幸運と勇気を
静謐なリィングリーツの王宮の中。扉の金属音が随分と大きく響くように感じられた。
「お、王子……」
扉を開くと妖精のような美しい顔。その相貌に乗る表情は慈愛に満ちた優しさを湛えている。
一瞬ギアンテはそのノックをした人物がイェレミアス王子なのか、それともヤルノなのか分からなかった。しかしよくよく考えてみれば王子がこの夜分に彼女の部屋を尋ねてくるなどという事などあるはずがない。
「は……入れ。何の用だ」
先ほど王妃を挟んで話をしていた時はヤルノにもイェレミアス王子と同じように接しているギアンテであるが、二人きりの時には相変わらず村の少年ヤルノとして対応している。
「うふふ、やっぱりギアンテは僕と王子の区別がつくんですね。嬉しいなあ」
無邪気に笑って見せるヤルノであるが、実際のところギアンテに区別などついていない。状況から考えてヤルノだろうと予測したに過ぎないのだ。
「その……王別の儀の事は、すまない。完全にノーモル公に先を越された形だ」
部屋に入ってきて促されることもなく椅子に座るヤルノ。部屋には椅子は一つしかないのでギアンテは仕方なくベッドに腰かけた。
「平気ですよ。本来なら森の中のサバイバル教練もするつもりだったんでしょうけど、僕には必要ありません。そんな事の文句を言いに来たんじゃないですよ」
そう言ったきりヤルノは黙って、じっとギアンテの瞳を覗き込むように見た。不思議な魔力を秘めた瞳。深く覗き込むと、そのまま深淵に引き込まれてしまいそうになるような気がする。
しかしこれはヤルノだけの魔力ではない。イェレミアスも、同じような深く澄んだ瞳をしている。手を伸ばせば触れられるような距離に、憧れのイェレミアスがいるような気分になってくる。
「ギアンテは、何が望みですか」
その瞳の向こうに王子の姿を見ていたギアンテは心の芯を射すくめられたような気持ちになって少し仰け反った。
思わぬ醜態を晒してしまったギアンテであるがすぐに持ち直す。もちろん、ここで言っていることは彼女自身のほのかに甘酸っぱい恋心の事を言っているのではないのだ。
「それはもちろん、お前が王子の代わりに王別の儀を……」
「そうじゃありません」
ギアンテの言葉をとどめ、ヤルノは椅子から立ち上がりそしてゆっくりとギアンテの両手を握った。
「ギアンテ自身が、何を望んでいるかという事です」
心の中を覗き見されたような気分になって、ギアンテは顔を真っ赤にして俯く。二回、三回とゆっくりと深呼吸した。何を勘違いしているのだ、心を落ち着けろ。そう自分に言い聞かせる。
「私は、この国を変えたいのだ。生まれつき力を持った者達が自分達の都合で世界の在り方を定め、弱い者を虐げる。そんな社会を、根底から全て、壊してやりたい……」
「そのためにイェレミアスを王に? 随分と遠大な計画ですね」
「お前はまだ分かっていないのだ。国というものがどれだけ強大な存在なのかを。高慢で無能ではあるものの、貴族というものがどれだけ力を持っているかを」
「貴族だって平民と変わりませんよ。僕はね、ここに来るまで、王侯貴族というものは自分達とは全く違う生き物だと思っていました。でも違う。奴らだって平民と同じように血を流すし、首を絞めれば死ぬ」
「ッ……いたい、ヤルノ……ッ!!」
いつの間にかヤルノは強く力を込めてギアンテの手を握りこんでいた。自分自身が珍しく興奮していたことに気づいて、ヤルノは小さな声で謝って、彼女の手を放した。
「いや、こっちこそすまない。騎士とは言っても、所詮は女だ……ちょっと強く掴まれただけで、取り乱してしまって……」
珍しくしおらしい表情をするギアンテ。今度は逆にヤルノの手を優しく握り、その形を確かめるように優しく撫でた。
イルスの村からこのリィングリーツ宮へ来た時、たしかにヤルノの手は王子と同じく柔らかく、少女のような手であった。王子の手も同様であるが、今の手は確かに剣を振っていることで少し硬く、男らしくなっているように感じられた。
「僕は……ギアンテの事が好きです」
最初、ギアンテはその言葉がヤルノから発せられたのだと気づかなかった。
あまりにも静かに、部屋の空気になじむように柔らかい音。それゆえギアンテは今までのように心揺さぶられることなくその言葉を受け止めた。
「だから、ギアンテがそう望むんなら、僕は必ずあなたの願いを叶えたいです」
彼女の深く暗い茶色の瞳に涙がにじんだ。
「私は……都合よくお前の事を利用しているというのに……」
その先は言葉にできなかった。
ただ親から買い取っただけではない。その後イルス村の住人を鏖殺し、焼き払っているのだ。ヤルノはそのことに気付いているふしはあるが、暗黙の了解とばかりに二人ともそのことを口には出さない。
そしてさらにその先……王別の儀が終われば、ヤルノは『用済み』となる。
儀式を受けた人間がイェレミアス王子とは別人だったなどと、万が一にもバレてはならない。
ならば確実に『無かった事』にするための方法は一つしかあるまい。
王妃と騎士は、少年を殺害して陰謀を全て無かった事とすることを目論んでいるのだ。ヤルノが、ギアンテの願いをかなえることなど、出来ないのである。
女としての自分の側面などとうの昔に捨てた筈であった。零れ落ちそうになる涙を拭こうとした瞬間、彼女のものではない指が、それを掬った。
「泣かないで、ギアンテ」
涙をぬぐった指は、そのまま彼女の頬に添えられ、そしてゆっくりと口づけをした。
「だ、ダメ……」
彼女の言葉を封じ、ヤルノはギアンテをゆっくりとやさしく、ベッドに押し倒した。
「イェレミアスの代わりでもいいです。今は僕に身を委ねて」
そしてまた深く口づけをする。落ち着いた手つきで彼女の身に着けている服を脱がしてゆく。それはまさしく、騎士の鎧を外してゆく行為だったのかもしれない。
違う筈なのに。
この少年は自分の想い人ではないはずなのに。だが彼女自身気づいてはいるのだ。たしかにその姿の向こうに王子を見てはいる。しかしそれだけではない。この少年を、王子の代わりではなくヤルノの事を大事に思い始めていることを。
その証拠に、彼の指が触れた部分の肌が、その奥が、じんわりとしびれるように気持ちいい。まだまだ謎の多い少年だ。とても心を通わせあった相手とは言えない。それでも、憎からず思う者に抱かれるというのはこれほどまでの快楽なのかと、ギアンテは頬を熱くした。
もういい。今この時だけは全てを忘れてしまおう、一人の少女となろう。彼女は、全ての考えを頭から追い出し、少年に身を委ねた。
「ギアンテ、僕に幸運と勇気を」




