかい木漏れ日の中、二人の沈黙の時だけが流れる。


「王別の……儀は……」


「つつがなく」


 コルアーレたちが森の中で先住民に襲われているどさくさの内にヤルノは石碑への署名を行い、王別の儀を終了させた。あとはこのまま誰の手も借りずに王宮に帰れば条件はクリアである。


 途中の動きはかなり泥臭く、なんでもやる、といった感じではあったが、まさに鮮やかな手腕であると言えよう。


「そうか」


 一言だけ言って、ギアンテは顔を上に向け、木の葉越しに優しく輝く太陽を見た。


 本来ならば彼女にとってイェレミアス王子とはあの太陽のようなもの。触れることも、直接見ることも叶わぬ存在。その影武者と、まるで王子と話すように隣に立っている不思議。いったい何の因果なのか。


 ましてや、偽物ではあるものの、その王子と男女の契りを結んだという事実がある。


 森の中で偶然に彼の姿を見た時、心の底から安堵した。抱きしめて、再会を喜びたかった。人目あらざれば今すぐこの場で口づけを交わしたいとすら思った。


 相手の如何に関わらず、騎士として、そんな事を思う事があるまじきことだ。


 いったい彼女をこんな風に変えてしまったのは誰なのか。鉄のような女だと恐れられ、所詮エルエト人に人の情は分からぬのだろうとさげすまれた彼女を。


 もう言い訳はすまい。イェレミアス王子ではない。間違いなくそれは目の前の少年、ヤルノなのだ。間違いなく彼女の中でヤルノは王子と関係なく、特別な存在になっていた。


 だが、もうその夢も終わりが近づいている。


「では、お前の役目もこれで終わりだ」


 努めて感情の波を言葉に乗せず、彼女は言った。


 そう。これで終わりなのだ。


「そうですね。まだ王宮に戻らなければ完了しませんけどね」


 村一つを焼き尽くし、住人を虐殺し、多くの人を騙し。それと同時に数えきれないほどの謎を残しながらも。


 当初の目的、誰にも気づかれずにイェレミアス王子に成り代わり、王別の儀を合格するというその目的は、達成できたのだ。


「お前の仕事も、ここまでだ」


 周りに人はいない。森の中に二人だけ。もはやギアンテはイェレミアス王子の影武者ではなく、ヤルノと会話をしていた。


「僕はもう……用済みという事ですか」


「そうだ」


 ギアンテは、ヤルノから目を逸らしたまま答えている。


「あとはもう大丈夫だ。お前には、このまま、今までのことはすべて忘れて、どこか別の場所で安全に暮らしていくという選択肢もある」


「仕事は終わりという事ですよね。でも僕の帰る村はこの先でしょう。ギアンテが通してくれなければ、行けませんよ」


「村には、行けない」


 そこに、村などというものは、もう、ない。


 しばらく、沈黙の時が流れた。二人とも、この先の村が、既に存在しないことなど分かっている。分かった上で、分からないふりをするのが、二人の約束事のようになっていた。それを口にすれば、今まで誤魔化してきた嘘が、全て露呈してしまうような気がして。


「お前ほどの才覚と、美貌があればどこへ行ったって成功できるはずだ。リィングリーツでなくとも……」


「僕の帰る場所はリィングリーツですよ。他にはありません」


 目を閉じ、辛そうな表情でギアンテは答える。


「アシュベル殿下もおっしゃってたろう。リィングリーツ宮は獣の檻だ。あそこに安息の場所などない。あんな場所に居れば、いつか必ず命を落とすぞ」


「でも、ギアンテは、そこに戻るんでしょう?」


 真っ直ぐにギアンテの瞳を見つめて話しかけてくるヤルノ。ギアンテは彼に目を合わせることが出来ず、ずっと瞳を伏せている。


「じゃあ、もしギアンテが一緒に来てくれるんならどこへでも行きましょう。ここではないどこかへ」


 そう言ってヤルノは手を差し出してきた。


「ここではないどこか……」


 そう、どこか。誰も二人を知らない、グリムランドの外へ。もしかしたら、そこへ行けば、ギアンテの望みも叶うのかもしれない。この国を変えることにどれほどの意味があろうというのか。どこか静かな場所で、愛する人と心穏やかに暮らすことが出来たなら。


 ギアンテは伏せていた目を少し上げ、差し出された手のひらを見た。土と血で汚れてはいるが、見慣れた剣ダコのある、しかし女性のように柔らかい手。


 何度も何度も、ベッドの上であの美しい手と固く握りあって、愛を確かめた。


「私には……イェレミアス王子に仕える責務がある」


 しかし結局、ギアンテがその手を取ることはなかった。


「私はもう、戻らねばならない」


 そう言って振り返り、村の方に戻っていくギアンテ。


 薄暗い森の中、ヤルノだけが寂しそうに一人、立ち尽くしていた。

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